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「一月十二日の記」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 6月13日(水)14時57分23秒
   庄野潤三さんの最も若い頃、九大学生時代の作品に「一月十二日の記」「雪・ほたる」があることは、すでに早くから知られていました。
 私が1994年に『住高同窓会室所蔵伊東静雄関係資料目録』というものを編んだ際、庄野さんの項にはまず、
  一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
  雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・三)[誤:昭和一九・四に訂正]
  淀の河辺(「午前」昭和二二・二→『伊東静雄研究』)
と書き始め、続いて、伊東さんの亡くなられた昭和28年に、おそらく追悼文の依頼に応えて書かれた
  伊東静雄先生のこと(「詩学」昭和二八・六→『伊東静雄研究』)
  伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
  『反響』のころ(「祖国」昭和二八・七→『庭の山の木』『伊東静雄研究』『現代詩読本』10)
というふうに、記述を進めています。

 「およそ書誌目録というものは必ず自分の目で見たものだけを記さなければならない」と、厳しく戒めたのは誰だったか(谷沢永一? 青山二郎?)まことにそれは至言であって、しかしそれにもかかわらず私の目録では、自ら未見のものもあえて記入せざるをえなかったことに、忸怩たるものを感じていました。

 私の手もとに「まほろば」掲載の「雪・ほたる」をコピーしたものがあります。しかし「一月十二日の記」は、まったく見る手立てがありません。「実見しないものを記すのは違犯である」という定言命題が重くのしかかります。

 庄野さんご自身は、「一月十二日の記」と「雪・ほたる」の内容はみな『前途』に取り込んだ、と言っておられますので、まず『前途』から引用します。

 三月七日
 (中略)室が帰る時、頭を冷やすために電車道まで送った。星空で、僕は「一月十二日の記」のことを考えて歩く。昨日の夜、室が帰ってから、最後の場面にほんの少し手を加えて、今日にでも蓑田に渡そうと思っていた百枚ほどの小説をやめて、一月の末に二晩で書いた二十五枚の「一月十二日の記」を出すことに不意に気持が変り、っそれより必死で取りかかった。
 二月いっぱい、殆ど徹夜の苦労も、全く空しくはない。熟するまでその小説は心にしまっておきたい。「一月十二日の記」、それは冬休みに家へ帰っていた十八日間の最後の一日の朝から夜までを書いたものである。母と阿倍野へ『ハワイマレー沖海戦』をみに行ったのも、この日の主な出来事のひとつであった。(下略)
 三月八日
 朝、十一時起床、それより四時まで原稿書く。今までで十五枚。好調。あとをしっかり書き終えたい。三十枚にはなる。
(中略)
 三月十一日
 小高のところへ昼ごろ行く。松下さんのためのノートを借りに。小高に書けないと云うと、しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持では書けないと云う。
 昼から書き出す。到頭、二時ごろ書き上げる。うれし。
 三月十二日
 朝、小高来る。室の引越の時の写真が出来たのを見せに。よく撮れている。
 三時ごろまでかかって推敲し、夕食後、リュックをかついで下宿を出る。蓑田の家へ寄り、「一月十二日の記」を渡す。


 次に、阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』から引用します。

幸い、昭和十八年一月の末に二晩で書き、三月はじめに書き直したと「前途」に記されている「一月十二日の記」という未発表の小説(冬休みの最後の一日の朝から晩までを書いた三十四枚の作品)をこんど私は読むことが出来た。当時の文章を知るよすがにその一部を引用してみよう。休暇の最後の夜だからと家族にとめられそうになるのを切り抜けてとび出し、郊外電車で伊東静雄の家まで挨拶に行く件りである。

耳原のみささぎ近く、三国ヶ丘に目立たぬ住居なせる一軒の古家の前に、僕は立っていた。標札には、その屋の主の姿勢を思わせるような字で、伊東静雄としるしてあった。とりわけ伊という字は、その人の頭の恰好に似ていた。幾度、期待に胸躍らせてこの標札を眺めたことだろう。そして応え待つ間の気持は、初めて来た日も今も変らなかった。今晩はと呼んで戸を開けると、はい! という澄んだ声が聞えて先生が顔を現わし、客を認めてから、優しい微笑して頷くようにされた。この先生の会釈に逢うと、決って不思議な安らぎを覚え、もうそのまま引き返しても悔ない気持ちになるのだった。先生が嘗て不機嫌な顔をして僕に対応されたのは、一度あっただけだった。(以下略)(p.172)


 「幸い」阪田さんは「一月十二日の記」を「読むことが出来た」のです。そして、これが、私たちの読み得る唯一の部分であると思います。

 庄野さんはのちに『文学交遊録』でも、次のように回想されていますが、内容は『前途』に記されたところを出ていません。。

昼前に島尾の下宿へ行く。小説書けないというと、島尾、「しゃにむに書いてしまうんだ。この一作に全力をという気持ちでは書けない。とにかく書いてしまうんだ」という。昼から書き出す。夜中すぎて二時ごろ、書き上げた。(猪城博之と二人で作る計画の雑誌「望前」に出すつもりでいたこの小説「一月十二日の記」は、冬休みに大阪に帰省した私が、休暇の最後の一日をどんなふうに過したかを書いたもの。夕食が終ってから、母と妹が止めるのを振り切って、堺の伊東先生のところへ行く。そんな話が出て来る。休みの最後の晩だから家族とともに過ごしたいという気持ちと、その日、行きますと伊東先生に話してあった、約束だから行かないといけないというので、気持ちが揺れ動くままに家を飛び出したのであった。)(p.82)

