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「父庄野潤三を語る」(今村夏子さん)

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 4月22日(月)23時11分15秒
編集済
  山本様 ご投稿を拝読させていただき、相変わらず壮んな研究心を持ち続けておられることに感銘しました。

 先日、帝塚山派文学学会から『紀要第三号』が送られてきました。その中に、今村夏子「父庄野潤三を語る」という講演録が掲載されています。(帝塚山~石神井~生田の丘と三つの時代に分けて、家族の中で父がどういう人であったかを長女が語るという形のお話です。)もしお手元に届いていないようでしたらコピーしてお送りします。

 なお、同会の本年 7 月以降の行事予定を見ると次のように書かれています。(参考まで)

  2019 年 9 月 29 日 第 10 回研究会
    発表Ⅰ「長沖一関連」(永岡正巳) (13:30 より)
    発表Ⅱ「伊東静雄関連」(下定雅弘)

 2019 年 11 月 16 日 文学講座第 7 クール
    第 1 回「阪田寛夫の宝塚-1」(河崎良二)

 2019 年 12 月 15 日 第 11 回運営委員会(11 時より)第 11 回研究会
    発表Ⅰ「庄野潤三関連」(西尾宣明) (13:30 より)
    発表Ⅱ「庄野潤三関連」(村手元樹)

 間もなく待望の10連休がやってまいります。何処か高い所(御嶽山中腹?の予定)に登って、令和元年(5月1日)の黎明を見ようかと考えています。
先日(14日)は、奈良国立博物館で藤田美術館展を見た後、佐保川堤防に植えられた延々5キロ続く桜並木の開花を見て歩きました。(添付写真)
 今は、どこを見ても新緑一色、爽やかな「4月の風」が吹いており、我が家でも、筑紫シャクナゲの盆栽が満開を迎えています。
 
 

饗庭孝男「庄野潤三論」

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 4月20日(土)23時12分2秒
編集済
   古い掲示板を読んでいて、Morgenさんの投稿から、饗庭孝男さんに「庄野潤三論」があることを教わりました。それの載った『批評と表現 近代日本文学の「私」』(文芸春秋)を探し、Amazonのマーケトプレイスにあるのをみつけて取り寄せ、先日それが届きました。Morgenさん、ありがとうございました。
 単行本での標題は「経験と自然――庄野潤三論――」、初出誌は「文学界」昭和53.11。

 昭和53ー54年というと、講談社の10冊本庄野全集はすでに出ていますが、『貝がらと海の音』にはじまる晩年の「山の上」の「老夫婦」の日常を綴ったシリーズが書かれるのはまだだいぶん先のことになりますし、それ以前の豊穣なエッセイや紀行群もまだ出ていません。したがって饗庭「庄野潤三論」が見ているのは、庄野さんの制作歴のおよそ前半期ということになります。それゆえ、饗庭さんの「庄野潤三論」は、その対象である「庄野潤三」がまだ完結していない、その時期に書かれたものであることを、留意しておく必要があるでしょう。

 論は次の言葉から始まります。

「文学における影響とは、資質上の類似を内発させることではなかろうか」

 これをやや性急に敷衍すれば、次のようになるでしょうか。

「もし庄野潤三に伊東静雄からの文学上の影響があったとすれば、それは、伊東の持つ詩法や思想や生き方を、外から注入された、というようなものではない。そうではなくて、それは庄野が本来有していた、伊東との資質上の類似を、自ら開拓し発展せしめたのである」

 それでは伊東と庄野の資質上の類似とはどういうものか。

 こんなふうに問い詰めるのは、悪い癖かもしれません。
 庄野は、はじめて堺に伊東の家を訪ねて以来、まったく変わることなくひたすら伊東を師として仰ぎつづけた。創作上の具体的な指導を受けるとか、悩みを打ち明けるとか、そういうことは少しもなかったが、詩人として歩むその時々の伊東の姿は常に庄野の目の前に見えていた。
 伊東は庄野の小さな作品を読んで以来、この少年に好もしい美質を発見し、以後小説家として成長してゆく姿を見つめ、見届けていた。
 それだけで、その事実だけで、十分なのではないか。

 しかし、ここで止まっては、ものを考えることにはなりません。
 饗庭さんは考えたのです。その末に、――あらかじめ結論を先に言ってしまうことになりますが――庄野潤三が「内発」させたものの内実を「経験と自然」という語で表わしました。その裏側で饗庭さんは、伊東の詩歴を検討して、そこにもまた、伊東には伊東の「経験と自然」に到達する歩みのあることを読み取っていました。
 ここには「対応」があり、それを「類似」というなら、それよりもいっそ庄野びいきの立場に立って、むしろ「共鳴」と呼んでみたい気もします。
 ただ、「経験と自然」というだけでは、いかにも言葉が足りません。饗庭さんもほぼ40ページにわたって、言葉を尽くして説いておられます。私は、以下ではもう少しゆっくりと、饗庭さんの「論」を読み解いてみたい。時間は、――それほど多くはないかもしれないが――、まだ、ある。

