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伊東静雄・庄野潤三・富士正晴

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年12月 7日(金)18時59分0秒
   このトリアーデの成立の端緒は昭和17~18年頃に遡るらしい。
 庄野は「ボタンとリボン――追悼富士正晴」(『誕生日のラムケーキ』)で、

 富士正晴『極楽人ノート』の「庄野潤三と島尾敏雄」のはじめに、「庄野潤三と島尾敏雄はいずれも詩人の伊東静雄がわたしに紹介して来た文学青年であり」
 としるしてある。


と記し、先ず富士の言を引いて、その端緒についてはもう記憶があいまいであるが、とことわりつつ、筆を継いでいる。

 庄野が引いているのは、富士の『極楽人ノート』(六興出版、昭和54年)に収録された「庄野潤三と島尾敏雄」という文章で(『富士正晴作品集一』所収、、初出は「海」1976年10月号)。はじめの引用のあと、富士は標題どおり、さまざまな視点から庄野と島尾を比較し、そこへ伊東静雄も出没しつつ、興味深いエピソードが次々に並べられる、全文を紹介したいほどおもしろい一文であるが、今回は断念して、庄野の「ボタンとリボン」に戻ろう。

 庄野と伊東、庄野と島尾、島尾と伊東等の、それぞれの「なれそめ」はいわば周知の事柄であるが、庄野と富士の通交のはじまりは、あまり知られていない。富士みずからも、前掲の文章では「伊東静雄の紹介」というだけで、そのいきさつや時期については記すところがない。
 そこでまず、庄野の語るところを、少し長くなるが、引用しておこう(「ボタンとリボン」より)。

 富士正晴『極楽人ノート』の「庄野潤三と島尾敏雄」のはじめに、「庄野潤三と島尾敏雄はいずれも詩人の伊東静雄がわたしに紹介して来た文学青年であり」
 としるしてある
 その通りだが、最初どんなふうにして伊東静雄が私を富士さんに紹介してくれたのであったか、はっきり思い出せない。私が九州の大学から休暇に大阪へ帰省していたときのことであったような気がする。その頃、私は休暇で帰って来ると、毎日のように堺の伊東静雄先生のお宅へ遊びに行っていた。伊東静雄は住吉中学で国語を教わった先生であり、私は大阪外国語学校英語部三年の春休みにはじめて堺東の先生のお宅を訪ねて以来、通い馴れた道を行くようにして大阪帝塚山の自宅から堺市三国ヶ丘の岡の上の先生の家へ出かけて行った。
 富士君の家へ行ってみましょうと或る日、伊東静雄がいったのだろうか、帝塚山の私の家から歩いて行けるところに富士さんの家があった。北畠の東の方、阪南町のあたりだろうか。そうして私は伊東静雄にくっついて富士正晴の家を訪問し、二階の富士さんの仕事部屋へ招じ入れられて、伊東静雄と富士さんの交す会話を聞いていたのだろうか。古い日記を探してみれば、あるいは見つかるかもしれない。もし九州の大学在学中のことだとすれば、戦争中の昭和十七年の春あたりだろう。富士さんが兵隊で中国へ行っていた時期と重なったら、私の記憶は間違っていることがはっきりする。
 (中略)
 また、昭和十八年五月に私が九州から東京へ出かけて西巣鴨の林富士馬の家に泊めて頂いたとき――ついでにいえば詩人の林富士馬を私に引き合せてくれたのも伊東静雄であった――、大塚の駅まで迎えに来てくれた林さんが私と並んで歩き出すなり、
「富士さんが来て、昨日までうちに泊っていました」
 といったのを覚えている。
 私が富士正晴を知っているのは当然のことだろうという口ぶりであった。それを聞いて私が「富士さん」って誰のことだろうと思わず、多分、富士正晴のあの独特な風貌が目の前に浮んだに違いないところを見ると、十八年五月までに私が伊東静雄に家まで連れて行って貰って富士正晴に会っていたことは、おそらく間違いないだろう。


 庄野の伊東に連れられての富士宅初訪問の、年月、および富士の住所について、手元の資料をあたってみる。

 まず、廣重聰氏作成の「富士正晴年譜」(『富士正晴作品集五』)によると、

昭和十三年 大阪府庁をやめる(辞令八月二十三日付)。京都に下宿(吉田上大路)。時々、大阪の家〈西成区鶴見橋。母が洋裁店を開いていた)に帰る。
昭和十五年 母は衣料品不足のため洋裁店を閉め商店街から住吉区北田辺に転居。
昭和十七年 この年、阿倍野区昭和町に転居。
昭和十九年 二月二十八日、召集令状来る。…三月三日、徳島で入隊。五月二十一日、徳島発、中国大陸へつれていかれ華中華南を桂林の近くまで行軍してあるく。


 他方、『定本伊東静雄全集』の「書簡」の部で富士正晴宛のものを探すと、

昭和十五年二月十二日付(書簡番号一五六) 宛先 大阪市住吉区北田辺八三七[北田辺宛の初出]
昭和十八年六月二十七日付(書簡番号二五一) [北田辺宛の終り]
昭和十八年八月下旬(書簡番号二五四) 大阪市阿倍野区昭和町中三ノ五(昭和町宛の初出)


