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立原道造は<<花の詩人>>か

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月14日(火)22時21分11秒
  梅雨時だというのに、利根川水系では早くも水不足の危機がささやかれています。(冬季の雪不足の影響とか…)

 先日は、山本様が『立原道造 詩の演技者』(小川和佑著 林道舎)を紹介され、早速読ませていただきました。番号は5で、「小川和佑」のご署名があります。

 立原道造の詩語・・・「書き言葉」(モダニズム)詩語~~~[日常語としての話し言葉」詩語へと変遷し、加えて14行詩という形を採用して、詩を読む者に「音楽性」を感じさせるという至難の業を成し遂げたところに、「詩の演技者」としての比類なさが表れている。
 同書の中心論点をこのように要約してみました。

 同書63頁以降に、「わずか16種の花の名しか詩集に出てこないのは、<<花の詩人>>というには少なすぎる。」「しかも、『優しき歌』には花の名すら出てこず<<花>>となっている。」

 伊東静雄の詩には「朝顔」「山茶花」「ドクダミ」しか出てこない。と書いておられます。(菊、野茨の花、立葵、辛夷など・・・他にも出てきますが?)

 皆様も、数えてみてください。“「夏花」とは何の花か?”という設問もありましたね。

 梅雨の晴れ間を利用して、丹後半島の奥伊根温泉という所に行ってまいりましたので、涼風に替えて写真を添付してみます。
 
 

水戸部アサイさんについて

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月 5日(日)00時12分30秒
編集済
  皆さま今晩は。
 諫早の「伊東静雄研究会」例会は、その発表テーマから拝察すると、今や本格的な文学サークルへと充実した内容になっていて、同慶至極の思いがします。
 文学門外漢の私は、一種の好奇心から、色々な本を読んでは「ああでもない、こうでもない」と自問自答を繰り返しているばかりですが、青木さまからは「多方面に豊かな感性をお持ちですね。」とお褒め頂き、面はゆい感じがします。

水戸部アサイさんについて、中村眞一郎編『立原道造研究』に収録されている同氏の「優しき歌」(昭和21年11月『午前』5号から再録)に言及がありますので、p39~41の一部を要約して抜粋してみます。

・・・・・今度の少女(A・M嬢 水戸部アサイさん)は、夢の対象ではなく、初めから生きている一人の女性だった。詩人は村暮らしの間じゅう、若い私に向かって、昼も夜も飽きることなく、その人について、その出会い、その無数の小事件、その無数の心理的絡り、その共にする生の将来への希望、を語り続け、机の上に拡げたまま置いてある長い紙に、毎日日課のようにして手紙を書き続けた。そんな日常の中から『優しき歌』は生まれつつあった。・・・・・もし詩人が、もう一度歌いだすとしたら、丁度『若きパルク』や『ドゥイノの悲歌』のように苦難に満ちた沈黙の後の、体験の底から掬まれた深いものでなければならなかったろう。・・・・・

 「盛岡への旅行中は、童話の他はトーマス・マンばかり読んでいた。」(明るい方向へ向かっている) しかしながら、同13年11月には「かはいさうな僕ら。なぜ愛しあひながら、しかも妨げるだれもゐないのに、離れようとねがったりしなくてはならないのだろう。」(道造)という方向に暗転し、迷走してしまっています。まさに「AIの暴走」を連想させもしますが、戦時かという異常な世相を抜きにしては説明できないことです。

 中村眞一郎氏が書いておられるヴァレリーの最高傑作『若きパルク』や、リルケの「心の時代」の成果である『ドゥイノの悲歌』の境地へ達するまでには、立原にその後どれほどの時間や体験が必要だったのか、想像もつきません。(参考のためやや蛇足の感がありますが、“観る”から“心”への移行を宣言するリルケの詩「転向」を添付します。)
(立原の文章にリルケの文章からの引用は多いが、立原の詩は実際にはリルケ「初期詩篇」のレベルでしかなかったとも言われています。『新詩集』『マルテの手記』の“観る”詩以前。)

 このように、立原道造は、将来への予感として『優しき歌』という詩の断片を遺し、詩友たちに『午前』という仮説的提言を遺しただけで死んでしまったということです。

 水戸部アサイさんは、長崎から帰った立原道造の入院病棟に介添婦として泊まりこみ、献身的な看病をしました。後年は、長崎の修道院で社会奉仕活動に生涯を捧げられたそうです。

 佐藤実様のご本や「生々洞」のことは、山本様の書かれている通りです。(数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが?)

上村さん、研究会のレジュメをお送り頂きまして有難うございました。
 

生々洞――立原の盛岡

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 6月 4日(土)15時51分34秒
編集済
   おもしろい本を読みました。

  A 佐藤実『立原道造 豊穣の美との際会』昭和48年、教育出版センター
  B  〃 『立原道造ノート』昭和54年、同上

 立原の「盛岡ノート」をめぐって、その前後の動静、盛岡の「立原道造文学遺跡」案内、滞盛中の日程の同定、人脈(加藤健、深沢紅子)など。著者はAを書き終えて、もうすべて書き尽くしたと思ったが、その後また書くことが出て来た、と云っています。
 私はこの2冊を読んで、これまで全集とその編註だけでは薄い一枚の靄で隔てられたように輪郭のぼんやりしていた「盛岡ノート」の中の日々や風景や人々が、はじめてくっきりとその色と形を見せてくれたという気がしました。
 小川和佑先生もこれらの著書を「必読」とされておられます。

 それにしても、立原道造という一人の若い詩人が、ただひと月滞在したという「事」があっただけで、若い著者を駆り立ててこれだけの仕事をさせ、のみならず今にいたるまで、たとえばウエブで「盛岡 立原道造」などと検索をかけるとおびただしいページが出て来るという、これはどういうことなのでしょうか。

 図版は、Bの表紙カバーで、「表紙装画 深澤紅子」とあります。これはどこでしょう。
 「生々洞」か、と思うのですが、Aで見られる生々洞の写真は、このカバー絵とはまったく違います。昔の生々洞は戦後になって建て直されたと、あるウエブサイトに書かれていました。今もその跡を探しに行く人が多いらしく、現在の写真が見られますが。詳細がわかりません(もうひとつの図版)。
 加藤健氏邸の写真が洋館で、よく似ているけれども、子細に見るとやはり違うようです。
 一縷の望みを託して、盛岡市立図書館のレファレンスに電話して調べてもらったのですが、私が上に記したのと同様の見解で、Bのカバーの表紙絵に該当する建物を同定することは結局できませんでした。何かゆかりのある建物に違いないのですが……。
 