    ----------------------------------------

 青木さんの投稿で、「菜の花忌」の写真を拝見しました。ありがとうございました。
 田中先生もお元気そうだし、伊東掲示板の皆様もお元気そうで、なによりです。
 諫早は、もう一度行きたいが、無理でしょう。
 遠くから便りの届くのを待っています。
 またぼちぼち書いて行きます。
 

菜の花忌

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2019年 4月 6日(土)09時25分38秒
編集済
  はじめて菜の花忌に参会させていただきました。
市をあげて、郷土の詩人を偲ぶ、あたたかい会でした。静雄が呑むと泣き上戸だった、という話を聞きましたが・・・しっかりもののお姉さまの話も。
静雄は、奥様もしっかりものであったよし、薪の明かりを読んでも、そういう女性に憧れていたのかな、なんてことも思いました(笑)

写真を少し。
菜の花忌 手前は田中俊廣先生
受賞者花潜幸さんの挨拶
 

「四月の風」(仲春令月時和気清)

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 4月 4日(木)11時41分11秒
編集済
   いよいよ「仲春の令月」。われらが「和(倭)国」では、満開の花々咲き匂い、「四月の風」が清々と吹く、まさに1880年程大昔の後漢の詩人「張衡」が「時は和にして気は清し」と「帰田賦」に書いたのに似たような快適至極な雰囲気の中で、「改元」のご時世を迎えることができることを、共に慶び合いたいと思います。

 例年のことではありますが「四月の風」の吹く頃には、仕事場にも新入社員が加わって、新緑の樹木の匂いのような空気が漂います。「大きな夢を抱いて社会へ飛び立つ青年」というイメージは、懐かしくもあり羨ましくもあります。
官民あげて「働き方改革」が喧伝される昨今の世相の中で、彼らは「この上なく自由にされた気になって」いるのか、あるいは青年達の凛々しい顔面は「見せかけ」でしかないのか?―「老いすぎた私」には分かりません。

 昼休みに大阪城公園の桜を観に行きましたが、数十台の大型観光バスでやってきた沢山の外国人観光客が、堀端をぐるりと包囲しています。「群れ咲く桜」を愛でるのは日本人独特の嗜好かと思っていたのですが? 20人ほどの一団が和服で正装をして、雪駄を履き信玄袋を持って歩いています。「“醍醐の花見”の様な風流な茶会でもやっているのかなァ。」と思っていましたが、聞こえてくる言葉は全て中国語でした。

 「令和」という新年号の発表を聞いて、「うるわしき大和」「クールジャパン」などという言うキャッチフレーズが直感的に脳裏に浮かびました。しかし、日本人が外国向けにアッピールしたい「美点・良さ」「クールさ」と、外国人たちの感じ方には少しギャップがあるような気もします。「クールジャパン機構(海外需要開拓支援機構)」が破綻に瀕しているのも、そのような感覚ギャップに起因するのかもしれません。政治家達の「巧言令色」の令とならないように、監視しなければなりません。


 いずれにしても、これからは「令和」の時代を生き、「令和」の時代にわが生涯を閉じることになります。全般的には「和様」を基調にした、分かりやすく、肩のこらない風潮が流行りそうな予感がします。「ストレスフリーな老後」の期待と言えるかもしれません。

―「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
 

「さては時ぞと思うあやにく」(早春賦)

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 3月25日(月)01時20分25秒
編集済
  「伊東静雄菜の花忌」が目前に迫り、心からご成功をお祈りします。

 先日、老妻がハンマーダルシマという楽器で「知床旅情」らしき曲を練習しているので、題名を尋ねてみると「早春賦」だということです。メロディーがそっくりなので驚きました。

 私は、月末にかけて北海道出張予定なので、念のために札幌の天気予報を調べてみると、雪やみぞれが降る想定外の寒さです。
  <3月28日 曇一時雪 0℃~3.9℃ 3月29日 曇一時雪 -1℃~2.0℃>

 しかも、行き先が日本海沿いの石狩新港地区なので、吹き付ける風雪に備えて服装も背広の上から冬用のマウンテンジャケットを着用し、リュックを背負って行くことにしました。(「知床旅情」ヒットによる知床ブームの後、リュックを背負った北海道旅行者が「カニ族」と称されたことを懐かしく思い出します。半世紀も昔の話ですが。)

 北国の春の「雪の空」は、童謡・唱歌として作詞された「早春賦」の2番の歌詞の情景を連想させます。1番は「春は名のみの風の寒さよ」と分かりやすいのですが、2番は文語調で歌詞が固く、意味も難解ですね。「早春賦」は童謡・唱歌として大正2年に作られたそうですが、果たして子供たちはその意味が分かったのでしょうか?(作詞者は吉丸一昌—大分臼杵の出身。安曇野を訪れたときの思いを歌ったそうです。「賦」は漢詩の歌。)

