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小野十三郎の詩について

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月15日(日)21時03分17秒
   青木由弥子様のご投稿を拝見して、トリビアルなコメントを二、三書きつけます。

 伊東の「述懐」の、「誉なりけれ」→「誉なりける」について。私はこれは、「これわが軍神が/……誉なりける」と、単に係り結びを正しく書き改めただけと思います。

小野十三郎「物質の原にも」のうち、

①「今日も私は濃き硫酸の……」の「私」について。
 私はこの「私」を、詩人のことと読み、「私は詩人として今日も眼前の枯れ葦や灰色の空や硫酸の煙やそれらの光景を、言葉によって作品の上に造り出そうとする」というふうに読んでみました。

②「あゝわれらの物は」などの「われら」について。
 連想はすぐ「あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり」へ行きます。おそらく用法の上でも同じものと見てよいのではないでしょうか。
 いつかどこかで、「こら!」という、私たちが日常使っている叱声が「子等!」と表記されるのを見て、思わず膝を叩いたことがありました。「ら」は基本的には複数をあらわすのですが、手元の古語辞典を見ると、たとえば
  われら【我等】《ラ は接尾語。蔑視・卑下の意をこめて使うことが多い》
  ①一人称。(イ) われわれ……(ロ) わたしなんか ②二人称[下略]

ですから「われら」は、時によってはほとんど「われ」と同じい。「ら」は、声調を整えたり強調したりする役割だけのものであり得る。小野さんの詩句のなかの「鐡ら冷え、石凍り」において、「鐡」を複数で、「石」を単数で書かねばならない理由はまったく無く、これはただ、テツラヒエ イシコオリ と、5・5の音数を揃えるための操作であろうと考えます。(小野の場合、音数律は決して意識的な規範になることはありえませんが、無意識の域ではやはり一種のリズム的な好悪感が働くのでしょう。)

③「われら」の続き
そこで「われらの物質は」「われらの物は」は、くだくだしく書き換えてみると、
  私(もしくは私と同じ詩精神の所有者である詩人たち)が、
  視て、詩に言い表わす、あれらの物たちは……

ということになります。

④〈物〉と〈精神〉について
 〈精神〉とは幻のようなものであって、〈物〉は、そのような〈精神〉までも含み込み、〈精神〉にたいして超越的な〈存在〉であり、それゆえに〈物〉は〈精神〉よりも一層〈生きて〉いるのです。
 もともとアニミズムでは〈もの〉が〈たましひ〉を持つのです。付会すれば、小野は
  おまえら[この ラ は複数]、日本人たちよ、〈物〉をバカにするなよ。〈大和魂〉
  とか云って〈物〉をバカにしていると、いまに〈物〉に復讐されるぞ。

と、云っているのです。

 反戦詩、とまではいかないとしても、少なくとも単純な「軍神につづけ」の歌ではないことは、詩人の気構えからしてもたしかです。第一これでは「軍神につづ」きようがありません。小野は正直に「私は戦争詩も書いた」と云っています。が、反面でこのような詩も書いて、巧妙に「検閲」の眼を眩ましつつ、戦時下における自分のあり方を、証言として残しておこうとしたのではないでしょうか。立派な精神主義よりは物活論の蒙昧を私は選ぶ、という、イロニイを、まじめな顔で書きつけることによって。
 
 

硬質な抒情

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 5月13日(金)15時47分29秒
  Morgenさま 山本皓造さま

Morgenさま
「八月の石にすがりて」は、読めば読むほど不思議な感覚になる作品ですよね。
蝶を見ている…おそらく大阪の炎天下の「日常」の次元から、蝶の姿が消えて、闇で燃える「いのちの火」の輝きに飛び、さらにその「火」の中に飛び込んでしまったような、周り中、光で真っ白け、というような空間に飛んで…燃える太陽をにらみつけているような炎天の大阪に瞬間移動して、そこからまた、雪原のロンリーウルフに想念が飛ぶ…こんな忙しい詩があるでしょうか?この状態を実感していたとしたら、確かに目が回りそうです。闇と光、蝶と猛獣、夏と冬…。極端なものを引き合わせる、という手法は、ちょっとシュールレアリスムの理論にも似ている気がしますが、大きなものと小さなもの、といった対立するものを取り合わせるのは、むしろ俳句の手法からの影響ではないか、という気がしています。
「曠野の歌」の白雪や、「氷れる谷間」の〈一瞬に氷る谷間/脆い夏は響き去り…〉の極端な振幅とか…「冷たい場所で」の荒く冷たい岩石、のイメージ、などなど…

「固い光沢」、小野十三郎さんも、〝うまいこと″言いますね。
ちょうど今、昭和18年刊の『軍神につづけ』を調べているところでした。大政翼賛会が、当時の短歌、俳句、詩の第一人者に依頼し、開戦一周年に当たる心境を「軍神につづけ」の総題のもとに作品にする、という企画を立て、詩は東京日日(毎日)、短歌は朝日、俳句は読売に発表させる、ということがありました。それを一冊にまとめた小冊子です。

伊東静雄は「軍神につづけ」の題で、『春のいそぎ』に「述懐」として収録されている作品を提供しています。「軍神につづけ」では「皇国の誉なりけれ」となっている所が、「述懐」では「皇国の誉なりける」となっている程度で、ほぼ同じです。「述懐」の初出について、どなたか調べておられる方がいらしたかどうか…。