(なお、「雪・ほたる」は七月六日から九月四日までの記事なので、一月の記事および三月七日、十一日の上記部分に対応する記事は存在しない。また『前途』本文も、昭和十八年一月の記事は、一日、二日、三日、四日の次に一月二十日に飛び、「一月十二日の記事」というものは、ない。)

 さて、実は私は、「伊東静雄関係書誌目録」の庄野さんの項を書くにあたって、同窓会室所蔵の資料(現物や複写物)、私の手持ちの若干の資料、『庄野潤三全集』の随筆の巻を読んでの摘出、『伊東静雄研究』その他等を参照して、ひとまず草稿を作り、これを阪田さんに送って点検をお願いし、またもし出来れば庄野さんご自身の校閲を乞えるならば、とお願いしたのでした。阪田さんからは丁寧なご教示をいただき、やがて庄野さんからも直々におハガキを頂戴しました(その一部、画像)。
 「一月十二日の記」は公にはもはや見ることができない、ということが、このようにして確定した次第です。

 次の仕事として、「雪・ほたる」と『前途』の比較対照表というものを作っています。その成果は次回に回しましょう。
 
 

「日本の香りのようなもの」・・・

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 6月 4日(月)11時25分52秒
編集済
  山本様。

 いろいろと大変なご家庭の状況の中でも、『庄野潤三全集』(講談社全10巻)を購読されるという旺盛なお心を持っておられることに感服しました。私の方は、(「体の丈夫な内に老後の整理をして下さい!」という)老妻に強いられてダンボール10箱余りの本を廃棄しました。(老後身辺整理はまだまだこれからが本番です!!)

*庄野潤三(帝塚山派文学会)関係では、下記のような案内がなされています。

   平成30年7月1日(日)13:30 帝塚山学院本部棟 同窓会ホール(予定)
   /特別講演:「父庄野潤三を語る」今村夏子(庄野潤三長女、会員)
 (私は、同会員になっていますが、当日出席できるかどうかは不明です。)

 『庄野潤三ノート』p169に引用されている「『夕べの雲』には、日本のほんとうの一断面…日本の香りのようなもの」があるという(須賀敦子さんの)お言葉は印象的ですね。

(「会話の生きた呼吸」、「家族がその中におかれている世の中の呼吸」、『枕草子』や『徒然草』のように何度読んでも面白い・・・というp164~167にある阪田さんのお言葉と照応して―“まるで同じような事を言って”―いるのでしょうか。・・・)

 昨日(6/3)舞洲「ゆり園」で数百万本の極彩色のゆりの開花を見ました。しかし、それらは切花用に品種改良され上向きに咲くけばけばしい洋花ユリの大群落でした。

 横向きに咲き「日本の香りのする」ヤマユリ、オニユリ、ササユリなどの日本百合は皆無でした。私は、自宅の狭い庭でそれらの日本百合を10数株を育てていますが、レモン色のオニユリ一株が開花しました。7月頃には全株が開花する予定で、路地を通る近隣の方々に、果たして「写真にも映画にも表せない日本の香り」を感じ取っていただけるのか。その時が来るのを楽しみにして、毎日水やりをしています。

 日常茶飯事のなかのおもしろみを「ヒューマン・ドキュメント」として表現し続けた庄野潤三的「眼」というのは、「最も平凡で最も些細な、それこそ池の表面を時折走るさざなみに宝石のような真実の輝きを見出す」と照応するものでありましょう。そのような「眼」や心は、言うは易く体得するのは難しいことのようにも思われます。傍観者、記録者の眼ではなく、善意と明識をもてる“ヒューマン・アイ”を以て、日常茶飯事のなかに“宝石の輝き”を見出せるようになるにはどうしたらよいのか?―日暮れて前途程遠しの感があります。・・・・・「前途程遠し思ひを雁山のゆふべの雲に馳せ、後会期遥かなり纓を鴻臚のあかつきの涙にうるほす。」(和漢朗詠集)

 一陣の涼風に代えて、WEB上にあったやまゆりの写真を添付してみます。(下の「舞洲ゆり園」の写真と比べて観て下さい)

 PS/昼休みに、会社(35階)と同じビル6階にある紀伊国屋で阪田寛夫『庄野潤三ノート』(講談社文芸文庫 2018/5/10発行)を購入して今読んでいます。



 

阪田寛夫『庄野潤三ノート』のこと

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 6月 2日(土)22時43分12秒
   長らくご無沙汰を重ねました。
 今年二月、妻が具合が悪くなり、その介護の過程で私も何度も転倒したりして、ついに老夫婦は進退谷まり、妻を入院させて、私は心ならずも独居老人となりました。
 上村さん、滝田さん、Morgenさん、斉藤さん、ほか掲示板ゆかりの皆様のご健勝を慶賀し、その労にあつくお礼を申します。