・・・・・・・・・・
春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく (*)
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
(*)「さては、(種蒔き等をする)春が訪れたのかと思ったが、それは生憎早とちりであった」(拙訳)
添付写真は我が家の菜の花、玉之浦、桜などです。

http://

 

「あるかんでもよか隊に!」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 3月 5日(火)11時09分56秒
編集済
  今年も「菜の花忌」を目前にして諫早の皆様はお忙しいことと拝察します。

 堺三国ヶ丘の菜の花忌は詳細不明のまま、私は今回は不参加に終わりました。

 また、諫早高校同窓会関西支部から醍醐寺ハイキングのご案内(3/30)を頂いたのですが、仕事で出張中のためこちらも残念ながら不参加。
 同HPをあけてみると「あるかんば隊」→「あるかんでもよか隊」に!変えるとあります。(美術館でも映画館でも暇があれば付き合いますよ。)

JR大阪駅地下街の花屋に「春の雪」と銘する蘭の小鉢を売っていたので仕事場のテーブルに飾りました。同駅前の植え込みの「菜の花」と合わせて画像ファイルに添付してみます。

 いよいよ春が来ました。思い切り駆けて、新しい風を満腔に吸い込みたい気分ですね。

<私たちも旅人>夫れ天地は、万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。而して浮生(ふせい)は夢の若し。歡を為すこと幾何ぞ。古人燭を秉(と)りて夜遊ぶ。良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。況んや陽春我を召すに煙景を以てし、大塊我に仮すに文章を以てするをや。(李白)
 
 

菜の花忌

 投稿者:上村紀元  投稿日:2019年 2月26日(火)11時28分1秒
  伊東静雄顕彰委員会  

鶴見橋商店街

 投稿者:大垣 陽一  投稿日:2019年 2月24日(日)20時32分49秒
  投稿されている見事な諸先輩の示される文章に接し、私なりの感慨をいつも憶えています。そして、私の幼い頃の記憶を想い出すと共に、伊藤静雄という詩人に巡り逢えた幸運を喜びます。富士正晴氏が嘗て、大阪・西成区、鶴見橋に住まわれていた事などを知った事などは、この掲示板に一層の親しみを憶える喜びです。私にとって、鶴見橋(商店街)は懐かしの町であります。当時、住まいがその近くにありましたが。父の号令の下。連れられて、母や弟と共に夕食後に、何する訳でも無いのですが、本当によく鶴見橋には出かけたものでした。本当に貧しいい一家でしたが夜の散歩をする家族でした。何故にあんなにもよく出掛けたのでしょうか・・・?。鶴見橋、花園など、西成区の地名を認めるとあの当時の町の様子が今も、私の眼に浮かびます。そんな父も今は亡く、母も老いの介護に頼る毎日です。いずれ、私も同じ状況になるのは確実です。そんな、私は、高専に進み、高野晃兆、中尾治郎吉先生に巡り合いました。そして、庄野潤三、伊藤静雄を知る事になりました。そして、室生犀星、三好達治、中原中也、荻原朔太郎、中野重治、折口信夫、柳田国男、カロッサ・・・など、多くの詩人に親しむ事となりました。これからも拝見してまいります。  

映画「ナポリの隣人」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 2月18日(月)00時45分41秒
編集済
   2月15日封切(シネ・リーブル)の映画「ナポリの隣人」を観てきました。
 妻に誘われて行ったので、全くの予備知識なしに、内心では美しいナポリの風景が見られるのかと期待していました。

 ところが、出だしから汚く、落書きだらけの狭い路地、無秩序で治安の悪そうな下町風景ばかりが出てきます。

「分かり合えず、すれ違う家族の心情、他者との繋がりが希薄になった地域社会…“人情溢れる下町ナポリ”というイメージを覆す、現代に生きる人々の心の闇を容赦なく描き切り、観る者の心を揺さぶる“21世紀のネオレアリズモ”」と、チラシに書かれていますが、まさにその通りの映画でした。

 とりわけ、頑固一徹そうな主役・独居老人ロレンツォの、変化の少ない表情で演じられる「心の闇」の演技はまさに名演技でした。時々は、ロレンツォ演ずる「老人の心の闇」を想い出して、わが老心の闇を写す鏡にしてみたい気がします。

 それにしてもマスコミで報じられるヨーロッパやアメリカ社会の妥協を知らない「分断現象」は深刻ですね。島国日本だけが例外でいられるはずもなく、「人情溢れる」などという小津下町映画の世界は「幻想共同体」にすぎず、いまや死語となったのでしょうか。

 映画の終盤で、ロレンツォの娘のエレナがアラブの詩(箴言)から引用する「幸せは、目指す場所でなく、帰る家だ」という言葉の意味は如何?
 テーマ音楽が「オーソレミオ」のようなカンツォーネではなく、まるでスローなジプシー(ロマ)音楽のように哀愁に充ちたものであるのも、ナポリとは異質? 等々