小野十三郎も詩を提供しています。

「物質の原にも」
薙ぎ倒されたやうに
冬の葦は枯れてゐる
周囲の街も山も海も暗い。
一刷毛の青もない 底冷えする
灰色の空へ
今日も私は濃き硫酸の煙をあげやうとする。
大森林のやうなおだやかな翳の中に
清浄な光の斑(ふ)を散らし
われらの物質は反射し交錯し堆積してゐる
あゝわれらの物は
物にしてすでに物に非ず
また単なる魂のごときものでもないのだ。
鐵(てつ)ら冷え 石凍り
十二月八日再びきたる。
長期戦 長期戦
日頃見慣れたわが重工業地帯の風景には
何の変りもないが
今は「精神」よりも強烈に しずかに
われらが物ここに
生きるを感ず。

これって、戦争詩?報国詩?というくらい、戦時色が感じられないことに驚いているのですが(小野十三郎の全集を調べていないので、この作品が後に詩集に収録されたかどうかは、まだわかりません。ご存知の方がいらしたらご教示ください)
…私、が硫酸の煙をあげる…語り手は工場なのでしょう。工場そのものが、周囲の荒涼とした風景を眺めながら、自分たちが生み出した「物」が生きている、ということを(逆に言えば、「人」「人間」は活きていない、ということを)語っている。

この詩の方が、むしろ初期の静雄っぽい、と思ってしまうのですけれど…Morgenさんのお話を伺って、小野十三郎は、モダニズム的な風景の中に「固く冷たく光るもの」を意識的に取り込んだ、と言えるのかもしれない、と感じました。

山本皓造さま
山本様の「谷間の明り」、貴重な引用をたくさん、ありがとうございます。
ちょうど、山羊塾(八木幹夫講師)で梶井基次郎を読んだところでした…課題作品が「闇の絵巻」。闇の中に置かれると、人は最初は恐怖や不快を感じるが、その闇を…いわば甘受する覚悟を決めてしまうと、その闇がむしろ安息として感じられる…という随想的な文章の後に、〈黒ぐろとした山〉が行く手に立ちふさがっていて、〈その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起した。パアーンとシンバルを叩いたような感じである〉つまり、人家の光ではない輝きには、恐怖を感じる、という体験を書く一方で、〈如何ともすることの出来ない闇〉の中に〈一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている…私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた…男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは…「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ」…という感動なのであった〉と述べていて…この一節を読んだとき、人家の明り、に照らされる一瞬と、闇に没する時間との交錯が「生きている」ということであり、最終的に闇は死(安息、安住)の空間、と考えていたのかもしれない、と思ったのでした。

窓の灯を見上げて、詩作の苦悩と痛切な陶酔のようなものに静かに共感していたリルケもまた、闇から現れ、誰かの光に照らされ…あるいは自ら灯した光を誰かに投げかけながら、また闇へと去っていった詩人であるのかもしれません。
 

谷間の明り

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月10日(火)18時37分44秒
編集済
   青木様が「自立した孤」ということに関して、「広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている」と書いておられる個所を読んで、そのときとっさに私に、2つのイメージが浮かびました。それについて書いてみます。「解明」までは行きませんので、ここではイメージの提示だけです。引用ばかりになりますが、お許しください。

 その一は、堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」の一番最後のところ。

 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪の上に、何処からともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわしてみると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……(新潮文庫 p.197-198)

立原道造はその評論「風立ちぬ」でこの部分をとりあげて、堀辰雄への訣別の言葉を準備します。

 僕らは、「親和力」のなかで、嘗てこのやうな言葉をきいた――「人はどんなに世を離れてくらしてゐても、知らない間に、他の人に役立つてゐたり、おかげを蒙つてゐたりするものだ。」と。オチリエがそれをいふのだ。僕らの詩人もまた、今はそのことを言ひたいのではなからうか。――「あつちにもこつちにも、殆どこの谷ぢうを掩ふやうに、雪の上に点々と小さな光の散らばつてゐるのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。」(S.190)とつぶやくときには。僕らは先にこの言葉をひとつの静寂な饗宴から理解した。しかし今むしろ、非常に感傷的な感想として、ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る。生きた人間は恒に他の人から自分を奪はれねばならない。そして自分も他の人も満足しながら、この掠奪がなされるのは、ひとつのやはり美しい感謝ではなからうか。詩人の弱々しい微笑は、限りない肯定である。どこから、この肯定は、しかし僕らに訪れるのか。ひとつの entsagen から? 否。ひとつの entscheidenから。(筑摩書房版『立原道造全集第3巻』 p.261-262)

 立原がここで「ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る」と云うのは、前の堀辰雄の引用部分のすぐあとに続いて、次のように書いているのを指します。

 漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見てみようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……(新潮文庫 p.198)

 立原は堀のどこが気に入らないのでしょうか。立原の「風立ちぬ」を読み解くというのは実は、私の前からの課題になっていて、ハイデガーまで担ぎ出した挙句に、音をあげて放り出したのでした。ここでは、谷間に散在するかすかな明り(と、それについての堀辰雄の感慨、立原の何やら不満げな様子)をイメージしていただければ結構です。