 春以来、庄野潤三さんのことや帝塚山派文学会のことが話題になりました。
 先月、新聞広告で、阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』が講談社の文芸文庫で出たことを知って、さっそく購入しました。この本は、昭和50年冬樹社版をすでに持っていたのですが、もうずいぶん前のことなので、なつかしさもあり、文庫版にも目を通しました。そうして、庄野・阪田のお二人ともに対する畏敬の念を増しました。
 潮時ということがあり、それまで何度も逡巡して未だ手が出なかった『庄野潤三全集』(講談社全10巻)を買うことにしました。
 私がまだ伊東稿にとりかからぬ頃に、ナンバの天地書房の店頭で3万円で括ってあるのを見たことがありました。その後ネット上で探せば1万円であるとの知見を得ました。そうしてこの間、あらためて「日本の古本屋」のサイトで、同じ天地書房が6000円で出しているのを発見し、逡巡遅滞なく注文して、無事私の書棚に収まったのが、つい先日、26日のことでした。1冊ずつがなかなか分厚く、第1巻からゆっくり、これから読んで行こうと思っています。

 今日はそんないきさつから、『庄野潤三ノート』にかかわる話をひとつだけ、つぶやいてみることにしました。
 以前、私は、須賀敦子さんが庄野さんの『夕べの雲』をイタリア語に訳し、刊行された訳書を持って庄野さん宅を訪ねた、そのあたりをテーマに、この掲示板へ投稿したことがありました。今、調べてみると、「庄野さんと須賀さん」という表題で、投稿日は2014年1月24日となっていました。
 その須賀さんの翻訳のことが、阪田さんの「ノート」第15章「雉子の羽」の末尾に書かれています。(文章を打ち込むのがめんどうなので、ページの画像を貼りつけます。)
 第15章の当該部分は、庄野全集では第6巻に収められています。庄野全集の刊行は昭和48年で、この頃はまだ須賀さんの文名が轟く前です。阪田さんも「須賀」という姓は書かず、ただ「リッカ敦子さん」と書いているのも、おもしろいと思いました。なんだか他人のようで、「あの」須賀敦子さん、という気配は微塵もありません。しかし、須賀さんの文章を丁寧に引用し、最後の3行のエピソードも欠かさず紹介しているところは、さすがに阪田さんの眼光だと思いました。見事な結びで、「夕べの雲」や庄野文学の本質を語り得て余すところがありません。
 またなにかおもしろいことがあったら書きましょう。
 

「わたしの母校」(毎日新聞5.8)

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 5月10日(木)10時36分39秒
編集済
  上村様から、伊東静雄関連記事の紹介がありましたので、WEB上で探して転載しました。
なお、詩碑の画像は転載禁止になっており、添付できませんでした。(毎日新聞、5月8日版、「わたしの母校 住吉高校/5」で検索すると、デジタル版掲載記事を見ることができます)
<下記URL>ご参照ください。

 住吉高校の校庭には、日本浪漫派の代表的詩人、伊東静雄の文学碑がある。伊東は京都帝大卒業後の1929(昭和4)年に住高の前身・旧制住吉中学に赴任、詩人として名声を博しながらも生涯国語教師にこだわり続け、生徒を指導した。
 碑は82年11月1日、創立60周年を記念して業績と人柄を伝えようと建立された。代表的詩集「わがひとに与ふる哀歌」から「わが死せむ美しき日のために」で始まる「曠野(こうや)の歌」が刻まれている。裏には、学校長名で「伊東静雄先生は 近代詩史に輝かしい足跡を残された ほとんどを本校国語科教諭として過ごし 誠実な授業 厳しい指導で信頼と畏敬(いけい)の的であった」と記す。
 学制改革により48年、隣の府立阿倍野高校に転勤、53年に死去した。46年の生涯だった。住高教師時代の教え子には、ノーベル化学賞(2008年)を受賞した下村脩さんがいる。教師と詩人の「二刀流」を両立させた伊東は、緑に囲まれた碑から、今も住高生の学校生活を静かに見守る。


 

https://mainichi.jp/articles/20180508/ddl/k27/100/363000c

 

藤むらさきの夢匂う

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 5月 1日(火)02時15分24秒
編集済
  4月30日―朝10時に家を出て、宝塚から蓬莱峡経由のバスで有馬へ行き、ロープウェイで六甲山頂を経て、阪急六甲駅に降り、神戸クアハウス温泉に浸かって夜8時に阪急電車で帰宅しました。(妻同伴)

今頃、六甲の渓谷では山つつじの群落が満開ではないかと期待して行ったのですが、実際にはヤマザクラとヤマフジが至る所で満開でした。標高1000米に満たない六甲山ですが、山の春はこれからなのでしょうか。山頂の天気は曇りで肌寒く、半袖のスポーツシャツしか着ていなかったので、早々に下山して神戸の温泉に入った次第です。本当はあちこちの樹木に絡みつくヤマフジの花の群落をもっと観て廻りたかったのですが。

