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夏の終わり

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2018年 9月18日(火)09時22分59秒
  私も工場の電気屋をやっていたので特に電子機器の電源が途切れるとその後の対処に大変だっつたこと思い出しました。特に電源を入れた時に必ず異常になる機器が出るのです

今年の暑さは大変なものでした.(台風もこの影響で通常とは違った進路をとっているように思います。)
灼熱の高校野球も終わり一抹の寂しさを覚える今日この頃です。
伊東静雄の詩「八月の石にすがりて」「夏の終」「夏の終わり」を味わっております。
また2007.7 堺の大浜に建立された詩碑「灯台の光を見つつ」を寄贈された丸三楼雪稜庵の島田氏を想いながら。
 
 

北海道地震 心からお悔やみとお見舞い申し上げます

 投稿者:伊東静雄顕彰委員会  投稿日:2018年 9月15日(土)11時51分14秒
  第29回 伊東静雄賞 国内外から1106篇の応募作が寄せられ選考に入りました。11月中旬には入選者(含佳作者)に結果を通知致します。関係各位のご協力に感謝いたします。  

ブラックアウト

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 9月13日(木)12時54分52秒
   Morgen さんの投稿をありがたく読ませていただきました。若い技術者たちの奮闘については、私が知らぬことばかりでした。こういうすぐれた人たちがこの国にいて、真摯に、懸命に、精確に、仕事をしておられるということは、ありがたく、また誇らしいことです。教えてくださったMorgen さんに感謝します。「天罰」の定義は、熟慮して変更せねばなりません。

 庄野潤三全集は全10巻を読了して、10冊ある「随筆集」も全部揃いましたので、順次、楽しんで読み進めています。また『貝がらと海の音』以下『星に願いを』まで、いわゆる<老夫婦小説>11冊も全部揃いました(大半は文庫に入っている)。
 拙著に入れた「同窓会室……書誌目録」のうちの庄野の部分は、大増補改訂が必要。また、<庄野潤三と富士正晴との通交>について、いずれ書きたいのですが、まだ材料不足です。
 

Blackout!!

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 9月10日(月)22時55分43秒
編集済
   北海道胆振東部地震による全道Blackoutの動画がTVで流されて、「福島原発メルトダウンでさえBlackoutしなかったのに、一つの火力発電所の停止だけで全道が停電になるのはなぜだ?!」と、誰もが驚きと怒りの声を出しました。

 「北海道は地震が少ない。電力の供給が安定している。」等という誘致担当者の熱心な説明によって、会社は石狩市にIDCを建設したのですが、一瞬にして全道Blackoutの波に飲まれてしまったのです。

 幸い、UPS(蓄電池)~発電機という連動と、技術者の適格な判断による電源維持と機器運転によって、、約60時間の連続自家発電が継続され、データセンターの電源ダウンというパニックを回避することができました。

 私は、不眠不休で頑張る技術者たちの刻々と交わされるtwitterでのやり取りをパソコン画面で見ながら、最悪事態が回避され、少しずつ事態が改善されていく様子を追っていました。20才代、30才代の技術者たちの沈着で、熱のこもった判断や、指揮ぶりは感動的でした。東京では、同じく30才代の幹部社員が経済産業省の担当者と交渉して燃料確保に成功しました。
 これらすべてが、まるでドラマを見ているように無駄のない、危機管理の原則に則った有効なBCP(事業継続)活動であったことを実証したのです。

 電力網や情報網のみならず、国土そのものを、コストダウンや効率化を重視するあまりに一極集中化や短絡化しすぎることが、いかにに危険であるかの証明が今回の全道Blackoutです。
 BCPの定石である「分散化」、「冗長化」などのキーワードを無視したものは、必ず天罰を受けることになるのでしょう。
 震源地から遠く離れた標津方面の乳牛たちの、停電の影響で乳房炎にかかり死んでいく暗い瞳を見ると、単なる天災では済まされない人間たちの罪深さを感じます。

 

https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/419/419034/

 