 二つ目のイメージは、サン=テグジュペリ『人間の土地』の冒頭部分です。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。(堀口大学訳、新潮文庫 p.7-8)


 「心を通じあう」は communiquer です。

 伊東の姿勢と立ち位置はどう見ても、「拒絶と自恃」「自立して燃える孤寂なる発光体」であり、とりあえずは、他者との communiquer や、「他者への想像力」からは遠い所にあります。そこからの転位の機微については改めて考えなければならないでしょう。
 なお、田中清光氏の著書への私の感想を「お伝えしてもよろしいでしょうか」と青木様が云っておられること、どうか御意のままにお取り計らいください。

 書いているうちに、もうひとつ、リルケの詩「厳粛な時」(『形象詩集』)を思い出しました。「いま、世界のどこかで、泣いている者がある」。有名な作品なので、以下、引用はやめます。なぜこれを思い出したかも、ご推察ください。

………………………………………………

 ここまで、昨夜、下書きを仕上げて、今日、投稿しようとして掲示板を開くと、Morgenさんの投稿に会いました。
 「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげらせて目を青ませた狼」どうしの「連帯」、というのはなんだか、ドキドキしますね。「広大な宇宙空間のなかで、それぞれ自立して燃えている、無数の孤の灯」たちが、相互に「連帯」する、という壮大な夢想。……

 また続きを書きます。今日はとりあえずここまでで投稿します。掲示板上での濃密な対話を期待します。
 

「喘ぎ喘ぎして」自発的乗越

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月 9日(月)23時09分22秒
編集済
  山本様。青木様。小生の拙い投稿をお読み頂きコメントありがとうございました。
 早速、田中俊廣著『痛き夢の行方』を開いてみました.10余年前に読んで線を引いているのですが、中身の大半を忘れていますね。(慌てて再読しました。)
 今日、昼休みに古本屋をのぞいていたら、硝子戸棚の中に『関西戦後詩史』が展示してあり、その帯に次のようなキャッチコピーがありました。
 <雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目>が燠火のように燃えている。・・・・・
 言うまでもなく「八月の石にすがりて」の最後の詩句です。中身も見ず即購入して、仕事の合間にペラペラとページをめくると、295頁に次のような文章がありました。
(国鉄詩人連盟の 柏岡 浅治様)
 ・・・・・たとえ独りぼっちになっても、年老いても、伊東静雄の詩じゃないが「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげりて、青みし狼の目」をぼくらは連帯すべきじゃないか、・・・・・
 おそらくこの発言を受けて、<編纂後記>で、福中 都生子様が以下の文章を入れられ、更には帯のキャッチコピーとなったのでしょう。
「雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目」ともいうべき野性的連帯の光芒が実存している・・・。
 驚いたことに「八月の石にすがりて」の詩句の一部分が独り歩きをしているのです!!(伊東静雄もさぞやビックリしているかも・・・)
 「拒絶」を経て、約半年間のブランク(昭和11・7~同12)の半ばで、「三日三晩のたうちまはつた」り、「三日三晩ほど気違いのやうになって」生み出してきた詩句であります。このような苦難を自らに課して、「拒絶」という逃避の場所から、伊東静雄は「喘ぎ喘ぎして」自発的に乗り越えてきたというのが、田中俊廣著『痛き夢の行方』の説くところでしょうか。
 小野十三郎さんも、「詩の書き方、うまかったな。名手やな。伊東静雄は。・・・なんかぬれそぼった抒情詩でなくて,固い光沢がある。あの光る固いものは何か。」と仰っています。(『関西戦後詩史』329頁)
 
 

自発ということ

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 5月 7日(土)15時22分52秒
  M orgen 様の奥深い問題提起について思いめぐらせていたところ・・・山本様から更なる展開をご提示いただき、おおいに刺激をいただきました。ありがとうございます。田中様のご著書も、ことあるごとに戻り、そのたびに新たな発見を頂けるご研究ですね。

拒絶、自恃・・・自ら否定する能動性は、遮断されたり疎外されたりする孤独ではなく、自ら選びとった 孤 の地点に立つことでもある・・・その神々しさ、というと語弊がありますが、漆黒の闇の中で、細く小さくとも燃えるひとつの灯のイメージ・・・灯は、ひとつひとつ孤立しているけれども、自分、という枠から離れて、巨視的な視点で見るならば、広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている・・・

「八月の石にすがりて」の中で、われら、と複数で 発光体 である われ が詠われることが気になっています。
自発的な拒否は、自発的な受容にも反転しうる能動性を持つ、ということも。孤の苦悩を突き詰めたとき・・・言い換えれば、内面への遡行をギリギリまで突き詰めたとき・・・発光体として一人一人が命の炎を燃やしている光景が、静雄には見えたような気がしてなりません。

田中清光さんのご著書への山本様のご感想を、お伝えしてもよろしいでしょうか?シュタイナー風というのでしょうか、にじみやぼかしを活かした、素敵な水彩画もお描きになるようです。
 

