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「天の声 地の声 人の声」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 2月15日(金)16時37分14秒
編集済
    時節柄「堺屋太一氏と大阪万博」という過去の話がいま話題になっています。

 私は、(公務員ではありませんが)当時、大阪府のポーレミックな実践的な小さな課題のいくつかに(殆どがゴーストライターとして)裏方で係わっていていました。その一つとしてEXPO'70の企画もありましたので、薄れた記憶をたどってみます。

 当時、大阪府担当者の間では『人類の進歩と調和』というようなメインテーマ(「日本万博協会」という天の声)には全く関係なく、もっと身近なことを議論していました。例えば、万博が終わると全てのパビリオンは解体撤去されて何も無くなるので、せめて大阪府の地方館だけでも将来残すことを考えて、例えば『大阪の過去・現在・未来』を俯瞰できるような物を集めて地方館に展示して遺すべきだと私は主張し、当時の佐藤義詮知事に大変褒められたことがあります(万博で実現はしなかったが後日、ミニチュア版が法円坂に作られた。私は、知事からホワイトホースと蟹缶3個頂きました。)

 また、当時の万博関連事業として計画された道路網が、大阪港や空港と会場を結ぶ「十大放射三環状」という求心的な自動車道路に偏重したものであったので、通過交通量を減らし都心の車洪水を防ぐために、地下鉄伸延や環状モノレールなどの大量輸送手段の建設を提言した記憶があります。(若造のくせにあまりにも大きなプロゼクトを提案したので、真剣に取り上げてくれたのかどうかは不明ですが、その後竹内豊中市長の公約や土木部専門部隊などにも研究していただいたりして、大騒ぎの末こちらは半ば実現しました。その後故竹内市長が「住宅街のど真ん中で、しかも地上30メーターの高所に電車を走らせるというのは非常識じゃないのか。」と私にぼやいておられました。竹内市長、深夜ご自宅に押しかけて無理ばかり言ってすみませんでした。ナンマンダブツ!!)

(少し自慢話めいて嫌味な感じもあり、また当時の関係者は全て亡くなられ、どのような記録が残っているのか確かめる気も起こりませんが。)

 堺屋さんは、余りにも有名になられて、常に時局の中心から華々しい話題を発信し続けることを生涯運命付けられていたのだと思います。―『人類の進歩と調和』という永遠の道程の何処ら辺りを、私たちは今、歩いているのか?―答えが見つかりません。

 EXPO'2025も、世界の中の大阪を宣伝する良い機会ではありますが、(万博終了後)将来に採算のとれない埋立地や不採算娯楽施設などの大きな負の遺産を府民に残すだけに終わることのないように、計画段階で練りに練ってほしいものです。

 くれぐれも、お祭り騒ぎで始まって「捕らぬ狸の皮算用」に終ることのないよう、堺屋太一氏にもあの世から厳しく「天の声」を発信してもらいたいものです。


 
 

堺屋太一氏のこと

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 2月15日(金)12時40分36秒
   堺屋太一君が死んだ。――堺屋太一「君」というのは、彼と私が同じ中学ー高校の同窓・同級生だったからです。そして、当然だが、年齢も同じ、昭和10年生まれで、彼の享年は83歳だった。
 同年齢の中学ー高校、高校―大学と、同じ道を歩んだ親しい友人が当然、何人もいるわけだが、そのうちもう半分以上が亡くなった。
 住高の3年生、卒業のとき、私は堺屋太一君と同じクラスだった。(担任は大庭先生といって、伊東静雄と同じ国語科で、きわめて親しく交わられたらしく、早く話を聞いておけばよかったと、悔いています)しかし当時はまだ堺屋太一ではなく、本名の池口小太郎君だった。

 彼はユニークな生徒だった。どう、ユニークだったかを言うのはむつかしい。決して天才でも秀才でもなかった。受験勉強にシャカリキになったり、校内の実力テストで一番をとるというような華々しいことは一度もなかった。東大に入ることが唯一の目標、とぼくたちは誰もが後々まで思っていた(が、それは違ったらしい)。二浪して初志を貫いた。

 しかし彼と親しく話したことはほとんどない。彼は社研部で私は新聞部で、クラブ活動での交流もなかった。大学卒業後にも、国家公務員、通産省官僚、万国博覧会、云々という彼の志向および仕事場と、私のそれとはまったく交点を持たなかった。地球の裏と表のような感じだった。これは私の意地もあると思うが、私は彼の有名な著書「油断」「団塊の世代」「峠の群像」などを、一冊も読んでいない。(「豊臣秀長」を書いたと聞いたとき、それまで見えなかった彼の心情の深い一面を、ふと垣間見たような気がした。)