お見舞い申し上げます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2018年 9月 8日(土)18時01分51秒
  東日本大震災以来、千年に1度の頻度の地震が各地で数年おきに起きているのではないでしょうか。猛暑も異常でしたが、台風がまるで竜巻のようで恐ろしいです。集中豪雨も頻発していますね。
地球が高熱にうなされているような気がしてなりません。祈るばかりです。
どうぞ、くれぐれもご無理なさらず、お疲れなきよう。
 

地震台風・・・・

 投稿者:山本皓造  投稿日:2018年 9月 8日(土)14時10分25秒
  Morgenさん。台風がご自宅に残した爪痕の写真を拝見、大変でした。
お見舞い申し上げます。
拙宅のほうは幸い、やや強い雨と風が一時間ほど、まもなく無事に通過して行きました。でも京都市内はなかなか大変だったようです。
それにしても北海道の災厄は、なんということでしょう。
いつか誰か有名な政治家が言った、「天罰」などという傲慢で思い上がった発言が、願わくばどこからも出ないことを祈りたいものです。
(ぱそこんが二階にあるので、枕元のタブレットから投稿しました。)
 

連続する災害

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 9月 7日(金)17時12分22秒
編集済
   次から次へと、連続災害が日本を襲っていますが、皆様ご無事でしょうか?

 わが家(正面の白い家)は、台風21号の暴風に揉まれてあちこちが傷みましたが、倒れ掛かってきた公園の大木(根元約60センチ、樹高約30メーター)は、ぎりぎり隣家の屋根に引掛かり、大事には到りませんでした。本当に怖かったですね!!

 2日間の停電のなか台風の後片付けやをして出社すると、今度は北海道の石狩IDC(データセンター)が大変なことになっていました。地震による停電のため1号棟から3号棟までのすべての機器が自家発電で運転されていたのです。経産省や総務省の応援や、現地スタッフの大活躍で取り敢えず1週間分ほどの燃料が確保され、一部通常電源も回復されて一応ヤマを越えました。

 先の大阪北部地震で倒れた本棚の整理も済まないところに、よくも次から次へと、連続災害が発生するものです。

 ぼやいても事態は改善しませんので、「自分は本来百姓の倅だった。」と肝に銘じて「気張れ!」と号令をかけたいと思います。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木  投稿日:2018年 9月 2日(日)10時29分1秒
  皆様 お元気でお過ごしでしょうか。
いつもありがとうございます。

「そんなに凝視めるな」・・・リルケ的な世界観を得た傑作だと思っているのですが、なぜ、その時には詩集に収めなかったのか・・・観念的過ぎる、と思ったのか。このあたりも、考えていきたいですし、「コギト」の仲間たち(特に、蓮田善明)は、日中戦争の時点で、既にもう、漢の影響を除き、本来の言葉を取り戻す・・・という、今でいう嫌中のような立場に傾いているのに、静雄はどうもそうでもなかったらしい、とか・・・
静雄が感銘を受けた『白の侵入』を国会図書館まで読みに行ったのですが、まだ触れることが出来ていませんし、セガンティーニの図録、恐らく、静雄が入手したであろうものの見当がついたのですが、それがどこで見られるのか、そこはこれから調査する、という状態ですし・・・

その意味では、積み残しだらけ、なのですが、それゆえにこそ、いったん区切りをつけて、哀歌時代、夏花時代、反響時代、と、とらわれずに考えて行きたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
 

「あゝ 永かった夏」~~「そんなに凝視めるな」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 9月 2日(日)01時11分34秒
  『伊東静雄研究会会報』(118号)をお送りいただき、青木由弥子さんの「伊東静雄ノート」(12)を拝読させていただきました。青木さんは、12回にわたって、『春のいそぎ』を中心に正面から論じていただき、従来論じられることの稍々少なかった「戦争詩」の分析にも言及されました。(感謝!)