 庄野は「阪南町のあたりだろうか」と言い、他方、前掲の資料では「昭和町」が正しいようにも思える。拙著に記したように、伊東静雄が結婚して営んだ新居は「阪南町中三丁目二〇」であった、ここから100メートルばかりも東に歩いて行くと、昭和町中三丁目である。どちらにしろ、北畠からは東の方角にあたり、さして違いはないようなものである。北田辺八三七は、今となってはもう同定の労をとる気力体力がない。
 年月については、富士年譜が十七年昭和町転居といい、伊東書簡が十八年になお北田辺宛で発信されている食い違いが、説明できない。まったくの憶測であるが、昭和十八年に住吉区から阿倍野区が分区新設され、町名地番の変更もあったので、あるいは住吉区北田辺八三七がたんに町名地番の変更で阿倍野区昭和町中三ノ五になった、という可能性もあるかもしれない。

 なお、庄野が「富士さんが兵隊で中国へ行っていた時期と重なったら」と記した危惧は、富士の入隊が昭和十九年三月であり、庄野はこれより先、昭和十八年十二月に大竹海兵団に入隊しているので、庄野の心配は意味がなくなった。

 伊東は何を思って庄野を富士に会わせたのだろうか。当時庄野は、自分でもいっているとおり、詩人でも小説家でも何者でもなかった。富士は同人誌『三人』を切り回したり、竹内勝太郎の詩集を刊行したりしていたが、高名には程遠かった。伊東のみが『わがひとに與ふる哀歌』『詩集夏花』の受賞で名を上げていた。三人でどんな話をしたのだろうか。富士が陽気にしゃべり、伊東がびしりと言い、庄野はほとんどもの言わずに黙って傾聴している、という図が目に浮かぶ。年齢差もある。庄野は富士の八歳下、富士は伊東の七歳下であった。(この稿つづく)
?
 
 

第12回菜の花フォーラム

 投稿者:伊東静雄研究会  投稿日:2018年11月30日(金)09時32分51秒
  伊東静雄生誕112年 第12回菜の花フォーラム ご案内

日時 平成30年12月8日(土)午後1時30分~
場所 諫早市図書館 視聴覚ホール

内容 1、伊東静雄を歌う 女声コーラスたんぽぽ
      *曠野の歌 *燈台の光を見つつ *春の雪 *燕

   2、講演 詩人山田かん・夢想左翼的な習作期
       講師 山田貴己氏(長崎新聞生活文化部長)

   3、講演 伊東静雄の「詩索」と15年戦争
       講師 田中俊廣氏(活水女子大学教授)

主催 伊東静雄研究会

     入場無料・お気軽にご参加ください。
 

「冬仕度の季節」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年11月27日(火)12時51分12秒
編集済
  今年も「伊東静雄賞」の発表があり、いよいよ「冬仕度の季節」に入りました。
我家は、台風21号で傷められた屋根の修繕のためにやっと工事人が来てくれています。

明治維新150年記念NHK大河ドラマの『せごどん』も終盤を迎え、諌高同窓会の大先輩で関西支部長をなさっていた故毛利敏彦教授(大阪市大)が生涯をかけて力説された“『明治六年政変』のシーンがどのように表現されるのか?” 大いに興味を持ってTVを観ていましたら、西南の役後に明治政府により造られた公定歴史書(在来説)によらず、ほぼ史実に適合するように(毛利説*)構成されています。(天国の毛利先生も少しはご満足いただいたでしょうか…)

*「在来説と毛利説との最大の相違点は、在来説が西郷隆盛は明治六年秋に征韓実行を期したとみなしたのにたいして、私は、政変時の西郷には征韓の意思が希薄であり、むしろ日朝両国間の修好実現を目指して朝鮮派遣使節を志望したはずだと解釈したところにある。換言すれば、征韓の是非を巡る政見の対立が政変の主因であるとの見解に疑問を呈したわけである。・・・・・」
(『明治維新の政治と権力』吉川好文社 27~28頁から引用)


今年は岩倉具視の「実相院」に行く予定だったのですが、予定を変更して台風21号で多数の倒木や崖崩れのため通行禁止になっていた箕面の滝に行って見ました。あちこちで杉や欅の大木が無惨に折れて、箕面川の渓谷を塞いでいます。大勢の観光客が押しかけており意味不明の外国語があちこちから聞こえてきます。普通の滝道は人で混雑しているので、私達は山道を歩きましたが老妻には少しきつかったようです。「この程度の山道が歩き辛くなくなったら我々の生残時間も先が見えたという兆候やね! それを知るために毎年一回は滝まで上ることにしようか。」などとしゃべって励ましながら無事完歩しました。

寒さに向かう折から皆様のご健康と『菜の花フォーラム』のご成功をお祈りします。

 

第29回伊東静雄賞

 投稿者:伊東静雄顕彰委員会  投稿日:2018年11月16日(金)19時21分22秒
   国内外から1106篇の応募が寄せられ、選考の結果下記の作品が第29回伊東静雄賞に決定いたしました。

  「母のパズル」  花潜 幸氏 (東京在住)

贈呈式は平成31年3月31日 諫早市で「菜の花忌」終了後に行います。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2018年11月13日(火)11時38分9秒
  山本皓造様