 これは誰に聞いたのだったか、伊東静雄の松虫通の詩碑ができたとき、土砂降りの雨の中の除幕式に出、ちかくのお寺で講演をしたという。それはそれだけのことで、調べるか直接質すかすればわかることなのだろうが、サボって手をつけずに来た。今頃になって、「堺屋」が「伊東」についてどんなことを語ったのだろう、ともっぱら好奇心がうづき始める始末です。

 WEBなどを見ると、彼にたいする賛辞や追悼の言葉がおびただしい。そういう人々にとっては真実そのとおりなのであろう。否定する気もなく、ケチをつける気もない。ただ前にも書いたように、私は彼とはまったく違う場所を生きてきたので、世間の言うことがまるで他人事のようだ。それよりも、はるかな昔、同じ教室で同じ数学の教師にいじめられ、同じ学食で昼メシを食った、変わり者で妙に印象の残る学友が、死んだ、という、そうか、とうとう彼も死んだか、という、(そして私は生き残ったという)その寂しさ、「ほんま、かなわんなぁ」という思い、今はそれがいちばん強いのです。
 

「春支度」

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 2月10日(日)23時43分58秒
編集済
   山本皓造様のご投稿を拝見して、小学校低学年の頃の記憶がおぼろげながら蘇りました。今頃の時節に、餅粉でたくさんの餅花を作って、母に連れられて諫早の本名川沿いの神社?(お寺かも)へお詣りに行く慣行がありました。。汽車に乗って諫早の街へ行くだけでもどこかハレやかな気持になったものです。

 今年は、暖冬のせいでしょうか、例年より「花便り」が早いような気がします。
我が家の窓から見える公園の「河津桜」(写真上)も開花し、先日訪れた「長浜盆梅展」(写真下)で樹齢2~300年の老梅が見事な花を披露していました。

 先日は、用事があって会社から地下鉄御堂筋線に乗ったのですが、心斎橋筋商店街を歩いていると知り合いの紳士服の店長さんが私を呼び止めました。気が付くと、昼御飯のついでに上着も着ないで電車に乗って出かけていたのです。

 明日は、大阪でも雪が降るかもしれないという天気予報が出されていますが、春はもうすぐそこまで来ているようです。今日は、紫陽花の植替えをしました。我が「春支度」です。



 
 

相楽神社の餅花

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 2月 3日(日)15時47分59秒
   早いもので、もう、ひと月がたって、二月、きょうは節分、明日は立春、あさっては旧正月元日だそうです。
 2月1日には近くの相楽神社で「餅花」という行事がありました。元気なころは自転車で行ったりバスで行ったりしていたのですが、最後に見に行ったのは、あれはいつだったか。
 朝日新聞に写真と記事が載りました。毎年することは同じなのに、律義に新聞は毎年、同じような写真と記事を載せてくれます。
 記事にあるように、餅花というのは、今年の豊作を祈る「予祝」の行事で、1月15日の「御田」も同じです。ほかにも「粥占」とか、この神社は古いものをたくさん残しています。
 紅白で飾られた「餅」が寄り集まって可憐に揺れているのを見ると、胸の奥からぬくもりが湧いてくるような気がします。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2019年 1月27日(日)19時14分41秒
  皆様、いろいろありがとうございます
折に触れ、行き合った方や集まりで話していると、林富士馬と交流があったという研究者からお便りを頂いたりという「出会い」が増えていきます。

先日も、そんなに凝視るな を含むエッセイをお読みになった方からの返信封筒(の裏側!)に、ラテン語がなぞなぞみたいに記されていて、調べたらホラティウスの詩句の一節、しかも・・・未来を思い煩うな、今日の花を詰め、という・・・もしかして、静雄はどこかでそれを読んで、本歌どり、いな、翻案したのかもしれないなというアイディアが浮かんだものの・・・静雄が読んだ(かもしれない)書籍の中に、古代ローマ詩人に関するものがあったかどうか(ゲーテあたりからかもしれないなとか)探索の道は道草ばかりですが。
それもまた、出会いに繋がるかなと思ったりしています。

韓国外国語大学の徐載坤ス・ゼコン教授(萩原朔太郎研究から出発した日本文学研究者)の特別講義を先日、聴講してきました。静雄の戦争詩に関しても、新たなアイディアを頂きました。少しずつですが、頑張ります。
 

