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青木由弥子 様

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月28日(木)09時39分59秒
  サギソウの写真へのご感想、有り難うございます。

青木様が、伊東静雄研究会の会報に寄せて下さる、力のこもった文章を拝読するたびに、会員全員でため息をついております。

青木様のブログをお気に入りに追加しました。
これからは、時々お邪魔します。
 
 

龍田豊秋さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時41分55秒
  サギソウのお写真、素敵ですね。叔父が草物盆栽に凝っていて、溶岩の鉢にミズゴケで植えこんでいましたが、いつも数輪(数羽?)しか咲きませんでした。群れ飛ぶ様は壮観です。拙いものですが、ブログを(たまに)更新しているので、URLを張っておきます。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

山本 皓造さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時35分43秒
  貴重な資料を添付して下さり、ありがとうございました。

「夏の終」の出典情報は、上村紀元さまに教えていただきました。
萩原朔太郎 晩年の光芒ー大谷正雄詩的自伝― 大谷正雄著 P264 に、『公論』の15年10月号とあるそうです。まだ、『公論』そのものの確認は出来ていない、とのことでしたので、国会図書館に出向いた次第です。

父が高校の歴史教員で、夏休みになると国会図書館などに通っていたのですが、その時分は、資料が出てくるまでにかなり手間取ったようです。その話を聞いていたので、なんとなく気が重かったのですが・・・全部デジタル化されていて、あっという間に資料が出てきました。マイクロフィッシュの資料は、かなり手作業の部分があって、読みにくいのですが、『公論』などは画面上でパラパラ本をめくるみたいに簡単に読むことができます。
その時代の雰囲気を知るためにも、前後を広く読む必要があると思いました。
『呂』、ずいぶんたくさんの同人が参加していたのですね。なんとなく、二人誌のようなイメージを抱いていました。ありがとうございました。

短歌、これもまた大きな連山のようなテーマですが・・・富士正晴によれば、静雄が花子さんと出会ったのも歌会の席だったようです。たぶん、その時一目ぼれして(雰囲気や相貌、才知などにほれこんだのでしょう)つてを頼って見合いに持ち込み・・・その途中で父親の死と借金の問題が浮上し・・・その困難を共に引き受ける形で花子さんはお嫁に来て下さったらしい。酒井百合子さんに、この結婚が上手くいくかどうか、と悩み相談のような手紙を出しているくらいですから、一時的には百合子さんに熱をあげていたとしても、この時には花子さんに夢中だったのだろう、と思います。「歌」のつなぐ縁、ということでしょうか。(脱線しました)
 

Morgenさま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時20分13秒
  一緒に頭をひねってくださる方がいると、大変心強いです。保田與重郎の斡旋の可能性もありますね。保田は、日本浪漫派を、マルクス主義に続く文学運動と考えていたようです。今からみると、まるで真反対のようにも思えますが、西欧資本主義の欠点や問題点を、いかに克服するか、という点では、マルクス主義も、日本浪漫派(が影響を与えた、ということになっているファシズム的思想も)同じ・・・。皇国史観の立役者、平泉澄も、マルクス主義者の羽仁五郎も共にベネデット・クローチェの歴史学から影響を受けたらしい、ですし・・・平泉は『我が歴史観』の中で、明治以来の(西欧的な)研究法は分析であり、分析は解体であり、解体は死である。真を求めるには綜合であり、総合は生である、それは科学ではなくむしろ芸術である・・・などなど述べているのですが、これって、ノヴァーリスの、科学は自然を切り刻んで殺してしまった、芸術は死んだ自然を総合し再び再生させる、という思考法と、そっくりではないか、という気がして、なんとも複雑な気分になります。

ロマン主義の、原初への遡行、分析よりも総合、歴史的命脈の尊重、変化するものより普遍的なものの重視、現象より本質・・・といった理念が、ファシズムに転用されないためにはどうすればよいのか、という部分で、いつも立ちどまってしまいます。
 