「拒絶」について

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月 7日(土)13時44分0秒
   伊東静雄の詩「拒絶」は、これまで論ずる人も少なく、私もあまり深く考えたことがありませんでしたが、田中俊廣先生が『痛き夢の行方 伊東静雄論』で、たっぷり1章をとって考察を加えておられます。これを再読して、「拒絶」について云うべきことはすべてここに云い尽くされている、と思いました。とくに「拒絶」と共に「夏の嘆き」「まだ猟せざる山の夢」「行ってお前のその憂愁の深さのほどに」という、同時期の作品をあわせて考察の対象とし、それらと「曠野の歌」とのつながりを求められたことなど、私の考え及ばぬところでした。

 私が考えていたのはもっと単純なことでした。
 「拒絶」を図式化すると、「ものにふれて心がうごく」であれ「自然の反省」であれ、本来は
     万物(自然/世界)がわれに関わり
     われは万物を歌う
 こうして詩が出来るのですが、この詩では
     われは、万物がわれに関わることを拒絶し
     われもまた、万物を歌うことを拒絶する
と、二つ共に詩人の側からする行為として、両者を共に拒絶しています。
 さすれば、詩人は、何を歌うのか。

 ひとつの有力な道は、〈われ〉を歌うことです。そしておそらくその〈われ〉とは、〈内面〉というものと同義になるでしょう。リルケの「モルグ」の屍体たちが、瞼の裏側で眼球をくるりと反転させて、自分の身体の暗い内部を覗きこむように。――リルケの「世界内部空間」とはつまりそういうものではないか。立原の〈追憶〉や〈夢想〉もこれに近いかもしれない。

 「伊東静雄は "私は詩人である" ということを歌うことから、その詩的出発を始めた」というのが、初期詩篇論における私の主張でした。「ののはな」についてもそのような見方を示しました。
 しかし「私が私を歌う」という自己言及、とくに「私は、「私は歌わない」ということを歌う」という形の自己言及は、あきらかにパラドックスです。「呂」の詩群に感じられる一種の窮屈さは、この自己言及性から来ていると思います。

 伊東の愛用する、次のようなレトリックがあります。
 たとえば、「世界が私を拒絶する」ということを認めず、そのかわりに、こちらから、「私は、世界が私に関わることを拒絶する」というのです。同様にして、「人が私から去って行った」のだが、そういわずに「私は人を去らしめた」という。「静かなクセニエ」の趣旨も同じ構造のレトリックです。

 戯れにこんな詩句を書いてみました。
     わがひとよ、はやわれに関はるなかれ
     われもまた、あへて汝を歌ふことはあらじ
 「わがひとに與ふる哀歌」は、「愛の讃歌」ではなく、「哀歌」「悲歌」なのですから、この戯れも、必ずしもナンセンスともいえないと、私は思っています。あるとき、豁然と、一種の〈断念〉があった。そこではじめて詩人は、「お前」(「晴れた日に」)と呼び、「わがひと」と呼ぶことができるようになった。このイロニイを、案外伊東は悦んだかもしれません。立原もイロニイが好きですから、「わが去らしめし人は去り」という詩句に出会い、そこに自分と同質の精神をみつけて悦んだのではないか。

 少し行きすぎたので、「立原の堀辰雄にたいする拒絶」に戻ります。といって、私に云えることはそんなに多くありません。
 立原の「拒絶」は、堀辰雄が「美しい風景画家であること」への拒絶だ、というのは前稿で申しました。美しい風景画家がなぜダメなのか。第一に、それは単なる表面であって、事物や世界の本質を写さず、本質に迫っていない。第二に時局ということ、この大いなる時代に詩人のなすべきなのは、美しく牧歌的な風景を描くという不毛な営為ではない、われらに必要なのは〈前へ〉ということと〈共に〉ということである、と。
 思うに、立原にとっても、風や雲やユフスゲや火の山は決して、美しい風景の描写ではなかったのであろう。彼はむしろ、それらが美しい風景画となることを拒絶しつつその詩を書いたのでしょう。立原のそれらの詩が、伊東や田中と同じように、思索や輪郭となり切っているかどうかは、わかりません。忖度すれば、「言葉による〈音楽〉」と見てやれば、彼の意に添うことになるでしょうか。
 立原の拒絶と訣別の辞にたいして、堀辰雄は直接に応えることをしませんでしたが、しかしあの「大いなる」時代にたいして、無言のまま、最後まで拒絶し通したのは、堀辰雄であった、と、今ここで立原に云っても詮のないことです。

 最近、田中清光『立原道造の生涯と作品』(麦書房、1973年)を読みました。これの初版は1956年にユリイカから出ていて、小川和佑先生の書誌を見ても、単行本の立原文献では最初期のものに属します。しかし読後感としては、そういう「古さ」は少しも感じられず、むしろ資料もまだ乏しい中で真摯に、誠実に、ひたすら自らの力で立原を読み解こうとする、氏の魂の鮮烈さを感じました。
 

時の流れの激しさに・・・

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月 5日(木)12時11分14秒
編集済
   山本様のご説明で、立原道造が「拒絶」を引用して堀辰雄の「風景の氾濫」に批判を加えていることが解りました。昭和10年代という緊迫していく時代の流れの中で、そう言わざるを得なかった立原の追い詰められた気持を感じます。

 一方で、昭和10年12月に「拒絶」を書いた伊東静雄は、戦後の「拾遺詩篇」において発表されるまで「拒絶」を仕舞いこんでしまいました。その謎を解くカギは何か?