 いろいろなことを考えさせる映画「ナポリの隣人」でした。
 

「天の声 地の声 人の声」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 2月15日(金)16時37分14秒
編集済
    時節柄「堺屋太一氏と大阪万博」という過去の話がいま話題になっています。

 私は、(公務員ではありませんが)当時、大阪府のポーレミックな実践的な小さな課題のいくつかに(殆どがゴーストライターとして)裏方で係わっていて,その一つとしてEXPO'70の企画もありましたので、薄れた記憶をたどってみます。(堺屋太一が本名でなかったことは初めて知りました。)

 当時、大阪府の万博担当者の間では『人類の進歩と調和』というようなメインテーマ(「日本万国博協会」という「天の声」)には全く関係なく、地方館や関連事業の企画ばかり議論していました(土木・建築関係)。例えば、万博が終わると全てのパビリオンは解体撤去されて何も無くなるので、せめて大阪府の地方館だけでも将来残すことを考えて、例えば『大阪の過去・現在・未来』を俯瞰できるような物を集めて地方館に展示して遺すべきだと私は主張し、当時の佐藤義詮知事に大変褒められたことがあります(府庁内泊り込みで原稿を書いていると知事室からホワイトホースと蟹缶3個の差し入れがありました。万博で実現はしなかったが、ずいぶん経ってから、そのミニチュア版と思しき展示館が法円坂のビル内に作られています。)

 また、当時の万博関連事業として計画された道路網が、大阪港や空港と会場を結ぶ「十大放射三環状」という求心的な自動車道路に偏重したものであったので、通過交通量を減らし都心の車洪水を防ぐために、地下鉄伸延や環状モノレールなどの大量輸送手段の建設を提言した記憶があります。(若造のくせにあまりにも大きなプロゼクトを提案したので、)真剣に取り上げてくれたのかどうかは不明ですが、当時名市長と言われた竹内豊中市長の公約に取り上げていただき、土木部専門部隊などにも研究していただいたりして、大騒ぎの末、こちらも随分経ってから半ば実現しました。その後故竹内市長が「住宅街のど真ん中で、しかも地上30メーターの高所に電車を走らせるというのは住宅地に騒音を撒き散らし、非常識じゃないのか。」と私にぼやいておられました。(内心では不承知?)
 竹内市長、深夜2時3時までご自宅に押しかけて、スタッフ同士で無理な議論ばかりしてすみませんでした。ナンマンダブツ!!) 3ヶ月で万博用地の買収をやり遂げた大阪府や豊中市の用地課職員たちのご活躍の凄さは今も忘れません。鶴のようにやせ細った竹内市長の何処からあんなすごい迫力が生まれたのか?

(少し自慢話めいて嫌味な感じの話でもあり、その後思い出すこともなく忘れていました。また当時の関係者は全て亡くなられ、どのような記録が残っているのか確かめる気も起こりませんが。)

 堺屋さんは、余りにも有名になられて、常に時局の中心から華々しい話題を発信し続けることを生涯運命付けられていたのだと思います。―『人類の進歩と調和』という永遠の道程の何処ら辺りを、私たちは今、歩いているのか?  「この半世紀の間に、何が進歩し、何が壊れたのか?」―「絶え間なき進歩」という神話は脆くも崩れ、近隣の工場群は姿を消した。その跡地にはマンションが建ち、インターネット機器やコンビニ、○○整骨院やデイケアの数がやたらと増えましたが、それは「進歩と調和」というOptimisticな概念とは少し違います。(どう違う? Optimistic楽天的、Optimistically楽観的)

 1980年代末期(為替自由化)に始まる長期デフレ・低いGDP成長という背景下での「進歩」であり、それらの現象を頭の中でどう整理したらよいのか、いまだ正確な分析のできない半世紀でした。(各個人にとっても、想定されたライフプランの激変を余儀なくされた人が多かった。)

 EXPO'2025も、世界の中の大阪を宣伝する良い機会ではありますが、(万博終了後)将来に採算のとれない埋立地や不採算娯楽施設などの大きな負の遺産を府民に残すだけに終わることのないように、計画段階で練りに練ってほしいものです。

 大阪府・市主導のEXPO'2025が、くれぐれも、お祭り騒ぎで始まって「捕らぬ狸の皮算用」に終ることのないよう、願わくば堺屋太一氏にもあの世から厳しく「天の声」を発信してもらいたいものです。


 