昭和14年9月1日。伊東静雄日記には次のような記述があります。
「・・・・・・独逸とポーランド国境にて激戦中との号外あり。自分の頭脳では果たして戦争に堪へるだろうか。・・・・・」「思索ばかりで行動なきものは発狂す」「日光つよく、後頭部いたみ、めまひを覚える。いくぶんの吐き気と。」体調不良と発狂しそうなほどの不安を感じています。

 そして、翌日9月2日に「あゝ 永かった夏」の詩が書かれ、同9月3日には英・仏がドイツに宣戦布告をして、世界大戦が始まったのでした。

そのような中で、「永い永い夏」の詩想は、「人生と和解できぬ男/そんなに見つむるな若い友、・・・・・」と展開され、約半月経って「やや爽涼」と体調を取り戻し、「美しい詩が書きたい。」という気分になって、「永い永い夏」は放棄されて、「そんなに凝視めるな」という詩が残されたのだそうです。

私も、夏の疲れを引きずらないように、気分一新をして、目の前の仕事をひとつひとつ片付けていくことにしましょう。
 

『山の上の家 庄野潤三の本』

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 8月21日(火)21時46分13秒
   こういう本が出たことを知って、注文、入手しました。夏葉社刊。
 庄野潤三の家、身辺、歴史などにかかわる写真が豊富で、おもしろい。

 全集は第十巻まで来ました。この巻は、『自分の羽』と『クロッカスの花』の2篇からなり、前者は文庫本で出たものを私が持っていて、乗り物の中や病院の待合で読むのに、持ち歩いています。後者を全集で並行して読んでいるところ。
 まだ持っていないものがたくさんあって、それらを「蒐集」するかどうか、思案中です。

 鷺さんの庄野論へのコメントはもう少し待ってください。
 

「焦心緩歩」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 8月16日(木)23時34分46秒
    去年の3月に札幌から大阪に引っ越してきた6歳の孫が我が家に泊りに来ました。
 アニメ映画に行ったり、六甲山に登ったりで、満足したような顔をして豊中の家へ帰りましたが、「大阪は暑い!」「せみがうるさい!」「北海道がいい。」と言います。

 大阪の蝉はほとんどが「くまぜみ」ですが、有馬や六甲に行くと、「つくつくぼうし」や「ひぐらし】などいろいろな蝉が鳴いていて、あまりうるさく感じません。しかし、六甲山頂で頭の上に照りつける太陽の熱さは、平地よりも強く感じました。

 孫の希望で観に行ったディズニー映画「インクレディブル ファミリー」は、いかにもアメリカ映画らしい大物量投入とすさまじさい破壊の連続で、6歳の子供には刺激が強すぎるような感じです。しかし、「面白かった」と何事もなさそうな顔をしています。

 「あんまりインクレディブルマンの超人力にばかり頼っていると、普通人はますます傍観者的になり、非力になっていく」というような皮肉めいた劇中セリフがありましたが、天才的な能力を持つ人には人類の進歩のためにますます頑張ってもらうにしても、私たち凡人もせいぜい能力に応じて頑張らないと良い社会にはなりません。頑張りましょう。

 8月10日~15日の私の夏休みが終わって、今日からまた仕事を始めていますが、頭脳が仕事モードでフル稼働するには少し時間がかかりそうです。あれもこれもと心だけが焦っています。「焦心疾駆」という言葉がありますが、私は「焦心緩歩」です。




 

残暑お見舞い申し上げます。

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 8月 7日(火)16時13分3秒
編集済
   「あついですね」という”6つのひらがな”が、オールマイティーな挨拶でしたが、8月7日はすでに立秋。これからは“「残暑お見舞い申し上げます」が挨拶だよ”と言われてもピンときませんね。

 山本様が書いておられる「(庄野潤三)未発表の富士宛書簡70通」は、庄野さんのお人柄を知る上で本当に興味深いです。(最近「富士正晴記念館」はご無沙汰しています。)

 鷺論文「庄野潤三と富士正晴(二)」23ページ「僕の小説を読んで意見を聞かせて欲しい」と、庄野さんは、何回も繰り返して富士さんに懇願しています。私には庄野さんの真情が伝わってきそうです。鷺さんは、この一連の書簡に庄野さんとVIKING断絶のナゾがあるとされているようにもみえます。―深読みし過ぎの感じもしますが?