青木さんの「伊東静雄研究書誌」

 投稿者:大山 襄  投稿日:2019年 1月27日(日)18時50分44秒
  青木由弥子さん。
小生の拙文を「伊東静雄研究書誌」に取り上げていただきありがとうございます。
書誌完結とともに、青木さんの伊東論文期待しております。
 

伊東静雄と前川佐美雄

 投稿者:中路正恒  投稿日:2019年 1月24日(木)03時47分7秒
編集済
  青木由弥子様 「研究書誌リスト」拝見しました。こういう書誌情報がネットでいつでも見れるようになっていると、とてもありがたいと思います。収集する努力や手間も大変だと思いますが。まずはリストとして上げられた分を活かしてゆきたいと思います。ありがとうございます。

本歌のことですが、前川佐美雄の歌集『大和』「遍照」に

>山にのぼり切なく思へばはるかにぞ遍照の湖(うみ)青く死にてみゆ

があります。「哀歌」を本歌としているでしょう(山中智恵子はその歌をあるところで評しています)。佐美雄は伊東静雄と実際の交流も多少あったようです。佐美雄の全集第3巻「散文」篇に「伊東静雄を憶ふ」という弔文があります。それによれば最初に会ったのは昭和14年7月。「日本歌人」大阪歌会に来て厳しい批評をしていったことが書かれています。その翌年の山田新之輔の結婚披露の会でも会って、記念写真の席をめぐってのちょっとしたエピソードが書かれています。それ以上の深い付き合いはわたしは今のところ知りませんが、伊東に深く共感するところはあったようです。
とりあえず。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

 

伊東静雄研究書誌(作成中)リスト

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2019年 1月23日(水)16時25分6秒
編集済
  中路正恒様のご投稿を拝見しました。『詩と思想』という詩誌の編集委員をしております、青木由弥子と申します。

中路様のブログのことを存じませず・・・
辿っていきましたら、山中智恵子が静雄の詩を「本歌」としていることを教えて頂きました。
ありがとうございました。
江田浩司さんにもお目にかかる機会があり、興味を惹かれているところでもありました。

中路様のご論考は、大学の紀要で拝読させていただいておりました。
投稿掲示板を通じて、静雄研究の横のパイプラインのようなものが出来ていくことを願っています。(『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出が「公論」昭和15年であるということを諫早の伊東静雄研究会の上村紀元さんから教えて頂いたのですが、2015年の段階で、瀬尾育生さんも林浩平さんもご存じなく・・・横の連携の必要性を強く感じたことがありました。)

ネットを活用して、日本全国の伊東静雄研究者、愛好者、愛読者が情報を共有できるようになればよいと思った次第です。

帝塚山大学の紀要など、最近の調査研究も加えていかねばなりませんが、
2015年までのところで止まっている静雄関係文献一覧を投稿しておきます。
(重要文献が抜けていることと思います。お手すきの折に、ご教示いただければ幸いです。2016年以降は、また改めて調べて、読んで確認してからリストに入れていこうと思います。)