堺屋太一氏のこと

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 2月15日(金)12時40分36秒
   堺屋太一君が死んだ。――堺屋太一「君」というのは、彼と私が同じ中学ー高校の同窓・同級生だったからです。そして、当然だが、年齢も同じ、昭和10年生まれで、彼の享年は83歳だった。
 同年齢の中学ー高校、高校―大学と、同じ道を歩んだ親しい友人が当然、何人もいるわけだが、そのうちもう半分以上が亡くなった。
 住高の3年生、卒業のとき、私は堺屋太一君と同じクラスだった。(担任は大庭先生といって、伊東静雄と同じ国語科で、きわめて親しく交わられたらしく、早く話を聞いておけばよかったと、悔いています)しかし当時はまだ堺屋太一ではなく、本名の池口小太郎君だった。

 彼はユニークな生徒だった。どう、ユニークだったかを言うのはむつかしい。決して天才でも秀才でもなかった。受験勉強にシャカリキになったり、校内の実力テストで一番をとるというような華々しいことは一度もなかった。東大に入ることが唯一の目標、とぼくたちは誰もが後々まで思っていた(が、それは違ったらしい)。二浪して初志を貫いた。

 しかし彼と親しく話したことはほとんどない。彼は社研部で私は新聞部で、クラブ活動での交流もなかった。大学卒業後にも、国家公務員、通産省官僚、万国博覧会、云々という彼の志向および仕事場と、私のそれとはまったく交点を持たなかった。地球の裏と表のような感じだった。これは私の意地もあると思うが、私は彼の有名な著書「油断」「団塊の世代」「峠の群像」などを、一冊も読んでいない。(「豊臣秀長」を書いたと聞いたとき、それまで見えなかった彼の心情の深い一面を、ふと垣間見たような気がした。)

 これは誰に聞いたのだったか、伊東静雄の松虫通の詩碑ができたとき、土砂降りの雨の中の除幕式に出、ちかくのお寺で講演をしたという。それはそれだけのことで、調べるか直接質すかすればわかることなのだろうが、サボって手をつけずに来た。今頃になって、「堺屋」が「伊東」についてどんなことを語ったのだろう、ともっぱら好奇心がうづき始める始末です。

 WEBなどを見ると、彼にたいする賛辞や追悼の言葉がおびただしい。そういう人々にとっては真実そのとおりなのであろう。否定する気もなく、ケチをつける気もない。ただ前にも書いたように、私は彼とはまったく違う場所を生きてきたので、世間の言うことがまるで他人事のようだ。それよりも、はるかな昔、同じ教室で同じ数学の教師にいじめられ、同じ学食で昼メシを食った、変わり者で妙に印象の残る学友が、死んだ、という、そうか、とうとう彼も死んだか、という、(そして私は生き残ったという)その寂しさ、「ほんま、かなわんなぁ」という思い、今はそれがいちばん強いのです。
 

「春支度」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 2月10日(日)23時43分58秒
編集済
   山本皓造様のご投稿を拝見して、小学校低学年の頃の記憶がおぼろげながら蘇りました。今頃の時節に、餅粉でたくさんの餅花を作って、母に連れられて諫早の本名川沿いの神社?(お寺かも)へお詣りに行く慣行がありました。。汽車に乗って諫早の街へ行くだけでもどこかハレやかな気持になったものです。

 今年は、暖冬のせいでしょうか、例年より「花便り」が早いような気がします。
我が家の窓から見える公園の「河津桜」(写真上)も開花し、先日訪れた「長浜盆梅展」(写真下)で樹齢2~300年の老梅が見事な花を披露していました。

 先日は、用事があって会社から地下鉄御堂筋線に乗ったのですが、心斎橋筋商店街を歩いていると知り合いの紳士服の店長さんが私を呼び止めました。気が付くと、昼御飯のついでに上着も着ないで電車に乗って出かけていたのです。

 明日は、大阪でも雪が降るかもしれないという天気予報が出されていますが、春はもうすぐそこまで来ているようです。今日は、紫陽花の植替えをしました。我が「春支度」です。



 
 

相楽神社の餅花

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 2月 3日(日)15時47分59秒
   早いもので、もう、ひと月がたって、二月、きょうは節分、明日は立春、あさっては旧正月元日だそうです。
 2月1日には近くの相楽神社で「餅花」という行事がありました。元気なころは自転車で行ったりバスで行ったりしていたのですが、最後に見に行ったのは、あれはいつだったか。
 朝日新聞に写真と記事が載りました。毎年することは同じなのに、律義に新聞は毎年、同じような写真と記事を載せてくれます。
 記事にあるように、餅花というのは、今年の豊作を祈る「予祝」の行事で、1月15日の「御田」も同じです。ほかにも「粥占」とか、この神社は古いものをたくさん残しています。
 紅白で飾られた「餅」が寄り集まって可憐に揺れているのを見ると、胸の奥からぬくもりが湧いてくるような気がします。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2019年 1月27日(日)19時14分41秒
  皆様、いろいろありがとうございます
折に触れ、行き合った方や集まりで話していると、林富士馬と交流があったという研究者からお便りを頂いたりという「出会い」が増えていきます。