ご丁寧にありがとうございます。
研究とは、このようにきめ細やかに、大切に行っていくものなのだと、あらためて感銘を受けました。
学ぶばかりですが、ひとこと、お伝えさせていただきたく、ご返信申し上げます。
 

クリムト、ムンク

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年11月13日(火)11時30分53秒
  その折に私は、新聞か何かで見たようなうろ覚えで、「ムンクとか、クリムトとかも来るという記事をどこかで見た」と、書きました。幻覚ではなく、ほんとに来るみたいです。
ムンクは先日朝日新聞で2面の大きな広告を出しましたので、ご覧になったかと思います。
記事の画像を付けます。
東京まではとても行けない……
 

お詫びと訂正

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年11月13日(火)11時22分0秒
  突然ですが、「庄野さんの伊東書誌・補遺」に大きな脱落があるのをみつけました。申し訳けありません。『文学交友録』の次に、1行を追加・挿入します。
前回の訂正(「野の花」→「野の夜」)を含めて、終りのほうの数行を書き改めて投稿します。お手数ですが、よろしく。

『文学交友録』新潮社、平成七・三(「新潮」平成六・一~一二)
私の履歴書(「日本経済新聞」一九九八・五・一~五・三一 → 『野菜讃歌』講談社、一九九八・一〇)
「光燿」のころ(季刊文科、平成一二・夏 →『孫の結婚式』)
伊東静雄「野の夜」(「新潮」平成一三・二 →『孫の結婚式』)
林富士馬さんを偲ぶ(「文学界」平成一三・一一 →『孫の結婚式』)
初対面のころ(「新現実」平成一四・一 →『孫の結婚式』)
『ワシントンのうた』文芸春秋、平成一九・四(「文学界」平成一八・一~一二)
 

藤田嗣治「戦争画」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年11月13日(火)11時05分17秒
編集済
   上村様

 「菜の花フォーラム」案内、田中俊廣教授の新聞寄稿(写)などをお送りいただきありがとうございました。「藤田嗣治展」(11月3日)で観て来たばかりで、田中教授の「戦争画」コメントは興味深く読みました。

 当日展示されていた「戦争画」のうち印象に残っているのは「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」の2点です。

 「アッツ島玉砕」は、米軍の写真をもとに想像で描いたと言われていますが、古典的な西洋画の手法で描かれており、リアリズム戦争画として優れた絵だという印象が残りました。「サイパン島…」のほうは、軍から提供された写真などの資料に基づいて(軍の依頼で)描かれたものだそうで、こちらは明確な戦争協力絵画です。真珠湾では巧くいった奇襲攻撃が、アッツ島では情報筒抜けで全員玉砕となった悲劇の絵画です。その真迫力はものすごくて、全国巡回展示され軍部のプロパギャンダに利用されました。

 これらのの事跡は「戦争協力責任問題」を引き起こし、日本画壇は画家の「戦争協力責任」を藤田一人で被ってくれと迫ってきました。そのことに嫌気がさして藤田嗣治はパリへ戻ったのだという説明がしてありました。

 戦後アメリカに接収されたこれらの絵画は、無期限貸与の形で日本に返されており、東京国立近代美術館で展示されているそうです。(写真は、WEB上に公開されていた写真を参考のために添付しましたが、実物は重厚感にあふれた古典的なリアリズム絵画です。是非実物御一見を)

 

https://cardiac.exblog.jp/18590525/

 

「芸術家の強烈な個性の変遷」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年11月 4日(日)00時06分43秒
編集済
   山本様のご投稿「 池沢茂さんのこと」を拝読して、『伊東静雄研究』に掲載されている「詩人とサラリーマン」「日のあたるグラウンドで」を再読してしてみました。「詩人とサラリーマン」は、昭和4年から晩年までの伊東静雄との交わりを追悼して、昭和28年5月に書かれたものであります。池沢さんの目を通して観察された伊東静雄という詩人の(日常生活での)ナマの個性が描かれているように感じました。

 今日は、京都国立近代美術館で没後50周年記念「藤田嗣治展」を観てきました。藤田嗣治の全生涯の作品を俯瞰しながら、一面では世界的な「芸術家の強烈な個性の変遷」のようなものを感じました。

 やはり、天才的な詩人や画家と呼ばれる人は、詩を作るのが上手だとか、きれいな絵が描けるとかの才能や技術があるというのは勿論でしょうが、それにもまして大事なのはその人にしかない強烈な個性が作品に表現されているかどうかなのだと思いながら、展示されている絵画の一点一点をじっくり鑑賞してきました。

 フランスに渡った初期(1914年~)には、ピカソの真似をしたり、シンプルな風景画やなで肩の少女の寂しい絵を描いていますが、やがては淡色(乳白色)の絵の具で塗りつぶした裸婦像に、浮世絵の縁取りのように墨筆で輪郭や目鼻を描いたり、猫の絵をを描き加えたりしています。
 後期には金箔銀箔を用いた障壁画のような重々しい絵画や宗教画、戦争画も描き、一生を通じて変化の多い多彩な絵画描法を展開しております。(日本の洋画家達はこれを人気取りのための通俗的手法としか見なかったのです。) 工芸や彫刻、陶芸までやっており、晩年には教会(お堂)まで作っています。今日一日で藤田嗣治に関する既成概念がすっかり改まりました。