 鷺さんは『ボヴァリー夫人』に由来するBovarisme(現実と夢との不釣合いから幻想を抱く精神状態)に言及され、「森鴎外が歴史・史伝の世界で追及したところを現代の生活で試みているのが庄野氏の世界なのではないか」「庄野氏は現代の鴎外である」と言ってよいのではないかと仰っています。(ちょっと纏め過ぎで分かり難くなってしまいましたが)

 「都留文科大学文学部国文学科創立50周年記念論文集」の中身は、WERB上では探せませんが図書館のインターネット閲覧で可能かもしれません。(未確認)







 

庄野潤三とVIKING

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 8月 5日(日)15時43分17秒
   変な台風が東から来て西へ去って行きました。
 台風の間に深谷考『野呂邦暢 風土のヴィジョン』(青弓社)を読みました(Morgenさん、朱雀さん、ありがとうございました)。続けて『車谷長吉を読む』も読了しました。
 他方、庄野全集はようやく半分を終り、今、第六巻にとりかかっています。
 ウエブを見ていて、「庄野潤三ファン掲示板」トイウサイトをみつけ、ここへの、ご長男・庄野龍也さんの投稿から、庄野潤三夫人・千壽子様が昨年6月に亡くなられたことを知りました。享年91歳とのことでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 鷺只雄氏の庄野論「庄野潤三と富士正晴(二)――未発表の富士宛書簡70通をめぐって」に再会しました。鷺氏の名前は記憶にあったので、伊東掲示板を遡って、Morgenさんの2011年7月8日のご投稿にも行き着きました。この鷺さんの論文の(一)を見たいのですが、ウエブで見られないものか、どなたかご存じの方はご教示ください。

 庄野潤三は戦後しばらく、島尾敏雄にさそわれてVIKINGに入っていました。VIKINGのホームページから、今、創刊号以来のバックナンバーの目次を見ることができます。庄野の会員期間は第9号から第25号なので、この間の寄稿文を目次から拾ってみると、次のようになります。

  1949.09  10号 「サロイアンのこと」
  1949.10  11号 「サロイアンのこと(2)」
  1949.12  12号 「10月30日同人会記」
  1950.01  13号 「今村二郎の話」
  1950.06  18号 「分別」

 ところで阪田寛夫さんの『庄野潤三ノート』には、これらについてその言及がありません。全集未収録の作品をも記した巻末の年譜にも出て来ません。『庄野潤三全集第10巻』巻末の詳細な年譜にも、庄野と、VIKING、富士正晴とのかかわりについての記述が一切ありません。
 なぜか?

 鷺氏の前記論文(二)は、私はPDFをダウンロードしただけで、まだ読んでいなかったので、性根を入れ直して、プリントアウトして、腹を据えて精読してみました。鷺氏はこの「なぜか?」について、詳細かつ判明に、ご自身の考えを述べておられました。この件は長くなるので、次回の投稿にまわします。
 

庄野潤三と島尾敏雄の通交

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 7月21日(土)15時34分16秒
   昭和十八年一月三日、庄野潤三は島尾敏雄に連れられて、はじめて堺の伊東家を訪ねたが、伊東は宿直で不在であった。
 その日、あらかじめ島尾が庄野の家へ来る約束がしてあったらしい。

一月三日
 朝、小高[島尾]が約束通りやって来た。ちょっと応接間で話をした。その折、四日、小高の家へ新年会に呼ばれている話を伊東先生のところでしたら、いまビルマへ映画を撮りに行っている先生の弟さんのお嫁さんに誰かいい人を探してくれるように、小高さんに頼んでほしいと云われたことを伝えると、
 「そんなら、先生に来て貰って、実際に気に入る人をみて貰ったらいい」
 と小高が云った。
 それでは、伊東先生のお家へそのことを云いに寄って、それから堺の御陵のあたりを歩こうということにして、家を出た。
 出かける時、福岡の蓑田から返事の封書が来ていたので、ポケットに入れて行った。伊東先生の家に着くと、今日は宿直で住中へ行かれて、お留守であった。(『前途』82)


 四日には庄野が、六甲口の島尾の家へ遊びに行った。
 一月十二日。この冬休みは、庄野は暮の二十六日に博多から帰阪し、十八日間を大阪で過ごして、冬休みの最後の一日のことを「一月十二日の記」に書いた。しかし『前途』には一月十二日の日付も記事もない(参照、6月13日の投稿記事)。『前途』にある日付を並べると、「二十日」「二十五日」「二十六日」とあって、次に「一月三十一日」に飛ぶ。
 しかし、この間、事がなかったわけではない。