本会の皆様ご存知のように、諫早の詩人風木雲太郎(1年生時の担任教諭)は、諫高校歌で藤の花をうたっています。

  藤むらさきの夢匂う
  若き生命(いのち)花と咲く
  真理(まこと)の春はここにあり

―「(若い希望に溢れて集う諫高生達は)まるで諫早城址に咲き匂う藤むらさきの花のように、その瞳は初々しい夢に輝き、気高い香気が匂うようだ。この学び舎では学業に勤しむ若者たちが才能を育み花咲こうとしており、真の人生の春はここにあるのだ。」(私の個人的読み解きです。)

 果たして <藤むらさきの夢匂う若き生命(いのち)花と咲く>青春時代が自分にもあったのか?(ヤボな設問!)

―今はもう遠い昔のこととなり、わが「藤むらさきの夢」が何であったのかは、色褪せてしまい定かではなくなっています。

 今、わたしにできることは、身辺や日常茶飯事の中に「藤むらさきの夢」を見つけて、一喜一憂しながら余生を全うするということでしかありません。

 今年も、仕事場には多才な新入社員たちが加わり、伊東静雄のうたう新鮮な「四月の風」が吹いているのを肌で感じさせます。

 明日からは五月。―自然は、自らを全山緑一色に染め、夏の猛暑に備えて身構えをしているようです。<われもまた・・・!>

 

帝塚山派文学学会会報第5号

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 4月21日(土)21時42分38秒
編集済
  上村様
「菜の花忌」の模様を伝える新聞記事をお送りいただきありがとうございました。
 “Walking in ISAHAYA”の地図も、観光客の役に立つと思われます。(凡その所要時間を訊かれたことがあります。)

「帝塚山派文学学会会報第5号」がWEB上にありましたのでコピーして投稿します。


  平成29年9月30日(土)午後、帝塚山学院住吉校舎顕彰ホールにおいて第 5 回研究会が 15 人の参 加のもとに開催されました。 発表者は二人で、まず本会会員の湯淺かをりさんが「詩的流れとロマンチシズム――伊 東静雄の中のヘルダーリン」のテーマで発表しました。 湯淺さんは甲南女子大学大学院を修了し、これまでに伊東静雄についてのいくつもの論 考を発表してきた研究者です。学生時代の伊東静雄は、18 世紀から 19 世紀にかけて生き たドイツ・ロマン派の詩人フリードリヒ・ヘルダーリンに傾倒していましたが、湯淺さん は伊東静雄がどのようにヘルダーリンを受容したかを、書簡や処女詩集『わがひとに与ふ る哀歌』中の詩の引用を通じて跡づけました。 もう一人の発表者は本会会員で帝塚山学院大学教授の福島理子さんで、テーマは「詩人 の観照――穎原退蔵の芭蕉研究と伊東静雄」でした。 京都大学国文科を昭和 4 年に卒業した伊東静雄の卒業論文は「子規の俳論」で、その卒 論には最高点が与えられました。そこには穎原退蔵講師の強い推輓があったとされていま す。伊東の卒論中に「白菊の目に立てみる塵もなし」という芭蕉の句に「象徴」性を見よ うとする個所があるのですが、昭和 26 年に刊行された穎原退蔵『芭蕉俳句新講』中の同句 評釈にも「象徴」の語が使われています。ところが昭和 3 年に穎原退蔵が発表した同句の 評釈では「比喩」を使って、「象徴」とは言っていません。この変化は詩人伊東静雄の「観 照」が研究者穎原退蔵に影響を与えたことを意味するのではないか。福島さんの発表はこ の仮説を周到な資料をもって論証しようとするものでした。 なお、上記二つの発表は、来年 3 月刊行予定の『帝塚山派文学学会 紀要』第 2 号に掲 載します。
 

新緑の中ー“SCRAMBLE GRAND ART FES"

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 4月17日(火)22時57分28秒
編集済
   桜花~新緑へと季節が目まぐるしく移り行く中、皆様は恒例の「菜の花忌」行事を終えられて、一息をついておられるところかと思います。

 職場の窓外に広がる大阪駅北口広場も、仮設スケートリンク場~満開の桜~(何かの)イベント会場(?)へと、次々に模様が替えられています。

 今日は、添付写真のようなアニメ風の景色が突如現れ、臨時の遊園地でも開設されるのかと思って説明を読むと“SCRAMBLE GRAND ART FES"の準備と掲示してあります。
 グランフロントビル竣工5周年を記念して、世界的に有名な現代アーティストの作品が広場に展示されるのだそうです。

 連日、沢山の外国人観光客が行きかい、種々の外国語が飛び交うなか、私たちはそれらの賑わいを避けるようにして黙々と仕事をしていますが、こんな雑踏の中に長期間にわたり“芸術”を出現させるというのはなかなかの新鮮な企画です。

 先日は、「帝塚山派文学学会」紀要第2号が送られてきたので、諫早の方にもコピーをお送りしておきました。湯川かをり様と福島理子様の熱心な研究論文が掲載されています。伊東静雄研究者がだんだん少なくなっていく中、貴重であると痛感しつつ熟読させていただきました。読んでみたい方はこの掲示板に投稿してください。