 東山方面の樹々もそろそろ色づき始まており、来週あたりは大勢の観光客が京都に押し掛け賑わうことでしょう。

 youtubeに藤田画伯の生の声というのがありましたのでURLを添付してみました。

 PS:11/4 AM1:00~1:50 NHKTV「よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」の再放送がありました。(録画済み)

https://www.youtube.com/watch?v=3KTn0ievscM

 

「野の夜」と、池沢茂さんのこと

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年11月 2日(金)18時50分38秒
  お詫び:先に投稿した「庄野さんの伊東書誌・補遺」のうち、『孫の誕生日』所収の「野の夜」を、誤って「野の花」と記してしまいました。おまけにうっかりしてクッキーを削除してしまったので、「自分の投稿の編集」ができません。然るべく訂正してお読みいただくか、もしくは管理者権限で修正をしてくださるよう、お願いします。

 庄野さんは、「『反響』のころ」(『研究』所収)で、「小さい手帖から」以下の、伊東の戦後詩篇群の成立事情を、詳細に追っています。のちに庄野さんは、このうちの「野の夜」を単独に取り上げて、「『反響』のころ」を再引しながら、思い出を反復し、その成立事情について、次のように記しました。

「「野の夜」が書かれたのは、終戦の翌年の昭和二十一年の夏のことであった。私の「『反響』のころ」によると、二十一年七月、難波の小学校であった阿部知二の講演会を聞きに行った私は、会場で伊東先生と会い、講演が終ったあと、心斎橋の喫茶店に入って、私はコーヒー、甘いもの好きの先生は「ぜんざい」の券を買ってしばらく話をした。このとき、先生は「座右宝」に送った近作の詩の「夕映」を出して見せて下さった。「夕映」と「野の夜」の二つを送ったといわれた。「野の夜」の方は、その前、勤め先の住吉中学からの帰りに帝塚山にある私の家に寄られたときに原稿のまま見せて下さった。そのころ、私は結婚したばかりで帝塚山の父母の家で暮していた。先生はそのころ、勤めの帰りによく私のところに寄って下さった。
「野の夜」については、
「三年ぶりに初めてゆうべ徹夜して書いた」
と話しておられた。」


 ついで、北余部のお宅のこと、お地蔵さんのこと、詩「夕映」のことについての短い回想があり、その流れで、筆は池沢茂さんの思い出へと移って行きます。

 「伊東先生の住吉中学での教え子で、私より何年か上級の池沢茂さんが、「野の夜」に出て来る萩原天神の田舎家をはじめて訪問したときのことを書いた文章が、『伊東静雄研究』(思潮社)に出ている。中国大陸での兵役から無事帰国した池沢さんが配給のお酒を持って先生のお宅を訪ねた。詩人志望の池沢さんは、住吉中学のころ、私と同じように夜ごと三国ヶ丘の先生のお宅を訪ねて、文学の話を聞いた方である。
 久しぶりに来た池沢さんを、伊東先生は、「こんな遠いところ、忘れずによく来てくれたなあ。ほんとに、よく来てくれたなあ」
 と何度もいって、それこそ踊り上るようにしてよろこんで迎えてくれたという。
 池沢さんが帰るとき、先生は小さな男のお子さんを抱いて、途中まで見送ってくれた。日は落ちて、田圃や畑や小川は夕やみに包まれかけていた。このとき、伊東先生は、
「さようなら、また来てくださいよ。さようなら、さようなら、また来てくださいよォ。さようなら、さようーならぁ……」
 と、子供と一緒に手を振り、なんべんも声を張り上げて呼んだ……と書かれている。
 ここのところを読んで、私は胸を打たれた。」


 池沢さんは住中六期、庄野さんの七年上になります。私は池沢さんとは面晤の機会がありませんでしたが、例の「書誌」を作成する際、その採録について書面でお願いをして、お返事をいただきました。

「御書簡いただき、遠い昔の過去が亡霊になって現れてきたように驚きました。それほど今は当時の文学や詩とは大きく離れたところに住んでいるのでしょうか。火災で全焼したこともあって資料などいっさい残っておりません。私の作品として目録に上げられているのも、あまりにも浅薄な理解や心情で書かれているので、すべて抹消していただきたいと思っているほどです。お志に添えるお返事が書けなくて済みません。御健勝を祈ります。」

 私は当時、最終的には「書誌」に記載された文章をすべて集めて一冊の書物にまで仕上げたい、と<夢想>していましたので、池沢さんはおのずとその気配を察して、今更自分の書いたものを改めて人目にさらすことはしたくない、との意を伝えられたのであろうと思います。
 しかし私は、池沢さんの、あまりにも謙虚な物言いにうろたえてしまって、長いこと逡巡をかさねた挙句、私的な思いをつけ加えて、長いお礼状を出しました。
 その長い手紙の中から、私が花子夫人から聞いた、池沢さんにかんするエピソードを記した部分を、抜粋します。