〈伊東静雄〉参考書誌一覧
※文学全集収載のもの、復刻版詩集、同窓会編資料集等は省略(文責 青木由弥子)
◆単行本
1970『伊東静雄詩がたみ―光と影』一柳喜久子/法文館
1971『定本 伊東静雄全集』桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編/人文書院(1961初版・増補改訂版)(詩篇、散文、日記、書簡、作品年譜、年表。別添研究書誌一覧)
1971『伊東静雄研究』富士正晴編/思潮社(生前の批評、追悼文(「祖国」静雄追悼号全篇含む)等、百篇を越える集成。桶谷秀昭、磯田光一、北川透、大岡信等の戦後の静雄論も収載。詳細な書誌一覧、年表あり)
1976『詩人、その生涯と運命―書簡と作品から見た伊東静雄』小高根二郎/国文社(1963初版・増補改訂版。年譜あり。)
1978『朔太郎と静雄』清水和子/吟遊双書2・JCA
1982『伊東静雄 その人生と詩』三宅武治/花神社
1983『伊東静雄論考』小川和佑/叢文社(1973『伊東静雄論』五月書房、1980『伊東静雄』講談社現代新書、研究書誌増補版)
1983『戦時下の作家と作品』安永武人/未来社(伊東静雄『春のいそぎ』収載)
1985『伊東静雄 憂情の美学』米倉巌/審美社(新発見書簡、略年譜付き)
1992『雑誌コギトと伊東静雄』高橋渡/双文社
1994『詩人の夏 西脇順三郎と伊東静雄』城戸朱里/矢立出版(93年の講演録の改稿)
1995『夢想の歌学―伊東静雄と前登志夫』櫟原聡/雁書館
1996『ヘルダーリン―予め崩れる十九世紀近代 伊東静雄における受容との関連にて』縄田雄二/西田書店
1996『伊東静雄』野村聡/審美社
1997『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』大塚梓・田中俊廣編/本多企画(16歳~23歳までに大塚格に宛てた書簡133通)
1998『伊東静雄 詠唱の詩碑』溝口章/現代詩人論叢書?・土曜美術社出版販売
1999『詩人その生の軌跡:高村光太郎・釈迢空・浅野晃・伊東静雄・西垣脩』高橋渡/現代詩人叢書?・土曜美術社出版販売
1999『抒情の方法 朔太郎・静雄・中也』長野隆/思潮社
2002『伊東静雄論・中原中也論』永藤武/おうふう
2002『伊東静雄と大阪/京都』山本皓造/ソフィア叢書5・竹林館
2003『痛き夢の行方 伊東静雄論』田中俊廣/日本図書センター
2006『萩原朔太郎 晩年の光芒』大谷正雄/てんとうふ社(「天性誌の中の伊東静雄」、伊東静雄書簡他)
2008『詩学入門』中村不二夫・川中子義勝編/土曜美術社出版販売(溝口章「伊東静雄」収載)
2010『伊東静雄日記 詩へのかどで』柊和典・吉田仙太郎・上野武彦編/思潮社(静雄17歳~23歳までの日記。詳細な註あり)2012『近代詩雑纂』飛高隆夫/有文社(「伊東静雄「水中花」」「伊東静雄の語法」収載)
2013 『ことばの遠近法 文学/時代/風土』田中俊廣/弦書房(静雄論4篇収載)
2013『伊東静雄 酒井家への書簡』上村紀元/伊東静雄研究会/私家版
2015『敗戦日本と浪漫派の態度』澤村修治/シリーズ知の港2・ライトハウス開港社(「「治者」の発見―伊東静雄」収載)

◆文庫、選書、新書(入手容易なもの)
◇詩集
1980『伊東静雄詩集』藤井貞和編/現代詩文庫1017・思潮社
1989『伊東静雄詩集』杉本秀太郎編/岩波文庫・岩波書店
1994『伊東静雄詩集』桑原武夫・富士正晴編/新潮文庫・新潮社(1953創元選書、1957新潮文庫)
1997『伊東静雄詩集』林富士馬編/小沢クラシックス日本詩人選?・小沢書店(1973旺文社文庫)
2005『蓮田善明/伊東静雄』近代浪漫派文庫35・新学社
◇評伝
1971『詩人・伊東静雄』小高根二郎著/新潮選書・新潮社
1972『苛烈な夢 伊東静雄の詩の世界と生涯』林富士馬・富士正晴著/現代教養文庫749・社会思想社
1980『伊東静雄 孤高の叙情詩人』小川和佑著/講談社現代新書・講談社
2009『伊東静雄』杉本秀太郎著/講談社文芸文庫(1985筑摩書房版)・講談社

◆雑誌特集号(四季派特集などは省略)
1971『ユリイカ』「増頁特集 伊東静雄」/?月/青土社
1975『国文学 解釈と鑑賞』「現代の抒情〈中也・静雄・達治〉」/3月/至文堂(原子朗「伊東静雄主要研究文献目録」あり)
1978『四次元 詩と詩論』「特集 伊東静雄」/4月第6号/矢立出版
1979『現代詩読本? 伊東静雄』/思潮社
1987『焔』「小特集 伊東静雄」/第六号/福田正夫詩の会
1995『イロニア』「特集 伊東静雄」/第七号/新学社
1995『堺のうた堺の詩歌俳人〈詩人 伊東静雄〉』/第参冊/ふたば工房
2000『四年坊』「それぞれの伊東静雄」/第三号(住吉中学第二十期生中心の同人誌)
2003『関西文学』「特集 没後五十年 伊東静雄」/第37号/澪標
2003『PO』「特集 伊東静雄」/110号/竹林館