 一月二十九日に、矢山哲治が死んだ。
 『前途』には、二十九日の日付も、矢山の死についての記事もない。
 二月六日、日野先生のところで「スキヤキ会」があった。

……始めようとしているところへ小高が駆けつけた。彼は、同人雑誌の仲間であった矢山哲治の葬式が終わってすぐに来たのである。(『前途』93~94)

 もともと庄野は矢山とは、島尾が矢山に親しんだほど親しくはなかったし、島尾のような痛恨、哀悼の激情を吐露するのは、『前途』という作品の趣意にはそぐわないであろうけれども、しかしそれでも私には、庄野にこれだけの記述しかないのが、不審であり不満である。
 島尾には「昭和十八年日記」がある。矢山の葬儀当日のことを、島尾は次のように書いている。

二月六日
 朝、矢山の家からたのまれた弔辞文を小山、吉岡がつくる。僕は自分の詩、読むのいやだ。それで岩井の詩を読む事にする。
 午後四時からの式。四時半と思い、おくれる。雨、弔辞の直前辛うじてつく。
 川上、加野、村橋らと別れ、小山、吉岡、鳥井、船津らと別れ、真鍋おっ母さん、大濠のお嬢さんたちと別れ、日野助教授宅の東洋史専攻学生の会合に行く。ワイ談、ワイ歌、一時近く帰る。うそ寒し。(『日記抄』151~152)


 もし私が、たとえば「庄野潤三と島尾敏雄の通交」というようなものを書くとすれば(書けるとすれば)、何を材料にして、どんなことを書けばよいだろうか。その前に、私にはまだ果せぬ「島尾敏雄と伊東静雄の通交」という宿題がある。
 それにしても、矢山の死にたいする島尾の激情は、読む者の肌に突き刺さるようだ。

一月二十九日
 夕方、矢山の妹見え、兄が亡くなりました。
 妹さんと矢山の家に行く。柩を見て涙湧き止めがたし。むせび泣く。事情よく分らぬ。おっ母さんの断片的なくり言で、天草行やめになっていたこと、親せきの所におっ母さんと行く事になっていたこと、二、三日來機嫌よくなったこと、鈴木に逢いたい、吉岡修一郎氏、鈴木教授に遭った、朝住吉神社にラジオ体操に行っていた、洋服を着て一度家を出、靴をはきに戻って又出た、死骸になって戻って来た、朝の六時半頃だ(死んだのは)、島尾の度胸がうらやましい。この街に残っているのは島尾だけ、今度応召したら戦死します。
 玄関の間、とこ敷っ放し。伊東静雄詩集。……(『日記抄』146)



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「雪・ほたる」について、追補

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年 7月14日(土)11時25分39秒
   前述のように「雪・ほたる」の日記体の部分は九月三日の記事で終っているのですが、実はそのあとにまだ続きがあります。まず、このあとに「妹のうた」という詩が、2ページにわたって載せられていて、その末尾に「(昭和十八年十一月十八日)」という書入れがあり、ここではじめて「雪・ほたる」全文が終ります。そうして次のページに「○」という、無題の伊東の文が来ます。伊東全集ではこの記号は「★」となっていて、諸書では〝推薦文〟などと呼ばれているようです。「庄野君の書いた文章が「雪・ほたる」と題して、最初にこの「まほろば」に載るのは喜ばしい」以下の本文は、全集との間に異同はありません。また、この文の最後に、「重要な訂正をしたので」として、詩「うたげ」の訂正稿が載せられています(内容は全集と同じ)。但し『全集』の「拾遺詩篇」の中の「うたげ」は、訂正を加えない旧稿のままで載せています。それはおそらく全集の編集方針なのでしょう。ほかにも、後に伊東が自ら訂正を表明したが全集ではその意志を生かしていない個所がいくつかあります。(もっとも、これを云い出すと詩集『反響』の「ヴァリアント」の問題など、収拾がつかなくなります。)  