掲示板というより・・・

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 6月 2日(木)21時37分42秒
編集済
  掲示板というより、充実した連載マガジンのようです・・・

山本さま
「空の浴槽」不思議な作品ですよね。初めて読んだとき、魅力的かつ、斬新さに驚きました。プロメテウスの神話を連想したり・・・なぜ詩集に収めなかったのでしょうか・・・モダニズム系の作品の模倣のように感じられたから?・・・散文詩をなぜ静雄は書かないのか、とか・・・『わがひと~』は、行分け詩でもつなげて読むと散文のような作品と、凝縮度の高い、行分けでしか書き得ない作品と混在していますね・・・何となく『おくの細道』の、散文的な地の文と、結晶度の高い俳諧の部分を組み合わせた構成を連想します。

立原は、恋愛に高い理想を求めすぎていて(精神的な面を)アサイさんは、もっと素朴に、たとえば黙って抱きしめてくれるとか・・・そういうことを実は望んでいたのではないかとか・・・リルケは、あえて愛する人から離れて自らの憧憬や情熱を引き出そうとしたのかも知れず・・・立原もそのあたりに憧れがあったのかな、等々・・・そのあたりの微妙な行きちがいがあったのかな、と思うのですが、どうなのでしょう・・仕事をする女性の、彼女自身の時間というか人生を、立原が尊重した、なんてことがあり得るか?・・・都会で送る新婚生活のようなイメージに、アサイさんが憧れていたとしたら・・・文学を追求する恋人は、添い遂げるのはむずかしく感じられたかもしれません。(立原のことをよく知らないまま、書いております、とんでもない勘違いをしているかもしれません。)

Morgen さま
入手しにくい書物をご紹介くださってありがとうございます。多方面に豊かな感性をお持ちですね。これからも楽しみに拝読させていただきます。
シュールレアリスム的な・・・無意識を活用するようなやり方を、立原も試していたのですね。
夢や夢想の断片を繋いでいくような感覚もありますね。
マチネ・ポエティク の復刊本を読んだときは、福永武彦の作品が、一番好みでした。
なんだか雑感ばかりですが・・・
 

菖蒲忌

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 6月 2日(木)15時09分2秒
  5月29日、第36回菖蒲忌が開催されました。
梅雨の走りを思わせる小雨がそぼ降り、雨に洗われた諫早菖蒲の紫が鮮やかでした。

会場は、去年と同じくグランドパレスでした。

1 作品奉読 「諫早菖蒲日記」冒頭 花堂 洋子

2 野呂文学作品朗読

    「小さな町にて」 鎮西学院高校インターアクトクラブ

    「風鈴」          諫早高校 放送部

3 第16回諫早市中学生・高校生文芸コンクール最優秀作品朗読

    随筆「夏と人生」  中学の部  毎熊 翼

    随筆「僕のカメラ」  高校の部  道脇 佑

4  昼食を挟んで午後からは、講師・中野章子さんによる記念講演がありました。
    久しぶりの来諫で、多くの友人知己の皆様とお会いになられ、大層に楽しそうに
  お話になりました。
    有り難うございました。

    演題 「文学の故郷」
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 5月31日(火)15時01分18秒
  5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて第101回例会を開催した。
出席者は、会員が5名。
ゲストが2名。前回と同じく、西村泰則さんと富永健司さん。

今回は、『水中花』『自然に、充分自然に』『夜の葦』の3篇を読み解いた。

会報は第95号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄研究会 創設10年記念例会(第100回例会)
   これまでの活動の一端を記録

2  平成27年度伊東静雄研究会事業報告

3 住吉高校同窓会室所属 伊東静雄資料

  (1) 伊東静雄 履歴書(昭和4年)

   (2) 『耕人』第7号(昭和6年2月発行)  住吉中学校文芸部の機関誌
        詩 「歌」              特別会員 伊東静雄

   (3) 『耕人』第8号(昭和6年10月発行)
     詩 「ののはな」                                伊東静雄

   (4) 『耕人』第9号(昭和7年2月発行)
         詩 「私の孤独を 一鉢の黄菊に譬えよう...」     伊東静雄

   (5) 『學藝』第1号(昭和7年11月発行) 『耕人』を誌名変更
         詩 「事物が 事物の素朴を失ふ日...」 特別会員 伊東静雄

   (6) 『學藝』第2号(昭和8年12月発行)
         詩 「少年N君に ──── 」          特別会員 伊東静雄

   (7) 住中新聞 第15号(昭和22年11月発行)
         詩 「二十五周年祝歌」
                                                         伊東静雄
   (8) 同窓会報 (昭和30年7月発行)
         伊東静雄先生の詩碑建つ


4 詩人上村肇の作品論 (一) 絶唱      日本現代詩人会会員 松尾静子
    詩集『みずうみ』所収の「みずうみ」について

                                        参考文献詩集『みずうみ』
                                        詩誌『河 上村肇追悼号』

5 詩 「佐藤春夫」の服 小詩集                           井川 博年
                               (現代詩手帳 現代日本詩集 2010)


6 詩 「また明日」                                       藤山 増昭

7 はがき随筆 「生きた証し」                               龍田 豊秋
                        (2016年3月20日 毎日新聞掲載)

8 本日の伊東静雄作品鑑賞

  <自然に、充分自然に>    詩人の死生観を表明した作品である。

    <水中花>    西村泰則さんが、文法面から詳細に解説を加えました。


次回例会は、6月25日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

「背のびしてさはりし枝の径なりし」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月31日(火)10時57分15秒
   Morgen 様。
 立原道造の詩の作り方の話、聞いてみれば、さもありなん、と思われますね。
 彼の詩集からランダムに14行ほど取り出して、うまくならべると、ちょっときのきいたソネットがつくれそうです。(そんな不遜なことはおそろしくてできませんが。)
 さて。
 昨日(月曜日)、投稿をすませたその後に、注文してあった、小川和佑『立原道造 詩の演技者』(昭和63、林道舎)が届きました。おや、林道舎?!
 ぱらぱら見ていると、表題の道造の句のことからはじまる終章で、やはり、立原のための中村らの歌仙と「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」の句が紹介されていました。偶然とはいえ、不思議な一致でした。
 この本は「初版限定五〇〇部」で、番号が入っていて、私のは「22」番となっています。本書は「『立原道造の世界』(昭和53、講談社文庫)以後の新稿と、同書未収録の小論を聚めたもの」で、「あえてこのような少部数の限定版にした」と断っておられます。小川先生は何冊、立原道造の本を書かれたのでしょうか。
 