◆関連書
1997『声の祝祭 日本近代詩と戦争』坪井秀人/名古屋大学出版会
1998『日本浪漫派批判序説』橋川文三/講談社文芸文庫(初版1960未来社、1985年筑摩書房『橋川文三著作集1』に基づく)
※その他の日本浪漫派関連書は省略
2006『戦争詩論1910-1945』瀬尾育生/平凡社(補論3「敗北の暗示〈伊東静雄・及川均〉)※『春のいそぎ』収載の「夏の終」の初出は、『定本 伊東静雄全集』では不明だったが、現在は昭和十五年の『公論』十月号であることが判明している。(一般に入手可能な書物では『萩原朔太郎 晩年の光芒』2006参照。)瀬尾氏は「夏の終」をミッドウェー海戦後と推定。予感を示す作例とする論旨が動くわけではないが、氏より「できる限り早く、その修正をしたい」と言付かっているので、ここで訂正しておく。
2008『「近代の超克」とは何か』子安宣邦/青土社
2010『地域学への招待』京都造形芸術大学編(中路正恒編集責任)/角川学芸出版(中路正恒「伊東静雄のポジション」収載)
◆研究論文(近年のもの)
1992「伊東静雄と浜田広介―新見資料を中心にして」穀田恵子『宮城教育大学国語国文』3月
1993「伊東静雄と三島由紀夫」涌井隆『名古屋大学言語文化部』3月
1995「肥下恒夫宛 伊東静雄葉書二十通他一通」飛高隆夫『四季派学会論集』第六集
1997「再考 伊東静雄とヘルダーリーン」吉田正勝『大阪樟藤女子大学論集』3月(「再考 伊東静雄とヘルダーリーン 補遺」前掲論集1998・3月)
1997「伊東静雄と危険な抒情:『春のいそぎ』の方法」長野隆『現代文学』弘前大学?月
1999「『詩集夏花』期の伊東静雄―〈茫漠・脱落の戦略について〉」碓井雄一『日本文学論集』(大東文化大学大学院日本文学専攻院
生会)3月
1999「夏の詩人」(伊東静雄論、継続中)萩原健次郎『海鳴り』?号(編集工房ノア)
2000「古今集歌の詩的本質と普遍性について―伊東静雄とリルケと古今集歌」藤原克己『國文学:解釈と教材の研究』4月
2002「伊東静雄『詩集夏花』論―萩原朔太郎『氷島』の後継として」小川由美『清心語文』8月
2004「伊東静雄の詩の中の「朝顔」と「?」」中里弘子『静岡大学留学生センター紀要』2月
2004「伊東静雄参考文献目録?」碓井雄一『近代文学資料と試論』?月
2005「伊東静雄初期詩法論―『わが人に与ふる哀歌』まで〔付「伊東静雄参考文献目録稿」・増補〕碓井雄一『近代文学資料と試論』6月(小川和佑、原子朗以降2003年までをつなぐ書誌研究、文献目録)
2006「ドイツ文学の伊東静雄」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「伊東静雄のリルケ体験」渡部満彦『大妻女子大学紀要』3月
2007「「小さい手帖から」「『反響』以後」の詩法」中里弘子『静岡大学国際交流センター紀要』3月
2008「伊東静雄論―「吾にむかひて死ねといふ」のは誰か―「愛国詩」とはなにか」林浩平『三田文学』夏季号
2008「詩人のイロニー/批評家のイロニー―伊東静雄と保田與重郎のメディア的相互投射」大澤聡『言語態』8月
2009「ある日の伊東静雄―「モルゲン」と「哀歌」」中路正恒『京都造形芸術大学紀要』14巻
2012「大山定一が愛した詩人:伊東静雄をめぐる文献展望」大山襄『アリーナ』(中部大学国際人間学研究所)
2015「伊東静雄論:詩集『反響』の「小さい手帖から」を中心に」原明子『福岡大学日本語日本文学』25号
2016「伊東静雄『春のいそぎ』考」青木由弥子『詩と思想』9月

 

返信ありがとうございました

 投稿者:中路正恒  投稿日:2019年 1月22日(火)13時34分8秒
  Morgen様
返信を有難うございました。拙ブログページを紹介して下さっていたとのことまことにありがとうございます。この掲示板を見るのも今回が初めてで、知らずに申し訳ありません。
一度命日に伊東静雄のお墓にお参りしたいとかねてから思っておりましたが、なかなかその機会が得られません。今年もむずかしそうなのですが、このホームページがるのを知って、情報がつかめるので、それを活かして機会を得たいと思っています。
まずはお礼まで。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

 

(無題)

 投稿者:162  投稿日:2019年 1月19日(土)03時47分56秒
  本棚の写真を添付しようとしましたが、うまくいきませんでした。
近いうちに詳しい者に手助けしてもらって投稿するつもりでおります。
申し訳ありません。
 

(無題)