 「・・・堺三国ケ丘の斜面に立つ家へ引っ越し、ここに引っ越すとすぐ大陸の戦争が起こった。・・・近くにある陸軍の病院には、ひっきりなしに、傷病兵が、バスで運ばれた。私は毎日のやうに子供を連れて路傍に立ち、敬礼した。家にじつと坐つてゐても、胸がはあはあと息づき強く、我慢できず興奮したりした。そんななかで、私の書く詩は、、依然として、花や鳥の詩になるのであった。」(『夏花』)

 「拒絶」において、「隠井の井水」のように、世間一般や時の詩壇とは一定の距離をおいて、“孤高の”位置を保とうと意図した伊東静雄ではありましたが、公私ともに時の流れの激しさはそれを許さず(抗えず)、道造も静雄も時代の奔流に呑み込まれていきました。

 昨日は、朝10時に出発して、ロードバイクで約3時間の「鳥羽伏見激戦地跡」巡りポッタリングを試みました。(野茨の花が咲き茂る淀の河邉を、南風20メーターという逆風に抗して、蹴るようにペダルを漕いで、夕方6時にやっと大阪へ戻りました。)

 鳥羽、伏見も、明治維新の戦いの奔流の中で多くの若者の血が流された戦跡です。地元では「明治維新150周年(平成30年)」の記念行事が準備されているようです。
その地名のひとつひとつが我が胸をうちます<こちらは、機会があればまた投稿します。>

 ・・・・・・・・・・
 そして寒い朔風は
 川面を越えて
 何處へ? 何處へ? と低く
 問うたと汝は言ふ
 (s11/1静雄「追放と誘い」から)

http://

 

自然/世界との拒絶/和解

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 5月 3日(火)18時07分13秒
編集済
  山本 皓造さま

ご投稿拝読しました。勉強になりました、ありがとうございます。
拒絶、の問題・・・世界との在り方、和解するのか否か、という問題とも関わって来るような気もしますし・・・和解し得ないからこそ、自らの作り出したもうひとつの「夢のかへってゆく村」を描き出したのかもしれませんし・・・

立原への追悼詩「沫雪」の中で、静雄は雪解けの滴の響きに耳を止めて、その調べは立原の讃歌をうたっているのだ・・・という思想/詩想を贈っているように感じます。リルケのオルフォイスのソネットを思いおこします。それは、立原がいつの日にか 自然/世界 と和解することを祈る、ということなのかもしれません。

静雄初期の「空の浴槽」の、世界から拒絶されたような極度の孤独と、「ののはな」のような世界と和解し溶け合い一体となっているような融合感と・・・徹底した拒絶と和解、その両方が同時に存在しているアンビバレントな静雄の心的世界に強く惹かれているのですが、立原の堀辰雄的世界への、心酔と拒否のないまぜになったような烈しい感情世界と、生まれて来る詩の静けさとの間の落差にも惹かれます。

なにやらよくわからない、独り言のような文章になってしまいました。そうした「うやむや」したものを少しでもはっきりさせたくて(無理かもしれませんが)読んでいるのかもしれません。
 

枕上読書断片(3)――思索・輪郭・拒絶

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 4月30日(土)14時28分10秒
   立原道造が伊東静雄に関説している部分、というテーマの続きです。
 3/19投稿の「断片(2)」で、立原の「詩集西康省」の部分を紹介しました。今回はこの件に付随する資料です。

 昭和13年10月4日付、田中克己宛立原書簡に、次のように書かれています。

詩集西康省とお心づくしのコギトたしかにいただきました。あの本は非常におどろきました。しばらくは反発と不安とだけで本をひらくことが出来ずにゐました。あなたの仕事が、拒絶のふかさで先ずはかられねばならなかったことから僕の西康省論ははじまるでせう。……しばらくして僕は一気に最初からよんでしまひました。……よみをへてまへの感じは一層ふかまりました。伊東さんの場合よりもなほこの精神は拒絶してゐないだらうかと。比較級の問題ではなく。

 「詩集西康省」は田中克己の第一詩集、昭和13年10月1日付でコギト発行所から刊行。田中はすぐに自著を立原に送ったのでしょう。このとき立原は盛岡にいて、20日に帰京。10月26日付神保光太郎宛書簡に、「また東京にかへつて来ました。……僕は風立ちぬ十五枚と、西康省のこと、5枚ばかり書きました」とあるので、書評「詩集西康省」は4日以後、盛岡滞在中に書かれたものと、全集の編註は推定しています。発表は「四季」第41号(11月号)。また「風立ちぬ」十五枚というのはおそらく、筑摩版全集では未発表の原稿として[「風立ちぬ」(別稿)]の仮題で収録された(角川版では「補遺」)、定稿のⅦ、Ⅷに相当する部分であろうとされます。この「別稿」の中で、立原は同じ主題を次のように記します。

「風立ちぬ」にあつては、この詩人[山本註:堀辰雄]の場合、拒絶はつひに問題とならなかつた。……「わがひとに与ふる哀歌」や「詩集西康省」を見たまへ。ここには一切の風景が色もなく形もなく思索と詩の輪郭とを残して消え去ってゐる。ここには拒絶がつめたくあるばかりだ。

 なお定稿「風立ちぬ」は「四季」第42号(12月号)に発表されましたが、「別稿」の当該部分は定稿では生かされず削除されています。思うに、思索と輪郭というその趣旨はすでに「詩集西康省」で記したので、重複を避けたのでしょう。