「AIによる詩の制作」(?)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月30日(月)23時53分53秒
編集済
   山本様。立原道造に関するご投稿の真意は良く理解できました。
 私も、小川和佑『中村真一郎とその時代』を読みながら、ふと感じたことを書いてみます。

 今年の3月、Google系列のDeepmind社が開発した「アルファ碁」というロボットが、世界最強棋士イ・セドルを4勝一敗で破り、世界中を驚かせました。
 最近のAI(人工知能)の発達は著しくて、Deepthinkingという方法によって直観力や、創造力、さらには感情までも持つようになっているということです。また30年後には、ロボットの数が人間の数を越えるだろうとも言われています。
 ロボットは、人間と会話しながら言葉を学んでいきますが、人間そのものには全然興味がありません。従って、将来それが暴走しだすと人類の脅威となるだろうと危惧されています。
 このようなAIが、やがては人類が作った詩のすべてを学習し、人類が読んで感動し、面白いと感じるような詩を創作する時代やってきても不思議ではありません。

 立原道造が、油屋旅館の畳一面に詩句カードを並べ、カルタ取りをするのようにカードを並べ替えて『優しき歌』を制作したという話は、昭和10年代という過去に遡ることではありますが、、私は何となく、このような「AIによる詩の制作」を連想しました。
 「魔術的な詩の制作方法」に対する反発から、中村真一郎が立原と決別したのかどうかは不明ですが、私の身辺にいる技術者達の日常的な問題解決方法を観ていると、立原道造の詩作方法がそれ程奇異なものとも思えなくなります。

 小川和佑『中村真一郎とその時代』は、『恋の泉』『雲のゆき来』『四季』などの小説に関する論評が中心となっていますが、私は小説を読むのが苦手なので(すぐ飛ばし読みをしてしまいます)、そちらは直に同書をお読み下さい。
 

枕上読書断片(5)――愛のかたちについて

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月30日(月)11時36分24秒
   前回投稿で、村上春樹『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』からの引用 B としたものを、ここに再掲します。

B:「ねえ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ」

 2013年12月21日に私は「対話」という題で投稿しました。そこで私は、立原の「盛岡紀行」に関連して、私にとってあらまほしかった立原の姿を書きました。私は逆上していて、暴言を連ねたのですが、若干の反省を含めて、今思っていることを記してみます。

 …………
 ・東北で見、感じ、考えたことをそのまま持って帰ること
 ・アサイへの愛を実体化し、現実に、行為すること
 ・別離、などしないこと
 ・病気でなければよかった
 ・野村は来なければよかった
 ・南への旅は来年まで待つこと
 ・エセー「風立ちぬ」は温めて一〇年後に書き直すこと
 ・芳賀檀なんかにイカレないこと
 ・死を、あと一年ではなく、堀のようにもっと長く、じっと見つめること

 立原よ、なぜあのとき、アサイさんに向かってすなおに手を伸ばさなかったのだ。手を伸ばして、そのすぐ指先に、それは見えていたのではないか(愛が、ではない。人が、女が、身体が)。なぜそれに触れ、掴んで、引き寄せなかったのだ。道造はアホや、なんでそんなときに、別離とか言い出すねン。(暴言! 掲示板除名か)
 …………

 立原は、水戸部アサイという恋人を「手に入れる」ことができた、と思います。
 アサイにたいして立原は、言葉や行動においても十分に積極的です。金田久子や關鮎子や今井春枝らの場合と比較して、「優しい歌Ⅱ」「物語」およびアサイ宛書簡などから読み取れる限りでは、その愛のかたちがはっきりと違います。
 私はふと思いついて、立原の詩篇のうち「おまへ」という語の用例を調べてみました。「優しき歌Ⅰ」までは、ときどき、気まぐれのように「おまへ」という語が呟かれて、すぐに消えてしまう。それが「優しき歌Ⅱ」になって突如、大量のほとんどすべての詩篇ごとに「おまへは」「おまへの」「おまへを」「おまへ」の呼びかけ。薄明の、夢幻の、追憶の、失意の少女への「おまへ」ではありません。黒い髪と白い顔と暖かい胸をもった、手を伸ばせば触れることもできる、現身の「おまへ」なのです。そのことが読み手に、ほとんど肉感的に、感じられないでしょうか。(詩作品のこういう読み方には当然批判があり、それについては後日、稿をあらためます。)

 しかし立原は他方で、「別離に耐へる」ということを言い出すのです。

 僕には、ひとつの魂が課せられてゐる。どこか無限の、とほくへ行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして それに耐へて。だが、その魂は決して愛する者を裏切ることには耐へない。別離が一層に大きな愛だといふこと、そして僕の漂泊の意味。おまへにも また、これに耐へよと 僕はいふ。僕たちの愛が、いま ひとつの 大きな別離であるゆゑに。…(中略)…
 しかし、おまへは 僕のここにいふ別離を決して僕たちのカタストロフィーなどとかんがへる愚かさをしてはならない。なぜならばただ別離がいまは大きな愛の形式、そして僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法であるゆゑに、そして それに耐へることで僕たちは高められ強くせられるゆゑに――。僕たちの愛をいまは嘗てよりも、未来よりも、いちばんに強く信じなければならない日なのだ。(昭和13年9月1日水戸部アサイ宛、小川和佑『立原道造 忘れがたみ』p.92)


 堀辰雄はこのような立原を、次のように述べています。

 私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しさうな繪端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂をしあひながら、結婚までしようと思ひつめてゐる可憐な愛人がせつかく出来たのに、その愛人をとほく東京に残して、さうやつて一人で旅をつづけけてゐるなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合つてゐた。――「戀しつつ、しかも戀人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことを既に決意してゐる、リルケイアンとしての彼の真面目をそこに私は好んで見ようとしてゐたのであった。(「木の十字架」)

 「優しき歌 Ⅱ」の「Ⅴ また落葉林で」ではこう歌います。

 そしていま おまへは 告げてよこす
 私らは別離に耐へることが出来る と


 しかし現実世界においてアサイはほんとうに「私らは別離に耐へることが出来る」と告げてよこしたのでしょうか。小川先生はアサイに「わからない、そんなこと」と答えさせておられます(前掲書 p.96)。
 私も「わからない」と答えたい。