先日も、そんなに凝視るな を含むエッセイをお読みになった方からの返信封筒(の裏側!)に、ラテン語がなぞなぞみたいに記されていて、調べたらホラティウスの詩句の一節、しかも・・・未来を思い煩うな、今日の花を詰め、という・・・もしかして、静雄はどこかでそれを読んで、本歌どり、いな、翻案したのかもしれないなというアイディアが浮かんだものの・・・静雄が読んだ(かもしれない)書籍の中に、古代ローマ詩人に関するものがあったかどうか(ゲーテあたりからかもしれないなとか)探索の道は道草ばかりですが。
それもまた、出会いに繋がるかなと思ったりしています。

韓国外国語大学の徐載坤ス・ゼコン教授(萩原朔太郎研究から出発した日本文学研究者)の特別講義を先日、聴講してきました。静雄の戦争詩に関しても、新たなアイディアを頂きました。少しずつですが、頑張ります。
 

青木さんの「伊東静雄研究書誌」

 投稿者:大山 襄  投稿日:2019年 1月27日(日)18時50分44秒
  青木由弥子さん。
小生の拙文を「伊東静雄研究書誌」に取り上げていただきありがとうございます。
書誌完結とともに、青木さんの伊東論文期待しております。
 

伊東静雄と前川佐美雄

 投稿者:中路正恒  投稿日:2019年 1月24日(木)03時47分7秒
編集済
  青木由弥子様 「研究書誌リスト」拝見しました。こういう書誌情報がネットでいつでも見れるようになっていると、とてもありがたいと思います。収集する努力や手間も大変だと思いますが。まずはリストとして上げられた分を活かしてゆきたいと思います。ありがとうございます。

本歌のことですが、前川佐美雄の歌集『大和』「遍照」に

>山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖(うみ)青く死にてみゆ

があります。「哀歌」を本歌としているでしょう(山中智恵子はその歌をあるところで評しています)。佐美雄は伊東静雄と実際の交流も多少あったようです。佐美雄の全集第3巻「散文」篇に「伊東静雄を憶ふ」という弔文があります。それによれば最初に会ったのは昭和14年7月。「日本歌人」大阪歌会に来て厳しい批評をしていったことが書かれています。その翌年の山田新之輔の結婚披露の会でも会って、記念写真の席をめぐってのちょっとしたエピソードが書かれています。それ以上の深い付き合いはわたしは今のところ知りませんが、伊東に深く共感するところはあったようです。
とりあえず。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

 

伊東静雄研究書誌(作成中)リスト

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2019年 1月23日(水)16時25分6秒
編集済
  中路正恒様のご投稿を拝見しました。『詩と思想』という詩誌の編集委員をしております、青木由弥子と申します。

中路様のブログのことを存じませず・・・
辿っていきましたら、山中智恵子が静雄の詩を「本歌」としていることを教えて頂きました。
ありがとうございました。
江田浩司さんにもお目にかかる機会があり、興味を惹かれているところでもありました。

中路様のご論考は、大学の紀要で拝読させていただいておりました。
投稿掲示板を通じて、静雄研究の横のパイプラインのようなものが出来ていくことを願っています。(『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出が「公論」昭和15年であるということを諫早の伊東静雄研究会の上村紀元さんから教えて頂いたのですが、2015年の段階で、瀬尾育生さんも林浩平さんもご存じなく・・・横の連携の必要性を強く感じたことがありました。)

ネットを活用して、日本全国の伊東静雄研究者、愛好者、愛読者が情報を共有できるようになればよいと思った次第です。

帝塚山大学の紀要など、最近の調査研究も加えていかねばなりませんが、
2015年までのところで止まっている静雄関係文献一覧を投稿しておきます。
(重要文献が抜けていることと思います。お手すきの折に、ご教示いただければ幸いです。2016年以降は、また改めて調べて、読んで確認してからリストに入れていこうと思います。)