豪雨被災者の方々にお見舞い申し上げます。

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 7月10日(火)00時01分58秒
編集済
    日雨量1000ミリ超の「平成30年7月豪雨」によって、九州から中部地方までの広範な地域で、住民の人命・財産に甚大な被害が発生しました。その被害の規模はまだ正確には把握できず、今後も生活や産業活動に重大な支障が起こることが危惧されています。

 今般の豪雨により亡くなられた方のご冥福をお祈りしますとともに、被害者の皆様方に心よりお見舞いを申し上げます。

 私も、被害激甚地の広島方面を6月に旅行し、その前には岡山の高梁川上流(備中松山城)を訪れたばかりで、被害の酷さが身近に感じられます。とりわけ、冠水地域の浸水排除が遅々として進んでいないことが、TVを観るたびに痛感され、地域の方々には本当にお気の毒に思います。(倉敷市真備町など)

 各方面の迅速な救助や復旧活動によって、これ以上被害が拡大しないように、祈るばかりです。
 

(続) 「野呂邦暢小説集成」完結

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 7月 5日(木)11時12分31秒
編集済
   台風7号に続いて、全国各地で大雨の被害が発生していますが、皆様は如何でしょうか。
 前投稿では、中野章子さんの『朱雀の洛中日記』に触発されて、朝日新聞の記事(6/20)を転載したのですが、中野さんはその後も猛烈な勢いでブログを更新されていますので、そちらもぜひご閲覧ください。

「元有明海の葦の茂みの中に打ち捨てられた廃船」の映像は、元有明海岸人であった私にも記憶があります。毎日新聞掲載米本浩二の評論に引用されている“野呂の原風景は「葦のしげみの中にある打ち捨てられた廃船」である。石牟礼も浜辺で崩れゆく舟のイメージに生涯固執したのだった。”という松本道介さんの文章に、生々しいリアリティを感じます。

 毎日新聞(6/24)の「日曜カルチャー」(筆者米本浩二さん)が興味深い記事なので、前投稿追加として転載しておきます。

 <ぼくは再び帰ってきた>

 <ぼくは自分を未知の海めざして錨(いかり)をあげる一艘(いっそう)の船にたとえていた。海図もコンパスも寄港地のあてもなく船出する船、なんのために? ぼくは自分以外の人間になりたかったのだ>(「地峡の町にて」)


 野呂の1年足らずの自衛隊経験は、作家志望者の経歴にしては奇異に感じられる。<自分以外の人間になりたかった>(同)結果なのか。<ぼくは自分の顔が体つきが、いやそれに限らず自分自身の全てがイヤだ。ぼくは別人に変りたい。ぼく以外の他人になりたい>(「草のつるぎ」)と書いている。

 <自分以外の人間>になりたいという願いは、見果てぬ夢を追いかけるようなものだ。別人になりたい、他人になりたい、と言いつつ、焦慮や苦悩は次々に襲ってくる。救いは書くことだ。<海面に燃える船の影が映る/さかさまになって……/誰も気づかない/沖では船が燃えている>(「夜の船」)

 「地方」作家が珍しかった70年代、諫早の野呂は10歳上の水俣の石牟礼道子(1927~2018年)と並べて語られることが多かった。「海ひとつ隔てた隣人」(野呂)の2人は互いに親近感を抱く。到達したとたんに失われる「もうひとつのこの世」を求めて石牟礼も試行錯誤を繰り返していた。

 <ものを創る、表現するということは、潮と舟の舳先(へさき)との親和を創り出すようなことではなかったのでしょうか>と石牟礼は野呂との往復書簡で述べている。文芸評論家の松本道介によると、野呂の原風景は「葦のしげみの中にある打ち捨てられた廃船」である。石牟礼も浜辺で崩れゆく舟のイメージに生涯固執したのだった。

 石牟礼は10代で<あの火は不知火の海から渡って来る/わたくしを招く火/わたくしを呼んでいる火>(「不知火」)と記す。呼応するかのように野呂は、<もうひとつの火が自分の内に/あるとも知らずに>(「不知火」)と書く。期せずしてタイトルも同じである。次なる海を目指し、新しい自分を求める。夢幻的イメージの源泉である。