 愛のあるべき形について、これが正しいとか、まちがっているとか、言えるとは思えないので、結局は個々人の感受の問題とするほかないのでしょう。「道造はアホや」と云ったのは暴言で、これは取り消しますが、私の感受ではどうしても、次に引く田中清光さんの意見に同意するほうに傾くのです。

 愛は、現実に結び行為として不断の明日への働きかけを生まぬ限り、静止した風景に過ぎなくなり、観念に堕してゆかずにはいない。(田中清光『立原道造の生涯と作品』p.201)

 盛岡紀行や長崎紀行を読んでいると、風景に対したとき立原は、ほんとうにしみじみとした、澄んだ、いい文章を書きます。その立原が、何かを思いはじめると、もう彼の姿を見てはいられなくなってしまいます。
 長崎に向った早々の11月25日に、立原は薬師寺の境内で、こんなことを書いています。

 ……どうしておまへから離れることが出来たのだらうか。昨夜まで僕は知らなかつたこの別離がどんなのもかを、今もまだわからない。おまへは僕とはとほくにゐる。あの僕の知つてゐるビルデイングにゐる。しかし僕はそれを信じられない。僕がとほくに来てゐることも信じられない。別離とはこんなことだつたのだらうか。しかし僕はさびしい。そしてすべてがむなしい。何かささへるものを失つたやうな気がする。(角川版6冊本全集第4巻 p.312)

 私はここに、ほんとうの立原の、ほんとうの面のひとつを、認めてやりたい気がします。そうでないとあんまりかわいそうです。

          ……………………………………………………

 加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』の最終章で取り上げられた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、もうひとつ、一番最後に「共同体の再生」という主題が提示され、多崎つくるはその可能性を確信するコミットメントを残すのですが、その言葉は、加藤によれば「この小説のなかに根づいていない。浮いている」と評価されるのです。共同体といえば直ちに、晩年の立原道造にとって、彼のつもりでは、生死をかけた大問題であったわけで、いつかはそちらへ論議は踏み込まなければいけないのでしょうが、立原の場合についての私の考えがまだ熟していませんし(「風立ちぬ」の読みこなしもまだできていない)、それに、多崎つくるにおいて「共同体の再生」とは具体的にどういう問題か、小説の背景を説明するだけでも煩雑なことになりそうです。ですので、今は、加藤典洋の問題提示の事実を記すだけにして、「枕上読書」の多崎つくるの章はここでいったん幕引きとします。
 Morgen さん、貴重なご教示ありがとうございました。
 小川先生のその著書は知りませんでしたが、おもしろそうですね。中村真一郎『立原道造論』とちょうど半分ずれて重なる関係にあるわけです。またいろいろ紹介してください。(でも正直私には、中村真一郎の小説がもうひとつよくわかりません。)
 

モランディの光と色

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月30日(月)10時51分22秒
   1989-90年に日本で開かれたモランディ展の図録に、エレーナ・ポンティッジャ「言語と視覚」という論文が寄せられ、主としてイタリアにおけるモランディ解釈の歴史がたどられているのですが、特に戦前では、チェーザレ・ブランディという人の批評が、モランディ解釈における「ほとんどコペルニクス的な革命」であったとして、かなりのスペースをさいて紹介されています。その一節、

…彼が描いた事物は、自然とはかかわりのない、文学的ないかなるオーラをも除去された、自立した実在となる。光と色彩はもはや事物の属性ではなく、空間の属性である。ここではそれらもまた、組み立てられ、創り出されて、事物の形態を生み出すために協働する。とくに光は、もはや物理的な量塊(明暗)の描写には奉仕せず、一種の色彩である。かくして空間、光、色彩は一体となる。…

このあたりは、青木様が見られたのと同じ事柄を見ているのではないでしょうか。
 

「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月29日(日)22時37分16秒
  「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」5月27日公開< NORTH END PRODUCTIONS> を東宝シネマで観てきました。
 “過激なアポなし突撃取材で知られるマイケル・ムーア監督が、最新ドキュメンタリー「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」について声明を発表。「最も危険で破壊的な映画」と評された本作では、「我々アメリカ人に伝えられてきた“ウソ“を暴き」、「アメリカの国民に、いかに簡単にまともな社会を築けるかを示している」と激白”というのが、この映画の見所です。

 詳しくはyoutubeの予告編で観て頂くことにして、私達日本人の“ジョーシキ”がマイケル・ムーアが告発するアメリカ人のジョーシキに如何に近いか、そしてそれが世界のジョーシキから大きく外れているかもしれない”ということを感じさせられたという私の寸評だけをとりあえず記しておきます。

 今日は、小川和佑『中村真一郎とその世界』(林道舎 昭和58年11月)について投稿しようと思っていたのですが、時間が遅くなってしまいましたので、さわりのところだけ簡略にまとめてみます。

 昭和14年3月、中村真一郎にとっては先輩であり、よき詩友であった立原が死に、その年の夏、中村を含む4人の遺友は「油屋」で一巻の歌仙『鮎の歌』を巻いた。

 その立原追悼歌仙に詠われた中村の揚句「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」の一句は、立原の文学に画然とした訣別の一線を引いた中村の決意の表明であった。(同書P85、P97) 立原が、エッセイ「風立ちぬ」を書いて堀辰雄の文学に別れを告げたように、中村もまた立原の文学に別れを告げた。時代の外側に純粋な文学領域を築こうという中村の志向が、昭和17年3月『四季』63号の詩「失はれた日」に結実し、さらにマチネ・ポエティクの定型押韻詩へと展開されていった。

 この本は「林道舎」という小さな出版社から出されていますので、どの程度読まれたかは分かりません。なかなか面白いので、リクエストがあれば続編を書きます。ではまた。



https://www.youtube.com/watch?v=nE9-GHQWXnQ

 

枕上読書断片(4)――空っぽの容器

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月27日(金)11時34分49秒
   いま、2冊のモランディ展の図録の解説論文を、厄介な訳文と苦闘しつつ、ぼつぼつと読んでいます。モランディ作品の図版を見ながら、こんなことを考えています。