『夏の終』//私の推理(?)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月26日(火)22時54分44秒
編集済
   7月15日付け青木様のご投稿にありました雑誌『公論』について少し調べてみました。(青木様にお書き頂くべきところですが、これまでに分かったデータと私の推理を“前座”で書いてみます。本格的な論究をお待ちしております。)

 <『公論』は、昭和14年、上村哲也、勝也兄弟によって設立された「第一公論社」の発行になる雑誌である。編集を担当した勝也は、改造社を経て先進社社長となったという人脈から、当初は幅広く小説やエッセー、詩歌なども同誌に掲載したが、戦争の進行とともにそれらは排除されて戦時色の強い雑誌となっていった。>(WEB上に掲載されている『古本夜話』から)

 国立国会図書館デジタルコレクションによると、『公論』1940年(昭和15年)10月号に「夏の終り」(詩)伊東静雄P244~245が掲載されています。

 また、『公論』について、『ユリイカ』(昭和50年10月号) 特集“日本浪漫派とは何か”P120で、橋川文三氏が対話の中で次のような要旨で述べておられます。

 彼ら(橋川氏より若い世代の人たち)が読んでいたのはもう浪漫派ではなくて『公論』ですね。極右の上村哲也・勝也兄弟が編集していた『公論』、われわれはもう読まなかったですね。しかし僕らよりちょっと若い世代は浪漫派よりもっとラジカルな『公論』に惹かれている。(因みに『日本浪曼派』は昭和13年に終刊)
<保田與重郎氏は昭和18年に第一公論社から『文明一新論』という本を出版しています。>

 <<以下は私の拙い推理ですが、>>―伊東静雄は、保田氏に(?)強く求められて(?)、昭和15年夏の終り頃に創って、手元に置いてあった詩稿「夏の終」を、昭和15年当時は創刊されて間がなく、まだ極右政治誌色が濃厚ではなかった『公論』に(心ならずも)提供した。
 そのために、同誌の他の論調とは異質であり、即物詩・散文詩風のクールな詩になっており、心の中の「ある壮大なものが徐かに傾いている」という、放心状態・虚脱感の漂う平明な詩になっています。その結果、「夏の終り」(詩)だけが何となく浮いた感じで、場違いな『公論』に掲載されることとなった。
 ―(そしてその事実は『伊東静雄全集』の年譜には記載されなかったのではないか?)...こんな推理をしてみましたが、それを裏付けるような証拠や証言が果たして見つかるのか? 今となっては自信はありませんが...
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月26日(火)09時29分23秒
  Morgen様、私の写真を使って下さり有り難うございます。
中々、満足出来る写真は撮れません。

7月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第103回例会を開催した。
出席者は、6名。

今回は、『沫雪』『笑む稚児よ』『早春』の3篇を読み解いた。

会報は第97号。
内容は次のとおり。

1 伊東先生のこと                 明石 長谷雄

                                       詩集『冬タンポポ』あとがき より
    伊東静雄に私淑して、伊東静雄に詩集を献呈した。


2 詩 「渚にて」                                  山本 まこと
            2014年夏の記憶、佐世保
                                       「あるるかん」31号

3 詩 「おさなご」                                大木 実


4  詩 「おうどん」                                山田 かん


5 野口寧斎と佐佐木信綱との通交        伊東静雄研究会 上村 紀元


6 野口寧斎と正岡子規                          上村 紀元


7 野口寧斎と伊東静雄                                  上村 紀元

                                                                  以上

次回例会は、8月27日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

暑中お見舞い申し上げます

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月25日(月)14時07分53秒
編集済
  龍田様

 多良岳の「オオキツネノカミソリ」の画像をご掲示いただきありがとうございました。さっそく、デスクトップの背景に使わせていただいています。

 色は違いますが「夕萓(ゆうすげ)」などの一種かと思っていましたが、本当はヒガンバナ科ヒガンバナ属の花なのですね。

 10代の頃に、毎年植林をした多良岳山麓の杉や檜が、もう60年物の立派な材木になっているはずで、機会があれば昔の植林地(校有林や村有林など)を訪れてみたいものです。