 野呂は長崎原爆の直前に諫早に疎開し、危うく死を免れている。生家は爆心地から800メートルの至近距離。原爆投下時、7歳の野呂は諫早にいた。
 <西南の方、ちょうどこれから行こうとしている公園の上空にまばゆく白い光球が一つ輝いている。太陽は真上にかかっている。一時に二つの太陽が天空に位置したかのようだった。一、二分後に鈍い爆音が地を圧して轟(とどろ)いて来た>(「地峡の町にて」)

 「解纜のとき」は、まさに題名が示唆するように、永遠の放浪者たる野呂が地球の裏側を目指すかのような大航海を試みた生涯最長の小説である。
 ルポライターの三宅鉄郎と広告会社の営業マン吉野高志の2人が主人公。三宅は諫早で被爆を免れ、生き残ったことに罪悪感を覚える。吉野は長崎で被爆し、白血病で死を覚悟している。2人は野呂の分身だ。交互に描くことで、原爆後の複雑な現実を重層的に描こうとする。
 31歳ごろ構想した「解纜のとき」は35歳で筆を起こした。物語はこれから、という段階で中断され、未完に終わった。原稿用紙850枚。吉野が廃船と向かい合うシーンが印象的だ。<船橋と舳だけが水面にのぞいている船を見ていた。彼が記憶の乾板に焼きつけている廃船のかずかずがこのときになってくっきりと甦(よみが)えってくる>
 大航海を目指して、海から海を経巡るはずが、気がついたら昔からなじんだ廃船と向き合っている--心象風景から抜け出せない。

 元熊本日日新聞記者の久野啓介氏は『石牟礼道子全集』月報に「野呂邦暢さんと石牟礼さんのこと」を寄稿している。久野氏は野呂の訃報に接し、石牟礼に電話をかけた。彼女の言葉に絶句した。
 <「別れを言いに来られたんですよ」/「えっ」/「真夜中に戸を叩(たた)く音がして、目を覚ますと、窓ガラスのところに立っておられたんですよ。野呂さんが」/「……」/「なんにも言わずに。やっぱり別れを言いに来られたんでしょうね」/「……」>
 別れを告げに来た野呂は何を言おうとしたのか。石牟礼が語る野呂のたたずまいと、「中断」で終わった「解纜のとき」の雰囲気は似通う。いきなりぶった切ったような空白は、天才的な筆のさえとどこか通じ合う。

https://mainichi.jp/articles/20180624/ddp/014/040/005000c

 

「野呂邦暢小説集成」完結 長崎原爆テーマの未発表作も

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 6月28日(木)10時36分47秒
編集済
   中野章子さんの『朱雀の洛中日記』で、「野呂邦暢小説集成」完結のニュースを知り、アマゾンで注文しました。調べてみると、朝日新聞や毎日新聞などにも記事が載っていたことが分かりましたので、デジタル版のコピーを転載します。同シリーズの解説者中野章子さんのブログ『朱雀の洛中日記』に載っている「夜の船」は、興味深いので是非ともお読みください。


「小さな物語」懸命に、静謐に 「野呂邦暢小説集成」完結 長崎原爆テーマの未発表作も    2018年6月20日16時30分

 長崎県諫早市を拠点に多数の小説を執筆し、1980年、42歳で早世した野呂邦暢(くにのぶ)。端正かつ正確な文体で今なおファンの多い作家の作品集がこのほど完結した。『野呂邦暢小説集成』(文遊社)で、最新刊の9巻には、ライフワークで、長崎の原爆をテーマにした未発表作を収録している。

 野呂は37年、長崎市生まれ。母の実家がある諫早市に疎開して原爆の閃光(せんこう)を目撃、被爆は免れたが、小学校の同級生の多くが亡くなった。高校卒業後に上京、さまざまな職を経て、自衛隊に入隊する。除隊後は故郷の諫早に戻り、作家活動を始めた。

 全9巻に104作を収録。単行本化されていないものが49作、未発表も3作ある。編集に協力した元都立高教諭の浅尾節子さんは、「国会図書館で、野呂が文筆活動した間の新聞・雑誌のマイクロフィルムをひたすら見続け、未発表作を探した」と話す。