  ぼくの言葉は汚れている(立原)  ――   この絵は汚れていない
  私を越ゆる言葉はないか(伊東)   ――   この絵は〈私〉を越えている

 書き溜めてあった「枕上読書断片」の続きを再開します。

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 加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)というのを読みました。この本の最終章に「多崎つくる」のことが出てきます。それはまだ読んでいなかったので、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を、追っかけて読みました。
 『多崎つくる』の終りのほうから、2つの文章を取り出します。

A:「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。……僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた」

B:「ねえ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ」


 多崎つくるには沙羅という恋人があり、結婚してもよいとまで考えているのだが、最後のところでひっこみ思案になって、もう一歩を踏み出せない。それにたいして、エリという、つくるのことを心遣い、つくるも信頼している女性が、「ねえ、つくる」(B)と呼びかけ、つくるが「でも僕には自信が持てないんだ」といい、エリが「なぜ?」と問うのにたいして、つくるが「僕にはたぶん自分というものが」(A)と答える、という流れになっています。私が2つのセリフを個別に取り出して、順序を逆にしたのは、私の話したい主題が2つあるからです。

 「自分は中味のない、空っぽの容器のようなものだ」という、多崎つくるのこのような自己認識は、思春期頃の若者にはよくある、自己卑下、過小評価、悲観主義として、ごくありふれたものとも云えなくありません。立原道造も、こんなことを日記に書きつけています。

……僕は現実から回避してゐる。……どこに自己の何らかを見出せるか。からっぽだ、僕の心の中は……(一九三〇年その日その日日記 四月三日)

 このとき立原は16歳、府立三中の4年生になったばかりです。時に誇大な、時に自虐的な自己評価の、はげしく交替する年頃といってよいでしょう。ほかの人の書いたものからでも、探せば似たものがもっとみつかるかもしれません。
 伊東静雄が昭和5年に「空の浴槽」を書いたとき、彼は25歳でした。二人を並べるのは無謀というものでしょう。伊東はもう大人であり、立原に10年を加えた人生経験があり、思想的な遍歴もあり、内容にも、私が拙い筆で試みたように、いわば存在論的な重みがあります。立原は25歳の誕生日を迎えることなく、死んだのでした。

 「空の浴槽」の作者と「空の容器」の多崎つくるとの間には、大きな差異が存在します。
 1 多崎つくるには「空の浴槽」の作者のような実存的な孤絶感はなかった
 2 「空の浴槽」の作者の胸奥には驚叫する食肉禽が棲まっていた
 「空の浴槽」の作者がのちに拒絶という能動の主体となることができたのは、この差異によるものと考えます。

    …………………………………………………………

 唐突ですが、『石垣りん詩集』(岩波文庫)を読んでいて、こんな詩句をみつけました。

    私のふくらんだ乳房は
    たたくと
    カランと音をたてる
    ゆたんぽの容器のように
    わびしい私の持ち物です
               (「ゆたんぽ」)


 なんという、したたかな、ユウモアとイロニイ!

[B:については、次回に]
 

東京ステーションギャラリー

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 5月23日(月)13時26分49秒
  モランディ展、行きました!東京ステーションギャラリーも独特の風情のある場所で、ゆっくり歩行するリズムとひとつひとつ現れて来るモランディの絵のリズム感がとても良かったです。
山本様がおっしゃるような「思索と輪郭」につながるかどうかは心もとないのですが、絵を観ていて気になることと言えば、背景と事物の関係、地とモチーフ、特にその輪郭線の周辺でした。

絵の全体を見ているとき(図版を見ているときもそうです)モチーフは背景より手前にあるように見えます。つまり、世界の内側、世界の中、にあるように感じます。
でも、描かれた絵の、輪郭線のところをじっとみていると、その前後が逆転するような不思議な感覚に襲われます。モチーフと背景との明度の差なのですが・・・具体的には、輪郭線間際の「物」は暗く、そのすぐ外側の空間は明るく描かれている、ことが多いのです。白い壺に光があたる。当然、壺は白く輝いていて・・・背景も灰色だったりすると、壺より全体的に明度は低いのですが、壺のすぐそばの背景は、後ろ側から光が当てられているように(たぶん反射光など、あるいは目の錯覚を利用するというテクニック的な部分も含めて)ほんのり明るんで見えます。

明るい方が暗い方より手前にあるように感じてしまうので、輪郭線(物 が 世界 と接する間際)だけを見ていると、物、の方が地で、世界の方が手前に際立って見えて来る、のですね・・・。セザンヌが描いた女性像を見た時にもそれを感じました。

日本画のように輪郭線で描くのではなく、物の形そのものが輪郭を作り出す西欧の絵は、物のすぐそばの空間をほんのり明るませることによって、物の存在感を際立たせる、というテクニックが発達したのかも知れないのですが・・・物それ自体がかすかに発光しているようにも見えてきて、いつも不思議な気分になります。(感想ばかりで・・・世界秩序、というような大きな話には全然つながっておりませんが)
 

モランディという画家

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月19日(木)12時43分7秒
編集済
   ジョルジョ・モランディ Giorgio Morandi はイタリアの有名な画家で、すでにご存じの方も多いと思いますが、私はこの人の名前を加藤周一『夕陽妄語Ⅰ』(ちくま文庫)の「画家モランディの世界」という文章で、はじめて知りました。

モランディ……は、ボローニャで生まれて、ボローニャで死んだ。生涯をその町と近郊で送り、主として仕事場の机の上に置いた用ずみの水差しやびんや鉢などを描きつづけた。……モランディは日常の身辺の器物を描いたのではなく、それをじっと眺めているとそこに見えて来る世界秩序を、構成し表現しようとしたのである。

 この文章は刺激的で、いったいどんな絵を描いたのだろうと、すぐに興味が湧きました。
 その画像は、たとえば Google で Giorgio Morandi と検索語を入力して「画像」を表示させると、一挙に数百件の画像が出て来ます。このひとつひとつの背後にそれぞれのサイトを持っているわけで、とても見切れるものではありません。
 作品を次々見ているとすぐに、これは モランディの壺、これはモランディの花瓶とわかるような、それほど特徴的な絵なのです。
 私はその作品を見る前に、加藤周一の文章から直ちに、「あ、これは立原道造の〈思索と輪郭〉だ」と思ったのでした。