 大阪は「天神祭り」で賑っていますが、日本全国いよいよ本格的な盛夏到来。
 皆様どうぞお体を大切に猛暑を乗り切ってください。
 

花便り

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月25日(月)09時46分18秒
  暑い日が続いています。皆様お変わりありませんか。

昨日、多良岳に登りました。
金泉寺山小屋の気温は、摂氏23度でした。

オオキツネノカミソリが丁度見頃でした。

わが家の庭では、サギソウが涼しげに咲いています。
 

画像忘れました

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時50分35秒
  ここに貼り付けます。
 

雑談

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時46分12秒
   国会図書館へは、私はただ一度だけ、行ったことがあります。請求した図書が出て来るのをベンチに座って待つ、いらいらとした不安な時間、複写をとる手続きのわずらわしさ、そんなことを漠然と憶えているだけで、そもそも何をしに行ったのか、何を閲覧したのか、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまっています。でも、東京に住んでいる人は、さまざまな資料へのアクセスに関して圧倒的なアドヴァンティジをもっているわけで、その点うらやましく感じたものでした。

 オリジナル、たとえば初出誌や初版本等を見るのは、目的の詩の一篇だけではなくその周辺の風景も見られるので、有益でもあり、また歓びでもあります。以前にも書きましたがが、私は伊東静雄や青木敬麿らが創めた雑誌「呂」が見たくて、それがどこにもなくて、その時に教えてくれる人があって、志賀英夫さんという、詩誌『柵』を主宰している大阪在住の詩人で『戦前の詩誌・半世紀の年譜』という本も出しておられる方のことを知って、お願いして、蒐められた3点の「呂」のコピーを送っていただいたことがあります。
 伊東の詩「病院の患者の歌」ほかの載った第2号のページと、この号の目次の図版を貼りつけます。おそらく掲示板の皆様も、ここに名を連ねた同人の方々を、ほとんどご存じないかと思います。
 伊東の「呂」→「コギト」への移行、接近は、もちろん伊東の詩精神の内的な転位に求めるべきでしょうが、私は伊東の保田との出会いという外的な出来事が案外大きいと思うのです。
 なお「呂」の同号の巻末に「同人語」という欄があり、ここに(伊東)と署名のある文章があります。この(伊東)が「伊東静雄」ならば、これは全集未収録資料ということになるのではないでしょうか。

 伊東と短歌について。従来、全集だけによる限りでは、伊東の作歌作品数はごく限られていて、ほとんど、「短歌から詩への移行」とか、「歌の別れ」などを論ずる必要もないかのように、軽く見られていたような感がありました。しかしその後、田中先生の『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』における大塚宛書簡、『伊東静雄日記 詩へのかどで』、および酒井姉妹宛書簡等、新資料が出て、そこに収められた短歌作品を拾うと、相当な数に上りますし、作歌と作詩とが重なっている時期も明らかにあって、歌の別れ→作詩へ、という単純な行程と見ることはできないように思えるのです。私は短歌の読解力、鑑賞力というものがまったく欠けていて、力及ばないのですが、伊東静雄の短歌というテーマは、誰かがとりくむだけの価値のあるボリュームをすでに備えていると思うのです。
 

「また立原伊東」追補

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時45分6秒
   前稿を書いたとき、小川先生が『立原道造の世界』で次のように述べておられることが、気になっていました。

……しかし、この原歌と現代訳の関係は塚本邦雄の「空ぞわすれぬ」(「南北」第六号[ママ])の説のごとく、これは本歌と本歌取りの関連において論ぜられるものではないという山田俊幸の指摘(注、前記「風信」第六号)は正しい。立原はこの原歌を彼の詩語で見事に四行詩に翻訳して見せた。結果的に見て、訳詩はそのまま立原の十四行詩の世界をさながらに映し出している。(p.164)