 野呂の特異性は、故郷諫早で終生執筆し、動かなかったことだ。ただし単純な郷土愛ではない。代表作「諫早菖蒲(しょうぶ)日記」(5巻収録)では、主人公の少女が有明海の泥海で育つ魚くちぞこを「厭(いや)でならない」と独語する。「見るからに愚鈍そのものである阿呆(あほう)めいた顔が諫早会所のだれかれを思わせる」「世の中はこんなものだとでもいいたげなどんよりとした眼」。おとなしく控えめで争いを好まない故郷の土地柄。しかしそれも過ぎれば、事なかれ主義で過剰に空気を読む、いわば「忖度(そんたく)」に流れるだろう。

 一方、派手な事件の起きない地方の日常に潜むさざ波を、明瞭に描き出した。「小さな物語を懸命な口調で語る」(4巻収録「朝の声」)ことに自覚的だった。まさに東京以外、日本は地方の集まりであり、小さな声の集まりなのだ。

 もうひとつの特異性は、戦争の影だろう。芥川賞受賞作「草のつるぎ」(3巻収録)は自衛隊での体験を描いた青春小説だが、厳しい批判にさらされたこともある。「ベトナムに平和を!市民連合」呼びかけ人の小田実は、野呂作品には戦争での「死者たちの眼」がないと批判、「作者が自衛隊の是非についてどのように考えているのか」と追及した。

 最新刊に収録の「解纜(かいらん)のとき」は、作家畢生(ひっせい)の大作だ。諫早で原爆投下を目撃したルポライターと、長崎市内で被爆した広告マンが主人公。野呂の分身のような2人が、旧満州で行方不明になった父の秘密や、爆心地の復元地図など、失われた時を求めてさまよう。反戦、反核を声高に訴えない。静謐(せいひつ)な文体はそのままに、「死者たちの眼」に再び光を入れようとする。

 忖度だらけの政権による、自衛隊明記などの改憲が現実味を増す。中央を離れ、戦争を声高に語らなかった「小さな物語」の語り口が、今ほど大きく響くときは、ないかもしれない。

 (近藤康太郎)

http://suzaku62.blog.jp/

 

PS「梅雨の晴れ間の百合の花」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 6月27日(水)21時08分39秒
編集済
  画面が切り換わらないので追加で添付しました。  

魂の「活断層」

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年 6月27日(水)17時03分21秒
編集済
   山本様、青木様、ご投稿拝読させていただきました。

 先日(株主総会前日)、福岡市の繁華街にある旧大名小学校跡地の起業家支援施設で、講師を務めた岡本顕一郎さんが殺害されるという痛ましい事件が起きました。(私の関係する企業も起業家支援施設に事務所を設け、このセミナーの共同主催者として社長を含め複数名が参加していたのです。)

 この事件は、ネット上のハンドルネームを使用した匿名のブログの記事ですら、殺意に直結する憎悪の源となりうることを意味し、さらに闇サイトと呼ばれる確信犯罪者たちの特殊なアジトすらウェブ上に存在することなど、ヴァーチャル(仮想世界)とリアル(実世界)が混沌と入れ混じった次元で連続して引き起こされる社会現象です。

 時節柄、梅雨時の分厚い雲の切れ目から、突如灼熱の太陽が、山百合や紫陽花の花々に照りつけて、輝かせることがあります。その光の美しさや花の色の鮮やかさは、私たちの曇天に馴れた目をリセットしてくれます。私の脳裏には、何故か金田たつえの「雲の晴れ間のあ~あ女の暦」という古い歌の一節が意味もなく浮かんできます。

 その一方で、世知辛い現世と「添い遂げる」ことができず、「光の美しさや花の色の鮮やかさ」を妬み、ナイフを研いでいる確信犯的殺人者たちの澱んだ魂が、日本という狭い国土のあちこちで歯ぎしりをしているという恐ろしい社会現象があります。

 公の場で、多数の人々に向けて自らの言葉を発信し続け、こちらの意図を言葉通りに了解していただくということは、私には何となく至難の業に見えてきます。

 

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