 私は田中の『「詩集西康省』そのものをまだ読んでいないので何も云えないのですが、立原のいう「拒絶」は、たとえば伊東が第二詩集の標題にしようかと一時考えたといわれる、一般的な精神の disposition としての <拒絶> 精神のようなものではなく、立原も続けて云っているように、「風景の拒絶」を意味するようです。前引の中略部分で立原は、「風景が誘ふままに、詩人は風景を誘ひ、詩人が風景を誘ふままに、風景は詩人を誘ふ」と云い、小説『風立ちぬ』は「至る所にその絵を氾濫させ」ている、「あれはつひに美しい風景の氾濫にすぎない」と云います。そもそも立原はその堀辰雄批判「風立ちぬ」を、堀辰雄は美しい風景画家であった、と規定することからその第一章を始めたのでした。「別稿」の最後では、「この風景の牧歌的な不毛の美しさのあちらに、果して堀辰雄は、いかなる姿勢で、今日の詩人として、僕らのまへにゐるのか」と、まるでハイデガーみたいに問い詰めるのです。

 立原は伊東をその「拒絶」の姿勢によって自らの <圏> 内に入れたわけですが、その立原の、あの朦朧とした、薄暮の中の、風や雲やユフスゲや火の山の詩を、伊東はどのように読んでいたのでしょうか。
 

ありがとうございました

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 4月29日(金)21時37分21秒
  山本 皓造様

貴重なお話をありがとうございました。百合子さんのお人柄がうかがわれるようなエピソードですね。また色々、お話を聞かせてください。
 

枕上閑話

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 4月27日(水)10時55分3秒
   青木由弥子様。ご投稿ありがとうございました。リンクをたどって、貴重な「談話のかはりに」の生原稿の写真も見ることができました。価格を見て仰天しました。
 以下は老人の閑話です。

 古書店の目録などで、ごく偶に伊東の原稿や書簡、はがきなどの出物を見ることがあるのですが、総じて伊東のものは高い気がします。どういういきさつでそういうものがひょっこり古書市場に出て来るのか、私にとって不思議のひとつです。

 全集に収められた書簡などは、おそらくもとの宛先の方に返却されて、それらを今あらためて見るということはもうほとんど不可能になっているのではないかと思います。公にされた大塚宛のものや酒井姉妹宛のものなどはきわめて貴重かつ幸運なものであったのだと思います。私は、宮本新治さん宛で、宮本さん自身がたまたま保存されていたものを、福地那樹さんが借り出されて、それをコピーしたものを、福地さんから戴きました。全集とはずいぶん相違があるので、その一部を拙著に使わせてもらいました。

 私は、酒井百合子さんからいただいたお手紙を3通、大切に保存しています。百合子さんはとても筆まめで、私の質問にたいして、縷々、延々と、便箋に何枚も何枚も書いてくださり、ただ1通の伊東書簡の文言の確認のために千葉の銀行の貸金庫まで、調べに行ってくださるのです。

 生原稿どころか、書物でさえ、以前はなかなか、乏しい小遣いでは思うように買えませんでした。身体をこわして、以後、調べ物に走り回ったり終日パソコンに向ったりということはできなくなって、もうヤタラに本を買うことを、打ち止めにしようと決心し、最後にひとつだけ大盤振舞いを自分に許そうと思って、『春のいそぎ』を古書で買いました。しばらくして、田中俊廣先生から、たしか退職記念かなにかのつもりで、思い切って、やはり『春のいそぎ』を買われた、とお便りをいただいて、「いっしょや!」と、失礼ながら思わず笑ってしまいました。

 ヤタラに本を買うまいと決心し、しかし、それでも買った、最近の大物は、角川版6冊本の『立原道造全集』です。でも、6冊で¥8000で、これは良い買い物だったと満足しています。とはいえ、それは筑摩版全集の最終巻をあきらめた、その代替であったことが、ちょっと口惜しいのです。

 年寄りの長話、失礼しました。また書きたいテーマが溜まって来ていますので、書けるときに書いて、「枕上読書断片」の続きを投稿します。
 

ついしん

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 4月22日(金)14時19分34秒
  先ほどのURL、商品検索欄に「伊東静雄」と打ち込むとヒットします。
 

はじめまして

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 4月22日(金)14時14分6秒
  青木由弥子と申します。東京の大田区に住んでおります。
熊本大分地震では、東京も微弱なゆれの後に、ガツンと突き上げるような揺れを感じました。
まだまだ余震が続いているよし、どうぞお大事になさってください。
山本 皓造さま他、皆さまがいろいろな情報をアップされているのを拝読しました。
ときどき覗いて、勉強させていただきます。

追伸 八木書店のホームページで、伊東静雄の生原稿がかなりの高額でアップされているのを発見しました。「談話のかはりに」原稿一枚目の写真も確認できます。ご存知かもしれませんが、きれいな字でちょっと感動したので、URLを張り付けておきます。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/search?
 