 画集、評伝、研究書の類もかなりありますが、Amazon などで見れるものはみな、とても高価で驚きます。
 昨年から今年にかけて、兵庫県立美術館、東京ステーションギャラリー、岩手県立美術館の3個所で、展覧会があったようですが、そんなことを知ったのも、後の祭りでした。東京ステーションギャラリーに問い合わせて、まだ図録の在庫があるというので、送ってもらうよう注文しました。もうひとつ、1989-90年の展覧会の図録も「日本の古本屋」でみつけて注文しました。(加藤さんは京都の近代美術館でこの回の展示をみてこの一文を草されたようです。)

 5月8日(日)、NHKのEテレ「日曜美術館」で放送がありました。なにげなく新聞のテレビ・ラジオ欄を見ていて、アッと思い、急いでTVを切り替えましたが、前半を見逃してしまいました。22日に再放送があるようなので、待ち構えています。

 もうひとつ、河出文庫版の『須賀敦子全集』の表紙カバーに、モランディのアトリエの写真が使われています。見慣れたものだったのに、知らなかった、あっ、そうだったのか、と、もうひとつの驚きを新たにしました。
 奥付の手前のページには、
  装幀 水木奏/カバー写真 ルイジ・ギッリ「モランディのアトリエ」より
と書かれています。ルイジ・ギッリはイタリアの写真家で、モランディの没後、そのアトリエに通い続けて撮影した、その写真集だそうです。その原書(イタリア語版)も、日本のいくつかの古書店や美術商などで入手できるようですが、やっぱり高い。

 伊東掲示板の皆様、このモランディの作品が、私のように〈思索と輪郭〉と見えますでしょうか?
(話の筋が少しずれましたが、話題を割り込んで投稿しました。でも結局は、立原-伊東に戻ってしまいました。)
 
 

ありがとうございました!

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 5月18日(水)21時36分30秒
  山本 皓造さま

まるで投稿掲示板ではなくて大学のゼミ室に戻ったみたいです!ありがとうございます!!

・・・なるほど、「ら」・・・一人で一匹の蝶と対峙している、はずなのに、急に「我等」となる、のはなんで?蝶と私???でもそのあと、またロンリーウルフ、独りになる・・・やっぱり蝶と我、なのかな・・・などなど、行ったり来たりしていました。なんだかスッキリしました。

小野十三郎、アルミニュウムとか、新鮮な語感の言葉をどんどん取り込んで詩を動かしていく、そんなモダンなところが素敵だなあと思っています。山本様のご投稿を拝見していて、チョーキセン チョーキセン と、ちょっと皮肉っぽく歌うようにつぶやくイメージが湧いてきました。
精神論なんかで勝てるか、物量だよ、戦争は・・・と精一杯の抵抗(反抗とか単純な戦争反対、とかではなく)を書きつけているのかもしれないなあ、などなど・・・。
また色々考えてみます。
 

小野十三郎の詩について

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月15日(日)21時03分17秒
   青木由弥子様のご投稿を拝見して、トリビアルなコメントを二、三書きつけます。

 伊東の「述懐」の、「誉なりけれ」→「誉なりける」について。私はこれは、「これわが軍神が/……誉なりける」と、単に係り結びを正しく書き改めただけと思います。

小野十三郎「物質の原にも」のうち、

①「今日も私は濃き硫酸の……」の「私」について。
 私はこの「私」を、詩人のことと読み、「私は詩人として今日も眼前の枯れ葦や灰色の空や硫酸の煙やそれらの光景を、言葉によって作品の上に造り出そうとする」というふうに読んでみました。

②「あゝわれらの物は」などの「われら」について。
 連想はすぐ「あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり」へ行きます。おそらく用法の上でも同じものと見てよいのではないでしょうか。
 いつかどこかで、「こら!」という、私たちが日常使っている叱声が「子等!」と表記されるのを見て、思わず膝を叩いたことがありました。「ら」は基本的には複数をあらわすのですが、手元の古語辞典を見ると、たとえば
  われら【我等】《ラ は接尾語。蔑視・卑下の意をこめて使うことが多い》
  ①一人称。(イ) われわれ……(ロ) わたしなんか ②二人称[下略]

ですから「われら」は、時によってはほとんど「われ」と同じい。「ら」は、声調を整えたり強調したりする役割だけのものであり得る。小野さんの詩句のなかの「鐡ら冷え、石凍り」において、「鐡」を複数で、「石」を単数で書かねばならない理由はまったく無く、これはただ、テツラヒエ イシコオリ と、5・5の音数を揃えるための操作であろうと考えます。(小野の場合、音数律は決して意識的な規範になることはありえませんが、無意識の域ではやはり一種のリズム的な好悪感が働くのでしょう。)

③「われら」の続き
そこで「われらの物質は」「われらの物は」は、くだくだしく書き換えてみると、
  私(もしくは私と同じ詩精神の所有者である詩人たち)が、
  視て、詩に言い表わす、あれらの物たちは……

ということになります。

④〈物〉と〈精神〉について
 〈精神〉とは幻のようなものであって、〈物〉は、そのような〈精神〉までも含み込み、〈精神〉にたいして超越的な〈存在〉であり、それゆえに〈物〉は〈精神〉よりも一層〈生きて〉いるのです。
 もともとアニミズムでは〈もの〉が〈たましひ〉を持つのです。付会すれば、小野は
  おまえら[この ラ は複数]、日本人たちよ、〈物〉をバカにするなよ。〈大和魂〉
  とか云って〈物〉をバカにしていると、いまに〈物〉に復讐されるぞ。

と、云っているのです。

 反戦詩、とまではいかないとしても、少なくとも単純な「軍神につづけ」の歌ではないことは、詩人の気構えからしてもたしかです。第一これでは「軍神につづ」きようがありません。小野は正直に「私は戦争詩も書いた」と云っています。が、反面でこのような詩も書いて、巧妙に「検閲」の眼を眩ましつつ、戦時下における自分のあり方を、証言として残しておこうとしたのではないでしょうか。立派な精神主義よりは物活論の蒙昧を私は選ぶ、という、イロニイを、まじめな顔で書きつけることによって。
 

硬質な抒情

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 5月13日(金)15時47分29秒
  Morgenさま 山本皓造さま