 投稿者:162  投稿日:2019年 1月19日(土)03時37分50秒
  1月13日の投稿を下記の通り訂正します。

富士正晴全集 → 富士正晴の著書

当日に撮影した写真を探し出して確認したところ、記憶違いがあることが判明しました。
誠に申し訳ございません。
庄野潤三の著作物が並んでいる段の「絵合せ」「屋根」「丘の明り」の真上に「極楽人ノート」がありました。
 

中路先生ようこそ

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 1月18日(金)23時21分13秒
編集済
  中路先生ようこそ

WEB上で展開された先生の「伊東静雄論」は、かつてこの掲示板でも紹介させていただきました。「なるほど なるほど」と頷きながら、読ませていただいたように記憶しております。ニーチェ論の方は少し難しくて、私はまだまだ消化不良のままです。

梅原猛先生が亡くなられて、いわゆる「新京都学派」と呼ばれたような文化風土の色彩が薄れていくような寂しさを感じます。

ますます個性的な活躍の幅を広げていただいて、絶え間なく多彩な情報を発信くださることを心から期待しています。今後ともよろしくお願いします。

正月は、奥飛騨温泉~飛騨市古川町方面にいましたが、ロープウェイ山上でも降雪のため良い写真は撮れませんでした。添付した写真は人工的に水をかけて凍らせたつららの壁です。 
 

姫路の酒井家で:拙論「ある日の伊東静雄」

 投稿者:中路正恒  投稿日:2019年 1月18日(金)21時14分28秒
  はじめて投稿させていただきます。
去年は機会があって姫路に酒井小太郎の家を探しに行き、今は駐車場になっていましたがその家の合った場所を発見しました。今は地番が変わっていて、法務局の方のご協力があってはじめて発見できた場所です。---ご存知の方も少なくはないと思いますが。

 今まで伊東静雄が「哀歌」を書く前に訪れた姫路の酒井家での出来事を推察して論文にしていましたが、やっとその場所にたどり着きました。

 WEBにも載せておりますその拙論を紹介させていただいてよろしいでしょうか?
https://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html
 です。
 お許しいただければ幸いです。

http://25237720.at.webry.info/201011/article_35.html

 

人間の一生に影響を及ぼした本との出逢い

 投稿者:Morgen  投稿日:2019年 1月17日(木)23時07分25秒
編集済
  ・・・・・・・・・・
もし、このとき、『反響』に巡り合わなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか? この仮定の問いには答えにくい。・・・・・ある人との出逢いが人間の一生を左右し得るように、ある本との出逢いが人間の一生になにがしかの決定的な影響を及ぼし得るものである。よしその本が、あまり世間には名を知られていない詩人の、小さい詩集であったとしても。

 これは,『なつかしい本の話』(江藤淳著 1953年 新潮社)から抜粋した文章です。

 江藤さんは、昭和23年、鎌倉から東京都北区に引っ越されました。この時旧制中学3年生。近所の古本屋で、名前も知らない詩人の『反響』という詩集を立ち読みしたのがその出逢いでした。(続けて抜粋します)

 それは「夏の終わり」という詩であった。そこには、私の心の底のうずきに応じてくれる言葉があった。そしてその言葉は、あきらかにひとつの確乎たる美的世界を構成して、不可思議な新時代におのずから相対峠していた。当然、私の胸は震えずにはいられなかった。

 ≪……さよなら……さよなら……
  ……さよなら……さよなら……≫

 雲は流れながら、メロディを奏でる。この長調のメロディが、かくもしっくりと心の底にわだかまっているうずきに応えてくれるのは、なぜだろう?

 私は、自分がいまなによりも、このような<……さよなら……さよなら……>という歌を必要としていることに、気がつかざるを得なかった。(鎌倉にも、今までの生活様式にも、時代にも、日本にも)

 しかし、伊東静雄という詩人は、どうして「夏の終わり」というこの本質的には悲哀に充ちた詩を、かくも明るいメロディで歌うことができたのだろう。

(江藤さんは名も知らぬ詩人の『反響』という小さな詩集から、「伊東静雄以下のような啓示(伝言)を感得し、自らの一生を左右されるほどの影響を受けたのかもしれません。以下も抜粋です。)

「行って お前のその憂愁の深さのほどに」という詩の中の

<行って お前のその憂愁の深さのほどに
 明るくかし処を彩れ>が、
(この問いに対する)ひとつの啓示のごとくに響いた。

 詩人は、何か大きなものを喪いつつ、むしろその喪失を創造の出発点に据えて、<明るくかし処を彩>ろうとしている。そしてそれはまた私という日本人に対する詩人の伝言とも考えられた。