熊本地震

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 4月20日(水)14時31分5秒
   熊本の皆様に心からのお見舞いを申し上げます。

 毎日の新聞報道やTVの画面を息を詰めて見ています。八代、不知火海、三角、熊本、益城、南阿蘇、熊本空港、阿蘇山、大分に入って、日田、豊後竹田、由布、大分、(川内→伊方)、それらを含む太い線を、九州の地図の上に描いてみると、私がかつて足を踏み入れた場所、土地、人びとの光景が、にわかに鮮やかに蘇えってきます。
 子供のころ、1946年の南海地震を経験しました。家がまるごと揺れたと思いました。
 日本は地震国です。昔、在日のオバアサンが、「日本はチヂンがあるから、こわい」と云っていたのを思い出します。調べてみると、M7.0以上の大地震が、決して稀ではなく、ほとんど毎年、2度3度以上、起っています。
 こういうときに最も働かなければならないのは、国家です。阪神淡路、東日本、国は全力を尽くしたとは云えません。弁明はいろいろあるでしょうが、「お金がないから」とだけは云ってほしくありません(保育所だって同じことです)。
 熊本の方々に十分な支援の届くことを祈ります。
 地震は自然災害です。その上に、人の不作為や権謀や誤謬や無責任によって災いが加重されることのないことを祈ります。
 皆様の生命と健康をお祈りします。

 上村さん。さぞ驚かれたでしょう。詩碑へのお心遣い、感謝します。
 Morgen さん。旅行は大変ですね。どうか気をつけて行って来てください。
 滝田さん。「菜の花忌」の記事、ありがとうございました。可愛いお孫さんたちが「華」を添えてくれましたね。
 

菜の花忌

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 4月20日(水)11時20分21秒
  3月27日午後1時、肌寒い陽気の中、諫早公園中腹の詩碑の前で第52回「菜の花忌」が開催されました。

献 詩 森山中学校2年  山口 実殊さん 「春の顔」
       鎮西学院高校3年 寺田 智恵さん 「なつのおと」

詩郎読  諫早コスモス音声訳の会
             田中 順子さん 「春浅き」

        詩人              田中 俊廣さん  「夢からさめて」

  時間をおいて午後2時30分、観光ホテル「道具屋」にて、第26回「伊東静雄賞贈呈式」が開催されました。

記念講演 「詩人と生活」  最終選考委員 井川 博年 氏

受賞者藤山 増昭さんが挨拶と受賞詩の朗読をされました。

そのご、可愛いお孫さん3人が壇上に上がり、花束贈呈がありました。
 

お見舞い申し上げます/熊本地震

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 4月18日(月)10時40分14秒
編集済
   このたびは、熊本県を襲った地震により被害を蒙られた方々にお見舞いを申し上げます。
 直接の物理的・身体的被害はなくても、震度6の激震で足元から揺すられるあの感覚は、堪えられない恐怖です。(阪神・淡路で経験済み。)また、揺れが去っても、あらゆる建物や構築物がが傾いているように見えたり、上から物が崩れ落ちてきそうな不安感は去りません。(心理的後遺症)一日も早く震災復旧・生活再建がなされ、平穏な暮らしが回復されるることを祈るばかりです。

 私は、5月には熊本~大分旅行を予約申し込みしています。(道路網寸断により中止の連絡が来るかもしれませんが)「地元がこんなに大変なときにのんびり旅行など」とも思いますが、今後の風評被害も含めて観光産業に与える震災被害は甚大となることも予想しなければなりません。(九州経済の地盤沈下のトリガーとならなければよいが・・・)少々の困難があっても熊本~大分旅行を実行したいものです。(ただし会社は出張制限あり。)

 私の所属会社としても、東日本大震災同様お客様への支援をすることを発表しています。「私にできることは何だろうか?」と思案しているところです。

     「くまモンもん」(うた 森高千里)

  ・・・・・・・・・・
  くまモン くまモン 日本のために くまモン
  できないことは なかもん
  心の中に くまモン もんもん


http://

 

こんな地震は初めて~

 投稿者:上村紀元  投稿日:2016年 4月15日(金)20時25分6秒
  震度4の揺れに驚きました。翌朝、諫早公園の詩碑が心配で~6トンもの碑が転がり落ちてはいないかと出かけてきましたが異常なくホッとしました。52回の「菜の花忌」が済んだばかり、今年は例年以上の参加者でした。継続していくためには思わぬ自然災害に遭わぬことも大切な要件、平穏無事であることねがいたい。熊本では被害も甚大、亡くなった方々のご冥福を祈ります。  

「わが去らしめしひとは去り」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 4月10日(日)10時29分38秒
   四月七日、大雨と大風の「四月の風」の日、大阪に出ました。古い教師仲間の懇親会のようなもので、場所は「中之島プラザ」という所、京阪中之島駅から西へ少し行ったところです。京阪電車がここまで延長されたことなど、私の知見にはなく、天満から淀屋橋まで延伸して地下鉄からすぐ乗り換えできるのに感激したのはついこの間のような気がする、と古い話になりました。昔は「城東線」京橋から京阪電車京橋に乗り換えるのに、何百メートルか土堤下の道をよく歩いたものです。こんなことも、もう知っている人はだんだん少なくなるのではないでしょうか。久しぶりの大阪の街は新鮮でした。
 閑話休題。
 立原道造が伊東静雄に関説している個所について、もうひとつ資料を付け加えます。このことは宇佐美斉『立原道造』(筑摩書房)で知りました。
 昭和11年7月下旬に信濃追分から友人の柴岡亥佐雄に宛てた手紙[角川版6冊全集第五巻書簡番号264]につぎのような文言があります。