・『詩的流れとロマンチズム―伊東静雄の中のヘルダーリン―』(湯浅 かをり)

・『詩人の観照―潁原退蔵の芭蕉研究と伊東静雄ー』(福島 理子)






https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000206.000005181.html

 

菜の花忌

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2018年 4月 9日(月)09時24分21秒
  寒い季節が過ぎ、今年もその季節が来たのですね。諫早での高橋順子さんの講演聞きたかった。10年ほど前、車谷長吉展が姫路文化館で開かれていて伺いました。その時.鷲田氏との対談は聞いたのですが別な日の順子氏との対談はは聞きそびれました。車谷氏の追悼の著作は最近読んだところです。

現在の混沌とした世界情勢の中、事務局をやっている大阪露文談話会では、4/17日1830、千日前丸福コーヒー店2階でウリツカヤ(1943~)の「通訳ダニエルシュタイン」をとりあげます。全編600p、エピソードのコラージュという手法で描かれていて読むのは大変ですが読後の感動は大きい。今回は初めて方向音痴の私が道案内をしますがどうなりますか。
 

「庄野潤三の文学と帝塚山」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 4月 2日(月)11時19分49秒
編集済
  「庄野潤三の文学と帝塚山」(上坪 裕介)という講演録(帝塚山派文学学会)をご紹介します。

 全文(PDF)を添付すればよいのですが、この掲示板では利用できませんので、興味のある方はWEB上に公開されている講演録をご一読ください。

 講師の上坪先生は、日大芸術学部の新進気鋭の学者で、「庄野潤三研究」を博士論文のテーマにされました。伊東静雄との関連についても、若干言及があります。

 上坪講演の論点のュニークなところは、庄野文学=人間賛歌の文学(喜びの種子を蒔く~理想の場所づくり~根づきの実践~場所の成熟)としてとらえるところにあります。(所謂「トポロジー」的考察)

 庄野潤三さんは、青春時代には(憂愁の深い戦争の)「1940年代」を体験され、戦後を生きる新しい人生観として、“自分自身の手で「喜びの種子を蒔き、根づかせ、成熟させよう”という考え方を固められたとも言えるのではないかと、この講演録を読んで思いました。(国家や社会賛歌~人間賛歌へ)―(お前の憂愁の深さのほどに)、<行って 明るくかしこを彩れ>という静雄詩を私は連想しました。―

 また、庄野さんの「人間賛歌の文学」は、「帝塚山派文学」を代表するの文学の基調ともなっています。

 40ページという長文のため詳細をご紹介することはできませんが、下記URLからダウンロードして、ご一読ください。

 写真は、大阪城公園の葉桜になりかけた“名残りの桜”です。(4/2 スマホ撮影)

https://media.toriaez.jp/y1983/083165017456.pdf

 

初夏の陽気ですね。

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 3月28日(水)23時49分27秒
編集済
  「伊東静雄研究会」の皆様方のご尽力により、第54回「菜の花忌」が盛大に催行されたことを共にお慶び申し上げます。

 今日(28日)は休暇を取って、京都八幡「背割堤桜」の花見をしました。気温が25度近い初夏の陽気のなか、訪れた人々は、桜の並木を通り抜けるやや強い南風を心地良さそうに花見を楽しんでいました。桜はほぼ満開の状態ですが、まだ「花吹雪」は見られず、しっかりと花が枝に着いています。当分は雨も降らないようなので、今度の土日あたりは道路や堤の土手も満員の花見客で埋め尽くされるでしょう。

 事業年度末を迎え、当分は仕事も忙しそうですが、老化に抗うために出来るだけ暇を作って自然に融け込みつつ身体を動かすように努めたいと思います。淀川べりは本当に鶯や野鳥が多いですね。



 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2018年 3月27日(火)11時14分21秒
  3月25日は温かく穏やかな日よりでした。
諫早公園中腹の詩碑の前で、第54回「菜の花忌」が開催されました。

献詩  真城中学校3年  阿比留 大和さん 「挑戦」
       鎮西学院高校2年  藤原 早恵さん  「Faith」(信頼)

詩朗読  諫早コスモス音声訳の会 中路 美知子様 「夜の停留所」
        詩人          田中俊廣様  「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」
                                                     (チェーホフ)

その後場所を変えて、諫早観光道具屋で第28回伊東静雄賞の贈呈式が行われました。
今回伊東静雄賞を受けられたのは、鹿児島市在住の山之内 ? 様です。
                   作品は、「きょうだい」

記念講演の講師は、詩人・高橋 順子 氏でした。
演題は、「詩と小説の間」
 

三国ヶ丘菜の花忌(堺市)

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 3月 8日(木)17時25分8秒
編集済
   すっかり春らしくなりました。
 先日は、三国ヶ丘菜の花忌(堺市)に参加しました。五月を思わせる陽気の下、旧堺灯台~宿院(「ちく満」蕎麦店)~三国ヶ丘と歩いて、何枚かの写真を撮りました。