〈伊東静雄〉参考書誌一覧
※文学全集収載のもの、復刻版詩集、同窓会編資料集等は省略(文責 青木由弥子)
◆単行本
1970『伊東静雄詩がたみ―光と影』一柳喜久子/法文館
1971『定本 伊東静雄全集』桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編/人文書院(1961初版・増補改訂版)(詩篇、散文、日記、書簡、作品年譜、年表。別添研究書誌一覧)
1971『伊東静雄研究』富士正晴編/思潮社(生前の批評、追悼文(「祖国」静雄追悼号全篇含む)等、百篇を越える集成。桶谷秀昭、磯田光一、北川透、大岡信等の戦後の静雄論も収載。詳細な書誌一覧、年表あり)
1976『詩人、その生涯と運命―書簡と作品から見た伊東静雄』小高根二郎/国文社(1963初版・増補改訂版。年譜あり。)
1978『朔太郎と静雄』清水和子/吟遊双書2・JCA
1982『伊東静雄 その人生と詩』三宅武治/花神社
1983『伊東静雄論考』小川和佑/叢文社(1973『伊東静雄論』五月書房、1980『伊東静雄』講談社現代新書、研究書誌増補版)
1983『戦時下の作家と作品』安永武人/未来社(伊東静雄『春のいそぎ』収載)
1985『伊東静雄 憂情の美学』米倉巌/審美社(新発見書簡、略年譜付き)
1992『雑誌コギトと伊東静雄』高橋渡/双文社
1994『詩人の夏 西脇順三郎と伊東静雄』城戸朱里/矢立出版(93年の講演録の改稿)
1995『夢想の歌学―伊東静雄と前登志夫』櫟原聡/雁書館
1996『ヘルダーリン―予め崩れる十九世紀近代 伊東静雄における受容との関連にて』縄田雄二/西田書店
1996『伊東静雄』野村聡/審美社
1997『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』大塚梓・田中俊廣編/本多企画(16歳~23歳までに大塚格に宛てた書簡133通)
1998『伊東静雄 詠唱の詩碑』溝口章/現代詩人論叢書?・土曜美術社出版販売
1999『詩人その生の軌跡:高村光太郎・釈迢空・浅野晃・伊東静雄・西垣脩』高橋渡/現代詩人叢書?・土曜美術社出版販売
1999『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』長野隆/思潮社
2002『伊東静雄論・中原中也論』永藤武/おうふう
2002『伊東静雄と大阪/京都』山本皓造/ソフィア叢書5・竹林館
2003『痛き夢の行方 伊東静雄論』田中俊廣/日本図書センター
2006『萩原朔太郎 晩年の光芒』大谷正雄/てんとうふ社(「天性誌の中の伊東静雄」、伊東静雄書簡他)
2008『詩学入門』中村不二夫・川中子義勝編/土曜美術社出版販売(溝口章「伊東静雄」収載)
2010『伊東静雄日記 詩へのかどで』柊和典・吉田仙太郎・上野武彦編/思潮社(静雄17歳~23歳までの日記。詳細な註あり)2012『近代詩雑纂』飛高隆夫/有文社(「伊東静雄「水中花」」「伊東静雄の語法」収載)
2013 『ことばの遠近法 文学/時代/風土』田中俊廣/弦書房(静雄論4篇収載)
2013『伊東静雄 酒井家への書簡』上村紀元/伊東静雄研究会/私家版
2015『敗戦日本と浪漫派の態度』澤村修治/シリーズ知の港2・ライトハウス開港社(「「治者」の発見―伊東静雄」収載)

◆文庫、選書、新書(入手容易なもの)
◇詩集
1980『伊東静雄詩集』藤井貞和編/現代詩文庫1017・思潮社
1989『伊東静雄詩集』杉本秀太郎編/岩波文庫・岩波書店
1994『伊東静雄詩集』桑原武夫・富士正晴編/新潮文庫・新潮社(1953創元選書、1957新潮文庫)
1997『伊東静雄詩集』林富士馬編/小沢クラシックス日本詩人選?・小沢書店(1973旺文社文庫)
2005『蓮田善明/伊東静雄』近代浪漫派文庫35・新学社
◇評伝
1971『詩人・伊東静雄』小高根二郎著/新潮選書・新潮社
1972『苛烈な夢 伊東静雄の詩の世界と生涯』林富士馬・富士正晴著/現代教養文庫749・社会思想社
1980『伊東静雄 孤高の叙情詩人』小川和佑著/講談社現代新書・講談社
2009『伊東静雄』杉本秀太郎著/講談社文芸文庫(1985筑摩書房版)・講談社

◆雑誌特集号(四季派特集などは省略)
1971『ユリイカ』「増頁特集 伊東静雄」/?月/青土社
1975『国文学 解釈と鑑賞』「現代の抒情〈中也・静雄・達治〉」/3月/至文堂(原子朗「伊東静雄主要研究文献目録」あり)
1978『四次元 詩と詩論』「特集 伊東静雄」/4月第6号/矢立出版
1979『現代詩読本? 伊東静雄』/思潮社
1987『焔』「小特集 伊東静雄」/第六号/福田正夫詩の会
1995『イロニア』「特集 伊東静雄」/第七号/新学社
1995『堺のうた堺の詩歌俳人〈詩人 伊東静雄〉』/第参冊/ふたば工房
2000『四年坊』「それぞれの伊東静雄」/第三号(住吉中学第二十期生中心の同人誌)
2003『関西文学』「特集 没後五十年 伊東静雄」/第37号/澪標
2003『PO』「特集 伊東静雄」/110号/竹林館