 引かれている塚本邦雄、山田俊幸両氏の論考は、次のものを指すと思われます。

  塚本邦雄「空ぞわすれぬ――現代における詩歌の意味」(「南北」第一巻第十二号、昭和四一・一二)
  山田俊幸「立原道造――全集未収録訳詩二篇」(「風信」第六号、昭和四六・三)

 このやりとりは、塚本氏が立原の現代語訳を本歌と本歌取りの関係において論評し、山田氏がこれにたいして否定的な見解を示した、という成り行きのようです。しかし私には今のところ、この2論考にアクセスする手立てがありません。そのかわり、ともいえないのですが、次の2篇を見つけました。

  塚本邦雄「飛鳥井の鮎 本歌取りについて」(「新装版現代詩読本立原道造」思潮社、1983.6)
  山田俊幸「ゆめみこたちの群像(一)~(八)」(「果樹園」第一五四号~一六一号、昭和四三・一二~四四・七)

 塚本氏の論は標題どおり、本歌取りという観点から立原の例の2篇の現代語訳についての批評を行っているもので、その批評は「本歌取りとしてすぐれた作品になっているか」「本歌取りの作法に随っているか」という観点から見て、相当に辛口です。(塚本氏は後半では「鮎の歌」を取り上げてこれを絶賛?しています。)
 山田氏のものは、主として松永茂雄の青年時代に焦点を置き、立原から見た茂雄による呪縛とそこからの解放を描きます。同人誌「ゆめみこ」や新古今の現代語訳については触れるところがありません。(なお「果樹園」は、小高根さんの、あの「果樹園」です)

 妙な言い方ですが、塚本邦雄氏というのは、私などから見れば、短歌の専門家であり、「玄人」です。そういう高みからバッサリ斬られると、竦んでしまいます。長くなるので、引用はしませんが、いちどお読みください。
?
 

『夏の終』/「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月19日(火)23時27分36秒
編集済
   近畿地方には「梅雨明け宣言」が出されて、やっと真夏らしい太陽が頭上に耀いています。気持ちの良い暑さですが、さすがに日中のロードバイクは中断しています。

 “前川 佐美雄と前 登志夫との関係”という、青木様のご設問に誘引されて、前 登志夫『山河慟哭』、同『森の時間』の2冊を読みました。
私も、多良岳山麓のどちらかといえば山育ちで、実父は青年時代には木挽き職人をしていたそうで、応召により満州へ行き、敗戦後数年間のシベリア抑留中は材木伐採をやらされていたそうです。、帰国後は地元農協の製材所で村有林の製材や、伐採予定の植林地の石高見積りなど、一生を材木を相手の仕事をしてきました。私はそんな環境で育ちましたので、少年時代には、多良岳・山犬台の伐採「飯場」に泊まったり、毎年、数回は植林の下刈り・間伐の手伝いに行き、中学時代には「一人前の職人」と煽てられて手伝いをしました。(大学時代にも大阪茨木の美山地方で薙刀をもって植林の下刈りの手伝いをしたことがあります。)
 そんな関係で、前 登志夫さんの『山河慟哭』『森の時間』を読んでいると、遥か60年数前に経験した杉や檜の皮剥ぎの匂いが懐かしく蘇ってくるような錯覚におそわれます。

「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさをしみじみと感ずるのです。」という昭和15年6月中旬 池田勉宛伊東静雄書簡があります。 父や義父の20歳後半の生き方は、まさに「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く人間のいとほしさ」そのものであったように思われます。(合掌礼拝!)