 当日の講演者は、前褐のとおり帝塚山派文学学会副代表の高橋俊郎さんでした。「帝塚山派」と言われる文学者たちの相関関係について、詳細な説明がありました。

 そのレジュメにあった(添付写真1)左端の秋田実さんと伊東静雄が何となく似ているように見えたので添付します。(左から秋田実、長沖一、藤澤恒夫)

 『帝塚山派文学学会 紀要』に、伊東静雄に関する研究(添付写真2参照)が発表されているようですので只今取り寄せています。届きましたらコピーをお送りします。(同会事務局の八木様よろしくお願いします。)
 

菜の花忌ご案内

 投稿者:上村  投稿日:2018年 3月 6日(火)12時00分3秒
  ご案内  

伊東静雄菜の花忌(堺市i)

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 3月 3日(土)00時26分50秒
編集済
  堺市中央図書館の行事・催し物欄に次のような記載があります。

伊東静雄菜の花忌
詩人・伊東静雄の命日「菜の花忌」にちなんで、帝塚山周辺に住む大阪の作家たちとの関わりをテーマとした講演会を開催します。講師は、帝塚山派文学学会副代表の高橋俊郎さん。また、詩の朗読やミニコンサートを行います。
3月4日(日曜) 午後2時から4時 (受付:午後1時30分から)
三国丘幼稚園(北三国ヶ丘町4丁1-12)で。参加費500円。直接会場へ。先着60人。
問合せは、中央図書館(電話:244-3811 FAX:244-3321)か、けやき通りまちづくりの会(川添 電話:232-1362 問合せ時間:午前8時から午後8時)へ。
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2018年 3月 1日(木)15時06分34秒
  ようやく寒が極まったようです。
諫早公園の大寒桜の蕾みがふくらみ、ピンク色が鮮やかになってきました。

2月24日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第119回月例会を開催した。
会報は、113号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「雷とひよつこ」「子供の絵」「夜の停留所で」

会報はつぎのとおり。

1  「静雄ノート」  (10)                                青木 由弥子

                                              「千年樹 73号」より転載

2 詩  「新帰郷者」                  原 子朗


3 詩  「龍」                                   高塚 かず子

                                       「あるるかん」2017.2より転載

4 詩 「あなたなんかと」「才能」「誰」「夕日が畳に」    高橋 順子

                      1997年読売文学賞受賞の詩集「時の雨」より転載

    高橋さんは、3月25日の伊東静雄賞贈呈式において、記念講演の講師を務められます。
    演題は、「詩と小説の間」です。楽しみですね。
                                              以上

 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2018年 2月15日(木)15時51分43秒
  1月27日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第118回月例会を開催した。
会報は、112号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「小さい手帖から」「野の樫」「露骨な生活の間を」

会報はつぎのとおり。

1  評論 「伊東静雄の花と雪 4」   了                   饗庭 孝男

2 読み方                                          伊東 静雄

「....自分は古来の和歌を毎日二、三首づつ読むことを、忙しい日の読書法としてゐる。」
                                      <大阪毎日新聞 昭和18年9月12日>

   私も見習いたいものです。

3 ワシントンのうた  (抄)                            庄野 潤三

      恩師伊東静雄の思い出

4 詩 「故郷」                                   ヘルダーリン
                                                 川村二郎 訳


5 「古典落語が好き」                                   龍田 豊秋

               <毎日新聞長崎県版 はがき随筆 平成29年12月20日掲載>


6 詩 「露骨な生活の間を」                              伊東 静雄

                              昭和24年1月1日「新大阪新聞」発表

                                          以上
 

「まちのにぎわい」づくり(湖北・長浜)

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 2月12日(月)16時38分46秒
編集済
    昨日(2月11日)、滋賀県長浜市(人口約12万人)恒例の『長浜盆梅展』を観に行きました。
 樹齢200年を超えるような老樹が何本も展示されており、白梅や紅梅が見事に開花しています。雪が降ったりやんだりという天気の下でも、遠方からの見物客が多く、例年通り賑わっています。盆梅展期間中は展示物の入れ替えもあるので、回数券を買って来られるお客様も多いそうです。

 江戸初期に(真宗大谷派長浜別院)「大通寺」の寺内町として拓かれた旧市街地区には、昨日も沢山の観光客が訪れて、お祭りでもやっているのかとかん違いするほどの賑わいを見せていました。「黒壁スクエアー(ガラス館、オルゴ-ル館・・・)」などがあって、特に若い観光客が多く、有名な和菓子屋の喫茶店には、若い男女の行列ができていました。そこで珈琲を飲むつもりでしたが、あきらめて土産だけを買って帰りました。別の和風喫茶店に入ると、お座敷の縁側に樹齢400年の老梅が蕾をつけていました。この文化財的老樹を守っておられる吉田さんから色々な話を聞かせていただきました。手作り草餅の上品な甘さに、吉田さんとわが老妻が「これは美味しい。」としきりに共感しあっていました。(花より団子です。)