「……先日、堺の伊東家を訪問した際、奥様はこんな話をして下さいました。「池沢さんが来られますと、静雄はひと言も口をきかないんですよ。何か言ってあげればよいのに、私なんかは、ハラハラしながら見ておりました。池沢さんも、池沢さんで、これもひと言もものを言わず、黙って正座して、膝に拳を当てて、二時間でも三時間でも、じっと黙って座っているのです。そうしてやがて池沢さんは、ボソッと挨拶をして、帰って行かれるのです。ほんとに、なにか言ってあげればよいのに、と思って見ておりました。」
おそらく池沢様は、体が熱くなる思い出だ、と言われるかもしれません。けれども、これをお聞きしたときの私の思いは、違いました。きざな言い方で、筆が進みませんが、あえて記せば、その時伊東先生は、言葉であしらえない、池沢少年の魂の大きさを、もてあましておられたのではないでしょうか。奥様も決して、軽い憐憫の情で言われたのではなく、常とは異なる伊東先生の気配を感じておられたのだと思います。右の話を奥様は、まるでつい今し方、池沢さんがボソッと挨拶をして帰って行かれたような鮮明さで、語って下さったのでした。」


 今回の「書誌」ではとりあえず、タイトルだけを集めて並べたものになる旨をお伝えして、了承していただきました。
 「書誌」では、池沢さんの文献としては3点を挙げています。
  ・詩人とサラリーマン(「祖国」昭二八・七→『伊東静雄研究』)
  ・テニスをする詩人(「果樹園」三号、昭三一・三)
  ・日のあたるグラウンドで(「果樹園」三八号、昭三四・三→『伊東静雄研究』)
 このほかに池沢さんは、上掲の「果樹園」三号から始まっておよそ七〇号に至る、ほとんど毎号に、ご自分とお子様の生活記録のような文章を連載しておられます。私の記憶には、その「人」と「文」の、脆くも清らかな印象が、鮮やかに残っています。
 今、この文章を書いていて、ふと、伊東先生が「子供というものは、かわいいというよりは、かわいそうなものだ」と言われたと、庄野さんが書きとめている挿話を思い出したのは、なぜでしょうか。
 

戦後の真っ暗闇の田舎道で…

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年10月23日(火)00時35分24秒
編集済
   伊東静雄、住吉高、諫早高、長崎大などとご縁のあられた下村脩さんが19日、長崎市内で老衰のために亡くなられました。心からご冥福をお祈りいたします。

 「家族総出の発光クラゲ採り」をはじめ、戦後の実験道具や機材が乏しい中で、ご苦労を重ねられて、1960年には蛍光たんぱく質「イクオリン」を発見され、さらに1962年にはGRFの分離、精製に成功されました。それは、その後の生命科学において不可欠な細胞マーカー「標識」として使われ、人類への貢献を果たしたことにより2008年のノーベル賞につながりました。

 「子どもの絵」が発表された1949年頃といえば、北余部あたりでは実際に「ウシドロボウやゴウトウ」がいたのかもしれませんね。「萩原天神から十二、三町の、遠いまっすぐな田舎道には、追剥が出るといわれた」と、地元の方から直に聞いたことがあります。
 私も少年の頃、真っ暗闇の田舎の山道を一人で歩いたことが何回もありますが、いつも大声で歌いながら小走りで暗闇を駆けた遠い記憶が残っています。

 朝夕は随分涼しくなってまいりましたので、皆様、くれぐれも風邪をひかないようにご自愛ください。
 

「子供の絵」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年10月20日(土)17時46分34秒
編集済
   庄野さんの随筆集『ぎぼしの花』(講談社、昭和60・4)に「子供の絵――伊東静雄回想」という一文が収められています。いうまでもなく、伊東の『反響』にある、「ウシドロボウダ、ゴウトウダ」の、あの詩を取り上げたものです。
 伊東の原詩を引用するより、ここでは庄野さんの紹介ぶりを見ていただきましょう。

 …昭和二十四年七月に発表された「子供の絵」。疎開地に住みついてという副題が附いている。赤いろにふちどられた、大きな青い十字花が、つぎつぎに一ぱい宙に咲く。きれいな花ね。沢山沢山とお母さんがいうと、ちがうよ、おほしさんだよ。
(子供がおしゃべりをしながら絵をかいてゆくその様子が、オペラのアリアの二重唱をきくように、はっきりとよく分る。)
 このまん中を線がよこぎって、遠く右の端に棒がたつ。それが、それで、野の電線と分る。ひしゃげたような哀れな家が、手前の左の隅っこに、そして細長い窓が出来る。その下は草ぼうぼう。
 家をかいてしまったそのあとは、たちまち余白がくろく塗りたくられ、晩だ、晩だ、ウシドロボウダ、ゴウトウダ。目をむいたでくのぼうが、前のめりに両手をぶらさげ、電柱のかげからひとりフラフラやって来る。くらいくらい野の上を、星の花をくぐって。……