君のおそれるやうな物語はなんにもないんだ。だから、追分村風信がやつとこんなにして書けるやうになつたのだよ。ざらざらと、それは毎日してゐる。高原バスなどに似た人の面影見るときには、しかしやつと心が一つのイマージュに向けられ、しづかに燃えてゐるんだ。「わが去らしめし人は去り」といふ伊東静雄の一句を考へてみたまへ。そんな風だ。けれどそんな他人の詩より僕の詩の方が君にはきつとよくわかるだらう。……

 そうしてこのあとで、「ゆふすげびと」FRAU R. KITA GEWIDMET と題する自作のソネットを引用しています。ソネットの全体は長くなるので省きますが、岩波文庫の詩集では、のちに『文芸汎論』に発表した形で、「拾遺詩篇」の部に採録されています。
 その末尾の2行、

しかし僕は老いすぎた 若い身空で
あなたを悔ゐなく去らせたほどに!


が、伊東の「行つてお前の憂愁の深さのほどに」の第4行「わが去らしめしひとは去り」を意識しているのは明らかです。
(これより前、同年5月7日杉浦明平宛[前掲書、書簡番号229]に「……ひとりの少女は去らしめたままに僕から去つて行きました」との文言のあることが、全集の編註から知られます。)
 宇佐美氏はこのあと、昭和10年11月23日『哀歌』出版記念会への立原の出席、伊東の側からの立原への「親近感」、立原/伊東両者のふたつの詩篇の優劣と相違などについて述べているのですが、すべて紹介する余裕がありません。私としてはその「親近感」の拠って来る所以についての宇佐美氏の見解を聴きたかったのですが、適確な理解に至りませんでした。
 

「四月の風」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 4月 7日(木)23時23分27秒
編集済
   今日の日本列島は、前線通過による大荒れの天候となりました。爽やかな「四月の風」ではなく、大雨や雷をともなう春の嵐でした。
 晴天の昨日は、嵐山まで(4月になって2度目の)往復110キロ超のロングドライブ輪行を行いました。淀川べりには各所に桜並木が多く、沢山の客が花見に訪れています。
 嵐山の何処かの店で美味しい昼食を摂ろうと予定していたのですが、それは甘すぎる考えでした。どこも観光客で満員のためどの店も入ることができず、家から持参したおにぎり2個とチョコレートを河原で食べただけで、帰路ではさすがに少しバテました。

伊東静雄詩「四月の風」(昭和9年春)から抜粋。

  私は窓のところに坐って
  外に四月の風の吹いてゐるのを見る。
  ・・・・・・・・・・・・・
 (地方の昔の中学生の振る舞う様を思い出す・・・)

  四月の風は吹いてゐる。ちょうどそれ等の
  昔の中學生の調子で。
  ・・・・・・・・・・・・・
  (道の上で悪戯をしたり、冬の風を吹かせたりして・・・)

  曾て私を締め付けた
  多くの家族の絆はどこに行ったか。
  ・・・・・・・・・・・・・
  (生徒たちは、“センセー!” “センセー!”と親しげに寄ってくるが、それ
  は見せかけなのだと私はひがんでいる。―私は28歳なのに既に壮年になったよう
  な気分である。)

  それで、も一つの絆を
  その内私に探し出させてくれるのならば。

 この詩には窓の外に吹いている四月の風の情景がうたわれているのかと思っていたら、実は「家族の絆」~「も一つの絆」への展開の予感が「四月の風」に寄せてうたわれているのですね。

 今日吹き荒れた4月の嵐で、背割堤の桜も、嵐山川べりの桜も大分散ってしまったでしょうが、「淀の河邉」では燃えるような緑がボリュームを増しています。鶯や雲雀もすぐ近くまで寄ってきて、大きな鳴き声を立ててくれます。年寄りの私を「頑張れ! 頑張れ!」と励ましてくれているようにも聞こえます。

 目まぐるしく変化していく経済情勢のなかで、会社の定時株主総会を控えて、今日からは監査等の準備にかかっています。(業界の急激な変化に雄々しく立ち向かっている青年達に、内心ではせめて老人扱いをされないようにと秘かに思いながら。)
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 3月30日(水)09時32分17秒
  3月19日午後2時から,諫早図書館に於いて第100回例会を開催した。
出席者は、全員の9名。
ゲストが2名。1名は、第22回伊東静雄賞受賞者の西村泰則さん、もう1名は、元会員の富永健司さん。

今回は、『決心』『八月』『八月の石にすがりて』の3篇を読み解いた。

会報は第94号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート (2)                            青木 由弥子

                          詩とエッセイ「千年樹」65号より転載


2  伊東静雄詩論  夏の詩人 13  <花鳥と燈>

                                                   萩原 健次郎

                                     (2013年5月「海鳴り25号」より転載)


3 「マドンナの競艶」               伊東静雄研究会 龍田 豊秋

                              2016.2.23 毎日新聞「はがき随筆」掲載

4 八月の石にすがりて 鑑賞の手引き
                                               以上

  高校の国語教師であった西村泰則さんが、文法面からの詩の読み解き方法を講義しました。


 富永健司さんは、諫早振興のための着想を提言しました。


 次回は、5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

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