  長浜市役所が「まちのにぎわい」づくり補助金(一軒当たり最高500万円)などの施策によって、古民家や街並みの保存に力を入れて、観光客誘致を促進してきたことも繁盛の一因でしょう。それよりも、もともと商売上手な住民パワーを誘導し、熱意、創意工夫を活かした「まちのにぎわい」づくりがなされています。「まちのにぎわい」づくりの成果を上げているモデル地区、他の都市も長浜市の経験に学ぶことが多いのではないでしょうか。

 湖北・長浜は、今日~明日と「吹雪」の天気予報が出ており、まだまだ厳寒が続きますが、咲き誇る盆梅の花はすでに春の到来を告げており、曇天の合間に、時々照りつける太陽はとても冬のものとは思えないほどの強烈さです。春がすぐ近くまで来ていることを実感します。

  蓬莱にきかはや伊勢の初たより  はせを
 (盆梅展会場の「慶雲館」の庭に建立されている日本最大10トンの芭蕉句碑)

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ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2018年 1月22日(月)10時59分34秒
  12月23日午後2時から諫早図書館2階に於いて、第117回月例会を開催した。
会報は、111号。

今回は、伊東静雄の詩3篇を鑑賞した。
「路上」「都会の慰め」「明るいランプ」

会報はつぎのとおり。

1  第28回伊藤静雄賞受賞作品 「きょうだい」     山之内 ?                鹿児島市在住

2 評論 「伊東静雄の花と雪 3」                      饗庭 孝男

3 詩  「原子のかなしみ」               山之内 ?


4 「長崎まで」      (2)               野崎 有以

5 藤山増昭さんの詩集 「命の河」が出版されました。

    帯文 以倉紘平・装画 吉永裕・発行所 株式会社編集工房ノア
    定価2,000円+税
                                          以上

いよいよ本格的な冬の到来です。
皆様、御身をお大切に。
 

米田義一様のご冥福をお祈りいたします

 投稿者:上村紀元  投稿日:2018年 1月12日(金)11時46分21秒
  米田義一様のご逝去に謹んでお悔やみ申し上げます。

 昨年10月、新生(臼井喜之助編 第一輯・第2輯 昭和15年)の写しと、依田義賢詩集「冬晴」上村肇詩集「地上の歌」(いずれも昭和16年ウスヰ書房刊)のご恵贈にあずかりました。
 米田様との御縁は、山本皓造様を通じ、伊東静雄原作「美しい朋輩達」映画題名「美しき朋輩たち」の件で
ご教授賜りました。箕面高校紀要 楓6号にこの映画の詳細について著述されています。

 いただいたご書簡に「伊東先生の詩碑を訪ねて諫早公園に赴いたのは何年前だつたか、もう数へることもできません。また、新しくできた美原図書館わきのは体力が衰えたので訪ねて行くことは多分ないでしょう。
 ついでながら、大阪市阿倍野区松虫通りの詩碑は、拡張されて車の往来が繁しくて風情の乏しい大通に面してゐますが、むかし丸山小学校に在学してゐた当時同級生の家がすぐ傍にあつてしばしば遊んだところです。そこはまた、住吉中学校在学当時の登下校に歩いた道筋にあり、その辺りを伊東先生がよく散歩なさつたといふのが十分納得できて満足です。(後略)」

 前述の「冬晴」「地上の歌」も今や希少本となりました。いずれ諫早図書館に寄贈したいと思います。米田様のご厚情に感謝申しあげご冥福をお祈り申し上げます。合掌
 

映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと(再掲)

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 1月11日(木)23時22分39秒
編集済
  米田義一氏のご逝去を悼み、ご冥福をお祈りいたします。

 山本皓造様(2008年 7月15日 投稿)の“映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと”が(no55のところで)見つかりましたので、(深夜のため山本様には無断ではありますが)再掲させて頂き、同文章を初見の方々とも共有したいと思います。


<投稿者:山本皓造  投稿日:2008年 7月15日(火)13時41分44秒>

  昭和3年に「御大礼」を記念して、大阪三越の主催、大阪毎日新聞の後援で児童映画脚本の懸賞募集が行われ、伊東静雄がこれに応募してみごと第一等をかち得たことは、すでによく知られています。
 私は、上村紀元さんが「掲示板アラカルト」の記事で、美しき朋輩たち→美しい朋輩たち が正しいようです。(当時の報道 大阪毎日新聞)と書いておられることについて少し疑義が生じたのがきっかけで、米田義一さんにお尋ねしているうちに、大変な仕事を仰せつかりました。

 以下、その任を果たすために、この稿を出します。
なお、米田義一さんは住中19期、この映画に関して、次の2篇があります。
・資料紹介「映画見たまゝ『美しき朋輩たち』(伊東静雄原作)その他」(「果樹園」204号、昭和48.2)[米田Aと記す]
・「美しき朋輩達」のゆくえ(「楓」6号、昭和49.7)[米田Bと記す]
またこの掲示板でも一度、2007.8.20の私の投稿で、お名前を出したことがあります。