Morgenさま
「八月の石にすがりて」は、読めば読むほど不思議な感覚になる作品ですよね。
蝶を見ている…おそらく大阪の炎天下の「日常」の次元から、蝶の姿が消えて、闇で燃える「いのちの火」の輝きに飛び、さらにその「火」の中に飛び込んでしまったような、周り中、光で真っ白け、というような空間に飛んで…燃える太陽をにらみつけているような炎天の大阪に瞬間移動して、そこからまた、雪原のロンリーウルフに想念が飛ぶ…こんな忙しい詩があるでしょうか?この状態を実感していたとしたら、確かに目が回りそうです。闇と光、蝶と猛獣、夏と冬…。極端なものを引き合わせる、という手法は、ちょっとシュールレアリスムの理論にも似ている気がしますが、大きなものと小さなもの、といった対立するものを取り合わせるのは、むしろ俳句の手法からの影響ではないか、という気がしています。
「曠野の歌」の白雪や、「氷れる谷間」の〈一瞬に氷る谷間/脆い夏は響き去り…〉の極端な振幅とか…「冷たい場所で」の荒く冷たい岩石、のイメージ、などなど…

「固い光沢」、小野十三郎さんも、〝うまいこと″言いますね。
ちょうど今、昭和18年刊の『軍神につづけ』を調べているところでした。大政翼賛会が、当時の短歌、俳句、詩の第一人者に依頼し、開戦一周年に当たる心境を「軍神につづけ」の総題のもとに作品にする、という企画を立て、詩は東京日日(毎日)、短歌は朝日、俳句は読売に発表させる、ということがありました。それを一冊にまとめた小冊子です。

伊東静雄は「軍神につづけ」の題で、『春のいそぎ』に「述懐」として収録されている作品を提供しています。「軍神につづけ」では「皇国の誉なりけれ」となっている所が、「述懐」では「皇国の誉なりける」となっている程度で、ほぼ同じです。「述懐」の初出について、どなたか調べておられる方がいらしたかどうか…。

小野十三郎も詩を提供しています。

「物質の原にも」
薙ぎ倒されたやうに
冬の葦は枯れてゐる
周囲の街も山も海も暗い。
一刷毛の青もない 底冷えする
灰色の空へ
今日も私は濃き硫酸の煙をあげやうとする。
大森林のやうなおだやかな翳の中に
清浄な光の斑(ふ)を散らし
われらの物質は反射し交錯し堆積してゐる
あゝわれらの物は
物にしてすでに物に非ず
また単なる魂のごときものでもないのだ。
鐵(てつ)ら冷え 石凍り
十二月八日再びきたる。
長期戦 長期戦
日頃見慣れたわが重工業地帯の風景には
何の変りもないが
今は「精神」よりも強烈に しずかに
われらが物ここに
生きるを感ず。

これって、戦争詩?報国詩?というくらい、戦時色が感じられないことに驚いているのですが(小野十三郎の全集を調べていないので、この作品が後に詩集に収録されたかどうかは、まだわかりません。ご存知の方がいらしたらご教示ください)
…私、が硫酸の煙をあげる…語り手は工場なのでしょう。工場そのものが、周囲の荒涼とした風景を眺めながら、自分たちが生み出した「物」が生きている、ということを(逆に言えば、「人」「人間」は活きていない、ということを)語っている。

この詩の方が、むしろ初期の静雄っぽい、と思ってしまうのですけれど…Morgenさんのお話を伺って、小野十三郎は、モダニズム的な風景の中に「固く冷たく光るもの」を意識的に取り込んだ、と言えるのかもしれない、と感じました。

山本皓造さま
山本様の「谷間の明り」、貴重な引用をたくさん、ありがとうございます。
ちょうど、山羊塾(八木幹夫講師)で梶井基次郎を読んだところでした…課題作品が「闇の絵巻」。闇の中に置かれると、人は最初は恐怖や不快を感じるが、その闇を…いわば甘受する覚悟を決めてしまうと、その闇がむしろ安息として感じられる…という随想的な文章の後に、〈黒ぐろとした山〉が行く手に立ちふさがっていて、〈その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起した。パアーンとシンバルを叩いたような感じである〉つまり、人家の光ではない輝きには、恐怖を感じる、という体験を書く一方で、〈如何ともすることの出来ない闇〉の中に〈一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている…私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた…男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは…「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ」…という感動なのであった〉と述べていて…この一節を読んだとき、人家の明り、に照らされる一瞬と、闇に没する時間との交錯が「生きている」ということであり、最終的に闇は死(安息、安住)の空間、と考えていたのかもしれない、と思ったのでした。

窓の灯を見上げて、詩作の苦悩と痛切な陶酔のようなものに静かに共感していたリルケもまた、闇から現れ、誰かの光に照らされ…あるいは自ら灯した光を誰かに投げかけながら、また闇へと去っていった詩人であるのかもしれません。
 

谷間の明り

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月10日(火)18時37分44秒
編集済
   青木様が「自立した孤」ということに関して、「広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている」と書いておられる個所を読んで、そのときとっさに私に、2つのイメージが浮かびました。それについて書いてみます。「解明」までは行きませんので、ここではイメージの提示だけです。引用ばかりになりますが、お許しください。

 その一は、堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」の一番最後のところ。

 九時頃、私はその村から雪明りのした谷陰をひとりで帰って来た。そうして最後の枯木林に差しかかりながら、私はふとその道傍に雪をかぶって一塊りに塊っている枯藪の上に、何処からともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。こんなところにこんな光が、どうして射しているのだろうと訝りながら、そのどっか別荘の散らばった狭い谷じゅうを見まわしてみると、明りのついているのは、たった一軒、確かに私の小屋らしいのが、ずっとその谷の上方に認められるきりだった。……「おれはまあ、あんな谷の上に一人っきりで住んでいるのだなあ」と私は思いながら、その谷をゆっくりと登り出した。「そうしてこれまでは、おれの小屋の明りがこんな下の方の林の中にまで射し込んでいようなどとはちっとも気がつかずに。御覧……」と私は自分自身に向って言うように、「ほら、あっちにもこっちにも、殆どこの谷じゅうを掩うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。……(新潮文庫 p.197-198)

立原道造はその評論「風立ちぬ」でこの部分をとりあげて、堀辰雄への訣別の言葉を準備します。

 僕らは、「親和力」のなかで、嘗てこのやうな言葉をきいた――「人はどんなに世を離れてくらしてゐても、知らない間に、他の人に役立つてゐたり、おかげを蒙つてゐたりするものだ。」と。オチリエがそれをいふのだ。僕らの詩人もまた、今はそのことを言ひたいのではなからうか。――「あつちにもこつちにも、殆どこの谷ぢうを掩ふやうに、雪の上に点々と小さな光の散らばつてゐるのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。」(S.190)とつぶやくときには。僕らは先にこの言葉をひとつの静寂な饗宴から理解した。しかし今むしろ、非常に感傷的な感想として、ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る。生きた人間は恒に他の人から自分を奪はれねばならない。そして自分も他の人も満足しながら、この掠奪がなされるのは、ひとつのやはり美しい感謝ではなからうか。詩人の弱々しい微笑は、限りない肯定である。どこから、この肯定は、しかし僕らに訪れるのか。ひとつの entsagen から? 否。ひとつの entscheidenから。(筑摩書房版『立原道造全集第3巻』 p.261-262)