◆関連書
1997『声の祝祭 日本近代詩と戦争』坪井秀人/名古屋大学出版会
1998『日本浪漫派批判序説』橋川文三/講談社文芸文庫(初版1960未来社、1985年筑摩書房『橋川文三著作集1』に基づく)
※その他の日本浪漫派関連書は省略
2006『戦争詩論1910-1945』瀬尾育生/平凡社(補論3「敗北の暗示〈伊東静雄・及川均〉)※『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出は、『定本 伊東静雄全集』では不明だったが、現在は昭和十五年の『公論』十月号であることが判明している。(一般に入手可能な書物では『萩原朔太郎 晩年の光芒』2006参照。)瀬尾氏は「夏の終」をミッドウェー海戦後と推定。予感を示す作例とする論旨が動くわけではないが、氏より「できる限り早く、その修正をしたい」と言付かっているので、ここで訂正しておく。
2008『「近代の超克」とは何か』子安宣邦/青土社
2010『地域学への招待』京都造形芸術大学編(中路正恒編集責任)/角川学芸出版(中路正恒「伊東静雄のポジション」収載)
◆研究論文(近年のもの)
1992「伊東静雄と浜田広介―新見資料を中心にして」穀田恵子『宮城教育大学国語国文』3月
1993「伊東静雄と三島由紀夫」涌井隆『名古屋大学言語文化部』3月
1995「肥下恒夫宛 伊東静雄葉書二十通他一通」飛高隆夫『四季派学会論集』第六集
1997「再考 伊東静雄とヘルダーリーン」吉田正勝『大阪樟藤女子大学論集』3月(「再考 伊東静雄とヘルダーリーン 補遺」前掲論集1998・3月)
1997「伊東静雄と危険な抒情:『春のいそぎ』の方法」長野隆『現代文学』弘前大学?月
1999「『詩集夏花』期の伊東静雄―〈茫漠・脱落の戦略について〉」碓井雄一『日本文学論集』(大東文化大学大学院日本文学専攻院
生会)3月
1999「夏の詩人」(伊東静雄論、継続中)萩原健次郎『海鳴り』?号(編集工房ノア)
2000「古今集歌の詩的本質と普遍性について―伊東静雄とリルケと古今集歌」藤原克己『國文学:解釈と教材の研究』4月
2002「伊東静雄『詩集夏花』論―萩原朔太郎『氷島』の後継として」小川由美『清心語文』8月
2004「伊東静雄の詩の中の「朝顔」と「?」」中里弘子『静岡大学留学生センター紀要』2月
2004「伊東静雄参考文献目録?」碓井雄一『近代文学資料と試論』?月
2005「伊東静雄初期詩法論―『わが人に与ふる哀歌』まで〔付「伊東静雄参考文献目録稿」・増補〕碓井雄一『近代文学資料と試論』6月(小川和佑、原子朗以降2003年までをつなぐ書誌研究、文献目録)
2006「ドイツ文学の伊東静雄」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「伊東静雄のリルケ体験」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「「小さい手帖から」「『反響』以後」の詩法」中里弘子『静岡大学国際交流センター紀要』3月
2008「伊東静雄論―「吾にむかひて死ねといふ」のは誰か―「愛国詩」とはなにか」林浩平『三田文学』夏季号
2008「詩人のイロニー/批評家のイロニー―伊東静雄と保田與重郎のメディア的相互投射」大澤聡『言語態』8月
2009「ある日の伊東静雄―「モルゲン」と「哀歌」」中路正恒『京都造形芸術大学紀要』14巻
2012「大山定一が愛した詩人:伊東静雄をめぐる文献展望」大山襄『アリーナ』(中部大学国際人間学研究所)
2015「伊東静雄論:詩集『反響』の「小さい手帖から」を中心に」原明子『福岡大学日本語日本文学』25号
2016「伊東静雄『春のいそぎ』考」青木由弥子『詩と思想』9月

 

返信ありがとうございました

 投稿者:中路正恒  投稿日:2019年 1月22日(火)13時34分8秒
  Morgen様
返信を有難うございました。拙ブログページを紹介して下さっていたとのことまことにありがとうございます。この掲示板を見るのも今回が初めてで、知らずに申し訳ありません。
一度命日に伊東静雄のお墓にお参りしたいとかねてから思っておりましたが、なかなかその機会が得られません。今年もむずかしそうなのですが、このホームページがるのを知って、情報がつかめるので、それを活かして機会を得たいと思っています。
まずはお礼まで。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

 

(無題)

 投稿者:162  投稿日:2019年 1月19日(土)03時47分56秒
  本棚の写真を添付しようとしましたが、うまくいきませんでした。
近いうちに詳しい者に手助けしてもらって投稿するつもりでおります。
申し訳ありません。
 

(無題)

 投稿者:162  投稿日:2019年 1月19日(土)03時37分50秒
  1月13日の投稿を下記の通り訂正します。

富士正晴全集 → 富士正晴の著書

当日に撮影した写真を探し出して確認したところ、記憶違いがあることが判明しました。
誠に申し訳ございません。
庄野潤三の著作物が並んでいる段の「絵合せ」「屋根」「丘の明り」の真上に「極楽人ノート」がありました。
 

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