 紹介と書きましたが、これはほとんど100%、伊東の原詩そのままの引用です。ところが、庄野さんの引用を透して見ると、庄野さんの声や、笑顔や、温かさや、体臭までもが、これらの文字から伝わって来るように思えるのです。
 庄野さんはこれに少しばかり説明を加えています。北余部に辛うじて手に入れた「屋根と柱だけで満足に戸障子のない廃屋」の様子、「おとうさんの窓」とは何か、萩原天神から十二、三町の、遠いまっすぐな田舎道。
 つらく貧しかった暮らしにも、一家こうしてそろって暮らせるという喜びがあります。実際、この「廃屋」に移る前、伊東の一家は菅生の菊井さんのところの六畳ひと間を借りて暮らしていました。敗戦直後のこのような時期にひと間を提供してくれる菊井さんの厚意と温情は、まことに貴重なものであったにはちがいありません。それでもやはり、他人の家の一隅で暮らすという気づまりは、また感謝とは別に、否めないものであったでしょう。私はそのように想像して、拙著では
「北余部は少しはマシな家に移ったというよりもむしろ、菅生での間借り生活から来る無言の圧迫から伊東家の人びとの心を解き放ったことが、大きかったのではなかろうか。」
と書きました。(花子夫人は私の草稿のこの部分を読んで、「然り」と書き添えてくださいました。)
 解き放たれた伊東の詩心は、「小さい手帖から」にまとめられた作品群を次々に生み出して行きました。詩を書くこと、詩が書けるということそのものが、歓びでした。その声はもはやかつてのように「美しく輝く太陽」の下で「わがひと」に捧げられた「哀歌」のようにねじれた姿ではなく、「夕映」というもうひとつの光輝の中で、「ねがはくはこのわが行ひも/あゝ せめてはあのやうな小さな祝祭であれよ」という絶唱として、祈りという形で、人の世に差し出されたのです。庄野さんの筆もおのずと、村の十字路の小さい石の祠、そこに集う幼い者ら、白いどくだみの花、子供たちのままごとめいた遊び、日々の彼らの祝祭、へと移り、やがてあゝ、せめて、と、あの祈りを呼び出すのです。
 なお庄野さんは、この詩が「夕映」であることについて、何か胸騒ぎのような心を感じたかのように、随筆の末尾を、次のように締めくくっています。

いつだったか、自分はいつの間にか亡くなった伊東先生と同じ年になったと思ったことがあったが、それからまたひと昔たった。去年が没後二十五年であったからまたひとつ年を加えて、この三月で二十六年になる。

 伊東の死は48歳、この稿発表の昭和54年3月には、庄野さんは満58歳でした。

参照:
 小高根二郎『詩人 伊東静雄』新潮選書、p.341-3
 岡本勝人「現代詩のはじまり――伊東静雄と戦後詩人たち」(「イロニア」第7号 1995年1月 p.27-8)

[添付の「絵」は、私が
昔、ノートノの端に落書きしたものです。]

http://

 

ありがとうございました

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年10月13日(土)22時27分7秒
編集済
  山本様ありがとうございました。

 建国記念日、秋分の日前後に東京出張することがありましたら、新宿から小田急に乗って生田まで行ってみます。徒歩でもタクシーでも駅からの道は分かりやすいですね。

 今日は、家内に誘われて映画『日日是好日』を観てきました。映画を見ていると、樹木希林さんがまだ生きておられるような気持ちになりました。毎日が、新鮮な驚きや感動に充ちた好い日であればよいとは、誰しもが願うことではあります。樹木希林さんのように、女優でありながらあまり傍目を気にせず、迎合もせず、自らの意志を貫いて生涯を全うするなどということは、真似しようとしてもできることではありません。
 “全身がんに罹りながら、がんを切り捨て、片目を失い、強靭な意志力で個性的な演技を貫く―その命の強さはどこから生まれたのか?”このような自問にたいして、私は、数日前に読んだばかりの竹内勝太郎氏の次のような一文を思い出しました。

 「懶の気ー贅物を吐き出し、切り捨てるということ。…かようなものこそもっとも純粋な芸術ではないか。自己の贅物を吐き出すということは、それだけで死に肉迫するということであり、身を以て、死を征服してゆくことだから。これ以上に強い、そして深いものはあるまい。」(竹之内静雄『先師先人』講談社文芸文庫20~21頁から)
 

「山の上の家」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年10月13日(土)14時36分5秒
   以前紹介しました、『庄野潤三の本』(夏葉社)に挟み込みの紙片があって、「山の上の家」の今後の利用について、述べられています。公開は年2回、とのことです。Morgen さん、ご参考に。  

「生田の山の上」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年10月12日(金)10時46分42秒
編集済
   先日(9/13)、小田急線で川崎方面を通過しました(厚木市の三井倉庫に用があった)折に、庄野潤三さんのお宅のことが脳裏に浮かびました。

 実は、ネット上で下記のような文章を見つけましたので、もし「庄野潤三記念館」的な展示でもされているのならば立ち寄ってみたいと思っていたのですが、続報が見つかりませんでしたので、今回は立ち寄りませんでした。
 山本様の「書誌」補遺はプリントして御本の巻末に貼り付けておきました。ありがとうございました。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[・・・・・]なお、「山の上の家」の今後の利用については、敷地内に居を構える龍也家族が中心となり何らかの形で読者の皆様のお役に立つ方法がないか模索中です。例えば、父の仕事の現場に直接触れることで、作品への理解を深めて頂くようなことが出来ないかと考えています。

これからも皆様の傍らに父の作品があり、日々の生活に彩を加える一助として頂けるなら家族として優る幸せはございません。
どうか良き一年をお過ごしになられますように。

                 平成29年12月1日
                       庄野龍也
                       今村邦雄
                       今村夏子
 

庄野さんの伊東書誌・補遺

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年10月11日(木)18時30分27秒
編集済
   Morgen さん、斉藤さん。ごぶさたしています。
 Morgen さんはプーシキン美術展へ行かれたのですね。よかったですね。わたしも前から、行きたいと思っていたのですが、電車に乗って中之島まで行くのがつらいので、断念しました。ウイリアム・モリスも来ているし、わたしは夢を見ているのかもしれませんが、ムンクとか、クリムトとかも来るという記事をどこかで見たような気もします。
 さて、本題。