 立原がここで「ここに詩人が、他の人に役立つてゐることを、自分の満足といつしよに、弱々しい微笑で告白してゐるのを見る」と云うのは、前の堀辰雄の引用部分のすぐあとに続いて、次のように書いているのを指します。

 漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見てみようとした。が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……(新潮文庫 p.198)

 立原は堀のどこが気に入らないのでしょうか。立原の「風立ちぬ」を読み解くというのは実は、私の前からの課題になっていて、ハイデガーまで担ぎ出した挙句に、音をあげて放り出したのでした。ここでは、谷間に散在するかすかな明り(と、それについての堀辰雄の感慨、立原の何やら不満げな様子)をイメージしていただければ結構です。

 二つ目のイメージは、サン=テグジュペリ『人間の土地』の冒頭部分です。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。(堀口大学訳、新潮文庫 p.7-8)


 「心を通じあう」は communiquer です。

 伊東の姿勢と立ち位置はどう見ても、「拒絶と自恃」「自立して燃える孤寂なる発光体」であり、とりあえずは、他者との communiquer や、「他者への想像力」からは遠い所にあります。そこからの転位の機微については改めて考えなければならないでしょう。
 なお、田中清光氏の著書への私の感想を「お伝えしてもよろしいでしょうか」と青木様が云っておられること、どうか御意のままにお取り計らいください。

 書いているうちに、もうひとつ、リルケの詩「厳粛な時」(『形象詩集』)を思い出しました。「いま、世界のどこかで、泣いている者がある」。有名な作品なので、以下、引用はやめます。なぜこれを思い出したかも、ご推察ください。

………………………………………………

 ここまで、昨夜、下書きを仕上げて、今日、投稿しようとして掲示板を開くと、Morgenさんの投稿に会いました。
 「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげらせて目を青ませた狼」どうしの「連帯」、というのはなんだか、ドキドキしますね。「広大な宇宙空間のなかで、それぞれ自立して燃えている、無数の孤の灯」たちが、相互に「連帯」する、という壮大な夢想。……

 また続きを書きます。今日はとりあえずここまでで投稿します。掲示板上での濃密な対話を期待します。
 

「喘ぎ喘ぎして」自発的乗越

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月 9日(月)23時09分22秒
編集済
  山本様。青木様。小生の拙い投稿をお読み頂きコメントありがとうございました。
 早速、田中俊廣著『痛き夢の行方』を開いてみました.10余年前に読んで線を引いているのですが、中身の大半を忘れていますね。(慌てて再読しました。)
 今日、昼休みに古本屋をのぞいていたら、硝子戸棚の中に『関西戦後詩史』が展示してあり、その帯に次のようなキャッチコピーがありました。
 <雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目>が燠火のように燃えている。・・・・・
 言うまでもなく「八月の石にすがりて」の最後の詩句です。中身も見ず即購入して、仕事の合間にペラペラとページをめくると、295頁に次のような文章がありました。
(国鉄詩人連盟の 柏岡 浅治様)
 ・・・・・たとえ独りぼっちになっても、年老いても、伊東静雄の詩じゃないが「雪原に倒れ伏し、飢ゑにかげりて、青みし狼の目」をぼくらは連帯すべきじゃないか、・・・・・
 おそらくこの発言を受けて、<編纂後記>で、福中 都生子様が以下の文章を入れられ、更には帯のキャッチコピーとなったのでしょう。
「雪原に倒れ伏し、飢えにかげりて、青みし狼の目」ともいうべき野性的連帯の光芒が実存している・・・。
 驚いたことに「八月の石にすがりて」の詩句の一部分が独り歩きをしているのです!!(伊東静雄もさぞやビックリしているかも・・・)
 「拒絶」を経て、約半年間のブランク(昭和11・7~同12)の半ばで、「三日三晩のたうちまはつた」り、「三日三晩ほど気違いのやうになって」生み出してきた詩句であります。このような苦難を自らに課して、「拒絶」という逃避の場所から、伊東静雄は「喘ぎ喘ぎして」自発的に乗り越えてきたというのが、田中俊廣著『痛き夢の行方』の説くところでしょうか。
 小野十三郎さんも、「詩の書き方、うまかったな。名手やな。伊東静雄は。・・・なんかぬれそぼった抒情詩でなくて,固い光沢がある。あの光る固いものは何か。」と仰っています。(『関西戦後詩史』329頁)
 
 

自発ということ

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 5月 7日(土)15時22分52秒
  M orgen 様の奥深い問題提起について思いめぐらせていたところ・・・山本様から更なる展開をご提示いただき、おおいに刺激をいただきました。ありがとうございます。田中様のご著書も、ことあるごとに戻り、そのたびに新たな発見を頂けるご研究ですね。

拒絶、自恃・・・自ら否定する能動性は、遮断されたり疎外されたりする孤独ではなく、自ら選びとった 孤 の地点に立つことでもある・・・その神々しさ、というと語弊がありますが、漆黒の闇の中で、細く小さくとも燃えるひとつの灯のイメージ・・・灯は、ひとつひとつ孤立しているけれども、自分、という枠から離れて、巨視的な視点で見るならば、広大な宇宙空間のなかに、無数の孤の灯が、それぞれ自立して燃えている・・・

「八月の石にすがりて」の中で、われら、と複数で 発光体 である われ が詠われることが気になっています。
自発的な拒否は、自発的な受容にも反転しうる能動性を持つ、ということも。孤の苦悩を突き詰めたとき・・・言い換えれば、内面への遡行をギリギリまで突き詰めたとき・・・発光体として一人一人が命の炎を燃やしている光景が、静雄には見えたような気がしてなりません。

田中清光さんのご著書への山本様のご感想を、お伝えしてもよろしいでしょうか?シュタイナー風というのでしょうか、にじみやぼかしを活かした、素敵な水彩画もお描きになるようです。
 

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