 そして『中心に燃える』という詩では、<明るくかし処を彩る>ためには、人は「自ら燃え」ればよいのである。そう詩人は歌っているのであり、それが私の心の底のうずきに応えてくれる詩人の言葉(メッセージ)であるように感じた。


 冒頭の「人との出逢い」「本との出逢い」がその人の一生を左右するという文章も印象的ですが、旧制中学3年生が、『反響』という一冊の詩集から、一生を左右するような深い「啓示」を受け取ることができた―このことの方が私には驚きです。

『反響』が出版された敗戦直後の時代は、庄野さんや富士さんだけでなく、日本人の多くが心の中にそのような「啓示」を抱いて、「自ら燃えるしかない」と懸命に頑張ったのだろうと私には思えてきます。







 

庄野さんの本棚

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 1月15日(火)14時13分21秒
編集済
   1月13日の "162" 様。
 貴重なご投稿を、ありがとうございました。

『山の上の家』には、何点か、庄野さんの書斎の写真が収められています。私は、どんな本が並べられているのだろうと、ルーペまで持ち出して、読み取ろうとしてみたのですが、はっきりとは見ることができませんでした。
 庄野さん自身は、「仕事机のすぐ近く、手を伸ばせばすぐ取れるところに、伊東先生の本を置いていた」ということを書いていますが、富士さんの作品集が、おそらく相当の敬意と親近感をもって、その近くに置かれていたという事実は、私たちを安心させます。
 いろいろ言いたいことが湧き出て来ますが、最小限、私は、庄野さんが富士さんの本に与えたこの処遇を、庄野さん流の〈分別〉と考えることにしました。

 今後ともどうか、さまざま、ご教示をいただきますよう。
 

(無題)

 投稿者:162  投稿日:2019年 1月13日(日)22時49分3秒
  昨年9月に庄野潤三の家を見学して、最も印象に残ったことは
書斎の本棚の一等地(仕事机のそばの目につきやすい位置で、天井近くとか床近くではない場所)に
富士正晴全集がおさめられていたのを見たことです。
 

庄野潤三初期作品年表

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 1月 8日(火)19時12分31秒
  こういうものを作りました。(後続の投稿のため)
リンクを右クリックして、「対象をファイルに保存」し、印刷して、見てください。
長いファイル名は適当にリネームしてください。

庄野潤三初期作品年表

試行中ですので、うまくいくかどうか、不安。
 

富士正晴の伊東静雄書誌

 投稿者:山本皓造  投稿日:2019年 1月 7日(月)21時43分28秒
編集済
   皆様 明けましておめでとうございます。
 我が家では、親、子、孫、計9人が顔を揃えて、温かいお正月を祝うことができました。
 皆様方にもどうか今年も、すこやかに、ご活躍をお祈りいたします。

 自分用の「富士さんの伊東書誌」を作ってみました。といっても、材料は小川先生の作成された文献目録から富士さんの著作物を抽き出しただけのものす。これで、読めるものはすべて読み、あと、アプローチ不能のいくつかは、現在只今のところはあきらめるほかない、ということがわかりました。
 もしかして、皆様のお役にたてればよいのですが。(お気づきの点がありましたらご教示ください)


伊東静雄、三人第12号 昭和11.5→『研究』
伊東静雄序説、三人9月号~2月号 昭和14.9~15.2
『詩集夏花』をめぐって---伊東静雄論---、文芸文化1月号~3月号 昭和15.1~3→『研究』
祝ひの詞、文芸文化50号 昭和17.8 伊東静雄・田中克己透谷賞受賞記念号
伊東静雄、午前第7号 昭和22.2→『研究』『作品集三』
伊東静雄のこと、祖国 伊東静雄追悼号 昭和28.7→『研究』
伊東静雄詩集、創元社 昭和28.9 桑原武夫と共編→新潮文庫
   ?   、詩と真実昭和28.9 [『富士正晴作品集五』年譜に記載、表題不明]
伊東静雄について、近代文学12月号 昭和28.12→『研究』、『読本』
伊東静雄全集 桑原武夫・小高根二郎・富士正晴編(人文書院 昭和36.2)
富士正晴・中村光行・山田博之・鳥巣郁美、座談会・伊東静雄の断面、人間10号 昭和36.12 研究号
伊東静雄と酒、果樹園100号 昭和39.6 伊東静雄特輯号→『作品集三』
伊東静雄詩集 世界の詩16 桑原武夫・富士正晴編(弥生書房 昭和39.7)[付 後記・年譜]
詩人・伊東静雄、毎日放送 昭和39.10.11 [ラジオドラマ]
富士正晴・小野十三郎・斎田昭吉・中石孝、座談会・伊東静雄---人と作品---、日本浪曼派研究創刊号 昭和41.11
「文芸文化」とわたし、バルカノン22輯 昭和42.2 特集雑誌「文芸文化」
回想、『伊東静雄詩集』『わがひとに與ふる哀歌』復元版別冊 冬至書房 昭和43.2
小ヴィヨン、『贋久坂葉子伝・小ヴィヨン』冬樹社 昭和44.11→『作品集五』
伊東静雄少々、ユリイカ 3巻11号 昭和46.10→『読本』
富士正晴・林富士馬、『苛烈な夢---伊東静雄の詩の世界と生涯』、社会思想社教養文庫749、昭和47.3
林富士馬、『伊東静雄詩集』解説、旺文社文庫 昭和48.5
『カラー版 日本の詩集・第15巻 伊東静雄詩集』解説、角川書店 昭和48.5
伊東静雄の思い出、解釈と鑑賞 昭和50.3→『読本』『極楽人ノート』『作品集三』
伊東静雄と日本浪曼派、ユリイカ 昭和50.10→『読本』『極楽人ノート』『作品集三』