 庄野潤三さんが自ら「随筆集」と呼んで数えておられるものが、『自分の羽根』から『孫の結婚式』まで、計10点あります。
 また、「生田の山の上」に残された老夫婦の日々を綴った小説が、『貝がらと海の音』から『星に願いを』まで、計11点あります。
 ここまでを、古書で買い集めて、読了しました。
 いずれも興味深く、また、「庄野潤三と伊東静雄の通交」として語り得る材料がいくつもあるのですが、それらは追って(書ければ)書くことにして、今日はさしあたり、ひとつの仕事結果を投稿します。

 拙著『伊東静雄と大阪/京都』の巻末に載せた、住高同窓会室所蔵資料目録の「書誌」のうち、庄野潤三の部分の補訂版です。旧稿に重ねて修正・追加分を緑字で記しました。(この種の仕事は、これで終わりということがありません。単行本で未読のものもまだ20点ほどあります。掲示板の読者で、お気づきの点がありましたら、どうかご教示をいただきますよう。)

* 一月十二日の記(昭和一八・三 未発表)
雪・ほたる(「まほろば」昭和一九・四)
淀の河辺(「午前」七号、昭和二二・二 →『伊東静雄研究』)
伊東静雄先生のこと(「詩学」昭二八・六 →『伊東静雄研究』)
伊東先生の手紙(「プシケ」昭和二八・六)
『反響』のころ(「祖国」昭二八・七 →『庭の山の木』、『伊東静雄研究』、「現代詩読本」一〇)
かの旅――伊東静雄先生のこと(「文学界」昭和三〇・九)
伊東先生(「三田文学」昭和三一・四、「住中住高同窓会報」第八号、昭和三四・七に「伊東静雄先生」として再掲 →『自分の羽根』『全集一〇』)
自由自在な人(筑摩書房『鴎外全集第二巻』月報、昭和三四・二 →『自分の羽根』『全集一〇』)
<抹消>伊東静雄先生(「住中住高同窓会報」第八号、昭和三四・七)
思ひ出(「果樹園」三八号、昭和三四・三)
日記から(『伊東静雄全集』ノート、昭和三六・二 →『自分の羽根』『全集一〇』、『伊東静雄研究』)
伊東静雄全集から(「新潮」昭和三六・一一 →『庭の山の木』)
中村地平さん(「龍舌蘭」昭和三八・八 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
詩三つ(「新潮」昭和四一・一一 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
伊東静雄の手紙(『手紙の発想』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
日本語の上手な詩人(『詩の本』昭和四二・一〇 →『クロッカスの花』『全集一〇』)
伊東静雄・人と作品(『日本詩人全集』第二八巻、新潮社、昭和四三・一 →『庭の山の木』)
「漂白」(『日本詩人全集』第二八巻 →『伊東静雄研究』)
『前途』、講談社、昭和四三・一〇(「群像」昭和四三・八 →『全集七』)
伊東静雄のこと(「東京新聞」昭和四六・三・一一 →『庭の山の木』)
伊東静雄先生(住高「創立50周年記念誌」、昭和四七・一一)
雲雀(「東京新聞」昭和四九・七・一五 →『イソップとひよどり』)
昔の友(新潮社・三島由紀夫全集附録 昭和五〇・四 →『イソップとひよどり』)
詩集夏花(皆美社しおり、昭和五〇・八 →『イソップとひよどり』)
磯の小貝(「新潮」昭和五一・三 →『イソップとひよどり』)
好きな詩(「俳句とエッセイ」昭和五一・四 →『御代の稲妻』)
水溜り――伊東静雄没後二十五年に(毎日新聞 昭和五三・三・九 →『御代の稲妻』)
春浅き――伊東静雄(『昭和詩歌俳句史』毎日新聞社、昭和五三・四 →『御代の稲妻』)
子供の絵――伊東静雄回想(「朝日新聞」昭和五四・三・一二 →『ぎぼしの花』)
近況(朝日新聞 昭和五四・一一・一八 →『ぎぼしの花』)
「百千の」(ZENON 秋季号、昭和五九・九 →『ぎぼしの花』、「おおさか あべの」昭和六〇・三)
伊東静雄(『日本近代文学大事典』講談社、昭和五九・一〇)
喜びの種子をみつけて(「朝日新聞」夕刊・余白を語る 昭和六三・四・一 →『誕生日のラムケーキ』)
近況(「阿倍野の杜 住吉中学卒業五十周年記念文集」平成一? →『誕生日のラムケーキ』)

『文学交友録』新潮社、平成七・三(「新潮」平成六・一~一二)
「光燿」のころ(季刊文科、平成一二・夏 →『孫の結婚式』)
伊東静雄「野の花」(「新潮」平成一三・二 →『孫の結婚式』)
林富士馬さんを偲ぶ(「文学界」平成一三・一一 →『孫の結婚式』)
初対面のころ(「新現実」平成一四・一 →『孫の結婚式』)
『ワシントンのうた』文芸春秋、平成一九・四(「文学界」平成一八・一~一二)
 

プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年10月 8日(月)22時31分20秒
編集済
   台風25号が逸れてくれたので、中之島の国立国際美術館の「プーシキン美術館展―旅するフランス風景画」を観てきました。

 モスクワのプーシキン美術館が所蔵する17世紀から20世紀の風景画65点が展示されています。

 初来日となるクロード・モネの《草上の昼食》(1866年)は、印象派の誕生前夜の作品。26歳のモネが、女性のドレスに強烈な黄色や白色を分厚く塗って、樹々の間から漏れてくる強い太陽の光を表現しています。(少し異常なほどの強烈さは、実物じゃないと解りません。)
 1872年に描かれたといわれる「印象・日の出」が、「印象派展」(1874年)に出品されて、「印象派」がスタートしたと言われていますが、こちらは、私達にもおなじみのお落ち着いたモネ風のトーンです。(今回の展示品ではありません。参考のために添付)

 その他、ルソーの《馬を襲うジャガー》やロラン、ブーシェ、コロー、ルノワール、セザンヌ、ゴーガンらの作品が展示されています。

 図録や映像では見ることのできない分厚く塗られた絵具に込められた画家の思いなどを感じられて、実物ならではの迫力があります。
 フランス近代風景画オムニバス展とも言えそうな軽快さを感じました。
 

空気のように「

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2018年 9月24日(月)21時17分10秒
  Morgenさまおひさしぶりです、台風大変でしたね。私の近くの堺市では停電と信号器が倒れて復旧にだいぶかかったようです。こういう時いつも当たり前に享受している電気、水道、ガス、交通、病院と日頃、空気のように思っていることの有難さを思います。私が眠っている間にもそのために尽力している人々のことを。  

「備えあれば憂いなし」とは言うけれど

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 9月20日(木)11時59分9秒
編集済
  齊藤様。お元気でいらっしゃいますか。

 北海道の全道ブラックアウトの原因が(北電弁明により)だんだん明らかになってきました。

 少し冗長な話になりますが、(IDCを例にして)実際に、会社が現場で行っているBCP(事業継続計画)対策を、簡単に言うと次のようなことになります。(私的説明)

 普通は電力会社の送電幹線は、例えば北回り線、南回り線と二重化(冗長化)されており、受電側の電源も2個着けられています。福島原発崩壊時の東電の例では、南(太平洋)回り線停電、北(日本海)回り線で停電なしという送電状況で、当社の西新宿などにあるIDCは停電がありませんでした。
 万一、電源断の場合は、まずUPS(蓄電池)が自動的に立ち上がることになっていますが、さらに発電機に切り替えます。その際に末端機器に影響が出ないかどうかを、現場では実際にスイッチのON、OFF試験をして、動作を点検しているのだそうです(UPSは月1回、発電機は年1回)。

 IDCは約五千KWH(受電量)という電流多量消費施設ですから、スウィッチノブ(分散化されている)を手で回すのにも慣れが必要になるのでしょうね。また発電機も48時間動かすと一旦停めて、潤滑油を注油することが義務付けられており、連続運転のためには数台の予備発電機が必要になります。(今回は、タンクローリー一台分の潤滑油を東京で調達し、フェリーで北海道まで輸送しました。)
 また、情報系においてもネットワーク機器や光ケーブルも、電力同様に二重化(冗長化)されています。

 ところがそのためには多額の設備投資が必要になりますので、予算や経費節減の都合などにより、危機発生の確率(地震発生確率、降水量確率など)を甘く想定して、「まさか、そんなことは起きないだろう。」と、ややもすると企業や公共事業においてBCP対策を怠る傾向があります。(技術陣の声が経営陣に反映されないこともある。)

 その「まさか?」が次々に起こっているのが最近の「連続災害」ではないでしょうか。(甘い判断をしたり投資をケチった人災であり、それらの全てが必ずしも法律で義務化されているわけではなく「違法」ではなくても、BCPという摂理を侵犯したことに起因する「天罰」と言えるかも知れません。)

 我が家の方も、取り敢えずは復旧または養生をして、「まさか」に備えた強化をしなければならないのですが、ご近所にはもっとひどい被害を受けられた家が多数あり、なかなか屋根工事業者の順番がまわってきません。読売新聞社写真部から「私の投稿写真を載せてもいいか」というメールが来ましたが、あれから半月以上経ってしまい人々の関心も薄れてしまっています。

 当HPの趣旨からは外れてしまいましたが、齊藤様のご投稿に寄せて、時局的な情報共有の一助になればと投稿させていただきました。

 

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34979370U8A900C1L41000/?n_cid=TPRN0011

 

夏の終わり

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2018年 9月18日(火)09時22分59秒
  私も工場の電気屋をやっていたので特に電子機器の電源が途切れるとその後の対処に大変だっつたこと思い出しました。特に電源を入れた時に必ず異常になる機器が出るのです

今年の暑さは大変なものでした.(台風もこの影響で通常とは違った進路をとっているように思います。)
灼熱の高校野球も終わり一抹の寂しさを覚える今日この頃です。
伊東静雄の詩「八月の石にすがりて」「夏の終」「夏の終わり」を味わっております。
また2007.7 堺の大浜に建立された詩碑「灯台の光を見つつ」を寄贈された丸三楼雪稜庵の島田氏を想いながら。
 

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