                        *

「キネマ旬報」(昭和3.12.1)に掲載された梗概が小高根二郎氏によって紹介されて、映画『美しき朋輩たち』の内容の半ばが明らかになりました。しかるに「キネマ旬報」の記事では、「原作者・壁静」とされていて、小高根氏はこれを「ひどい改変」「大変な冒涜」と叱咤したものです。
 次に米田Aによって、「サンデー毎日」(昭和3.11.25)に載せられた、より詳しい梗概が紹介され、小高根氏も同じ内容を『生涯と運命』で引いています。ただ、米田Aは、この記事が、原作者を<伊東静雄さんといふ人です>と正しく書いていることを紹介しているのにたいして、なぜか小高根氏はこの事実にふれていません。米田氏はなお、新聞広告について原作者表記を調べたところ、阪神3紙では<伊東静雄氏原作>、東京2紙では<壁静氏原作>となっていることまで確かめ、「したがって伊東静雄の名は、映画「美しき朋輩たち」の上に、少なくとも京阪神では正しく冠されていたのであり、全く隠蔽されたり抹殺されたりしていたのではなかったのである、しかし、ひとしく<大阪毎日新聞社懸賞募集当選児童映画詩>などと謳いながら、地域により原作者名を筆名化して伝えているのは何人のどんな意図と必要によるものであろうか」(米田A)と、その事態の理由経緯を明らかにすることができなかったのでした。

 A稿の後米田氏は、前に「児童映画座談会」(「映画教育」昭和4年1月、2月)における稲田達雄氏の発言が、映画「美しき朋輩たち」の原作のすぐれた片影を正しく伝えている貴重なものと考え、苦心の結果稲田氏の住所をつきとめて、文通で教を乞いました(昭和49年2月)。そうしてその結果報告として、米田Bを書かれたのでした。
 稲田氏は、前掲座談会当時は大阪毎日新聞社「映画教育」担当記者で、三越の懸賞募集の審査にも当たり、その後も一貫して映画教育運動にかかわって来られた人です。ただしこの時には、「壁静」問題についての明確な回答が稲田氏からは得られませんでした。
 さて、米田Bを脱稿、公表した後、同じ年(昭和49年)の9月になって、米田氏は稲田氏からの手紙を受け取りました。そこで「壁静」問題の解明が果たされていたのでした。
 稲田氏の米田氏宛書簡では、松竹大谷図書館所蔵の「蒲田週報」「キネマ旬報」「松竹七十年史」がいずれも原作者を「壁静」としていることを記したあとで、その解明が述べられています。以下は直接、稲田書簡を引きます。

 <昭和49年9月20日付米田義一氏宛稲田達雄氏書簡(部分)>

[前略]この壁静については、このたび大船行きを思いたった機会に、雑誌「映画教育」の旧号をひっぱり出して目を通しておりました際に、第六集(昭三・八月号)に所載の「御大礼記念児童映画脚本募集」の「募集規定」の中に「原稿はすべて匿名とし別に住所氏名を記して添付し云々」とあるのに、いまさらのように気づき、「美しき~」の原作に伊東氏は「壁静」という匿名を使われたのではないか、きっと、そうにちがいないと思ったことでした。
 前記「蒲田週報」(宣伝パンフレット)や「松竹七十年史」をはじめ、「キネ旬」、関東での新聞の封切広告等、すべて壁静[傍点]となっているのは、原作の原稿に壁静と署名されていたことによるのではなかろうか。それというのも、失礼ながら当時としては「伊東静雄」に別にネームヴァリューがあるわけでもなかったし、原作―脚本―台本等を通じて、原作者は壁静[傍点]が踏襲され、それが新聞雑誌等への発表にも用いられた、ということではなかろうか、では、関西ではなぜ伊東静雄という実名が使われたか――については、関西ではすでに大阪毎日新聞紙上の当選発表の社告や記事によって原作者は伊東静雄ということが一般に知られているから、伊東静雄[傍点]を使ったのではなかろうか。[後略]

<2008年7月6日付山本宛米田氏書簡(部分)>

[前略]稲田氏が気づいて教示してくださったこの重大なことを、今の今まで長いあひだ忘却してゐました。すでに「『美しき朋輩達』のゆくえ」を昭和四十九年の五月六日に脱稿して印刷発行済みでしたから、その後紹介報告の機会のなかったまま、職務多忙に紛れて忘却してしまったもののやうです。稲田氏に申しわけないことであります。一日も早くこれを全国の伊東静雄読者に周知させたいと思ふのですが、私の通信の次号は秋以降になる見込みで役に立ちません。お願いします。この件をあなたの名で、上村氏主宰のウエブ掲示板か何かに報告発表してくださいませんか。条件としては、稲田達雄氏が私宛書簡に示された見解であることを明記してくださることのみです。そして私の方は、あなたの方の報告発表をプリントでいただいた上で、小通信の「あとがき」に釈明的に触れることにしたいと思います。[後略]

                        *

以上で、米田さんからの委託を果たしたことにしていただこうと思います。
なお、稲田氏から米田さん宛昭和49年2月16日付の分に、伊東氏の原作の題名は「美しい朋輩達」でしたが、映画の題名は「美しき朋輩たち」としたものと思われます。
との指摘があり、私もこれに従うべきものと考えます。
 

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