  略記:『研究』←『伊東静雄研究』思潮社
     『読本』←『現代詩読本10 伊東静雄』思潮社
     『作品集三』←『富士正晴作品集 三』岩波書店
 

スペーロ

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2018年12月26日(水)13時54分48秒
編集済
   Morgen さん。よくみつけましたね。私は Festina Lente は目についたのですが、下段の句には気がつかなかった。
 もやもやと、いろいろ考えているうちに、不意に、昔書いた文章を思い出しました。
 昔、最後の勤務校で「歴史文化部」というクラブの顧問をやっていて、定年退職後、そのOB会をつくり、春と秋にあちこちの「歴史・文化」を訪ねて、歩き回っていました。そして、自分で勝手に「OB会ホームページ」を立ち上げ、そこに「ひとりごと」という総題で小さなエッセイみたいなものを連載していました。その第一回が「子供の詩」という題で、いま、それを思い出したのです。
 思い出したのだから、dum spiro, spero と関係があるのだろうと思うのですが、でも、どんな関係が?
 私は岩波の『ギリシア・ラテン語引用語辞典』というのをもっていて、試みにそれを引くと、
  私が呼吸する間、私は希望を持つ(北米合衆国の南Carolina州:Ascotti)
という説明がありました。何のことだろうか。
 

“DUM SPIRO, SPERO”

 投稿者:Morgen  投稿日:2018年12月25日(火)16時01分50秒
編集済
   中野さんの「朱雀の洛中日記」<12月21日>“Festina Lente”(悠々として急げ)というご投稿がありました。添付されている京都のビル写真を観ると壁面にもうひとつの格言が刻されています。 (添付画像も中野さんの撮影写真を借用)

   “DUM SPIRO, SPERO”

 「どんな意味だろうか?」と思って調べてみると、英語では“As long as I breathe,I hope"(私は呼吸をしてる限り希望を抱く)というほどの意味だそうで、古代ローマのキケロ(BC106~43)の言葉だそうです。―「死んだら終りよ」というネガティブな意味と、「最後の瞬間まで希望を捨てるな」とポジティブな意味のどちらにも読めそうです。

 今年もあと6日で終りですね。しかしながら身辺を見渡すと、公私ともに年内には片付きそうもないことばかりで、シームレスな時が容赦なく流れていきます。(行く川の流れは・・・・・)

 私も大きな夢を(spero)周りの若者達に託しつつ、静雄詩「春の雪」に歌われる下草のごとく新しい亥歳を生息して参りたいと思っております。会社としては、AIによる多国語翻訳をインターネットで提供したり、JAXAの人工衛星から送られてくるデータの保存や提供など、胸躍る使命が課されていて、空のどこかで“Festina !”(猪突猛進せよ)という太鼓が鳴らされているようでもあります。
「昔の経験などは殆ど役に立たない時代になった今、はたして私の役目はなんだろうか?」と自問自答しながら、「ステークホルダーから私にに託され使命は」などと、テキスト通り原点に戻って考えてみるのが事始かなとも思います。しかし、それほどゆっくり(lente)している間もありませんので“Dum spiro, spero" と自らに言い聞かせて、息の続く限り(dum spiro)夢を抱いて、走り(fesitina)続けたいと思っております。

 皆様、お元気で年を越されて、幸せな亥歳をお迎えくださるようにお祈りします。

http://suzaku62.blog.jp/

 

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