 先日の青木様のご投稿で『夏の終』のことに触れられていましたが、そういえば 『夏の終』がいつ書かれたのか? 「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」とは何か?という詮索を、やったことがあったことを思い出しました。
(その際、永藤武著『伊東静雄論・中原中也論』―おうふう2002年刊―が私には参考になりましたが、同書は昭和16年夏説です。)

 従来まで、「夏の終」の初出について、『伊東静雄全集』年譜では「不明」とされていましたが、今後は“昭和15年夏”と改められなければなりませんね。第3詩集『春のいそぎ』が、おおむね年代の新しい詩を前に、古い詩を後ろに置いている配列とも一致します。<後ろから3番目が「蛍」、4番目が「夏の終」>。
*田中俊廣『痛き夢の行方』では、昭和15・10「夏の終」とされています。(同書177頁)
 

夏の終(『春のいそぎ』の方)

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月15日(金)22時24分0秒
編集済
  山本 皓造さま

立原の、独り言のような、覚書のような”静雄評”、たくさんのヒントを含んでいるような印象があります。詩人の直観、というような。直接、影響関係を指摘するようなことは出来ないかもしれませんが・・・そういう、論理を越えた部分で。

お元気そうでよかったです。山本様のご投稿を拝見し…「日本浪漫派」に静雄は”4篇”の詩を寄稿した、と早とちりで思い込んでいたので・・・「あ~!!!」と思って慌てて確認しました・・・4篇、ではなくて、4回、でした・・・。ありがとうございました。

「コギト」には毎回のように詩を出して、しかも同人費も払っているのに、”同人”にはならなかった、とのこと。「呂」の青木敬麿に遠慮したのでは、という説を読みましたが、本当にそれだけなのか、どうか。「日本浪漫派」の方は”同人”になっているのに、こちらには詩をあまり出していない・・・「水中花」は、いかにも浪漫派的な名作ですが・・・。

微妙な距離の取り方が気になります。参加同人との個人的な関係、掲載された他の作品との関係など、色々な要因がからんでいそうです。宿題、です・・・。

今日は、国会図書館に「夏の終」の初出を確認しに行ってきました。棟方志功の挿絵がついていました!ちょっと暗くて見づらいのですが、コピーを添付します。

昭和15年の『公論』、第二次近衛内閣の南進政策を強力に擁護するような論陣が張られていて、全体に戦時色が強く、太平洋戦争に既に入っている時期の雑誌かと勘違いするほどでした。大英帝国の衰退、ヨーロッパにおいてはドイツが覇権を握り、太平洋においては日本が覇者となる。この地域を経済的に支配下に置こうとするアメリカの”野望”を阻止し、亜細亜の植民地化を防ぎ、日本が盟主となる・・・という大東亜共栄圏のイメージが、既に知識人たちの間には浸透しつつあったのだ(メディアの力を借りて)ということが伝わって来るような内容でした。
 

また、立原から伊東へ

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月15日(金)09時47分37秒
   角川版6冊本の立原道造全集第四巻「評論・ノート・翻訳」をパラパラとめくっていて、「スケッチブック」というものの中に、伊東静雄の名前をみつけました。
 編註によると、「スケッチブック」というのは文字どおりの画帳で、3冊あり、各葉のほぼ片面(表面)のみに、地図、家具、風景、建物など雑多なもののスケッチ、心覚えや抜書きなどのメモ、等が、脈絡なく書き込まれているようです。全集の編集上は「ノート」という大分類で「火山灰ノート」「盛岡ノート」「長崎ノート」と同じ並びに入れられています。
 伊東の名はこの「スケッチブック」の3冊目の第6ページに出て来ます。このページの全体をまず引き写します。

     §
津村信夫と王朝のリリック。
伊東静雄にあつては、パロディとしてその精神が投げ出されてゐる。
 古典。――一つの形式としてでなく、本質として。
     ☆
彼の Lyrische Roman のいつはりなること。
神保光太郎の「マグダレナ」に比較せよ。
グレエトヘンと、北信濃の愛する神の神話。


 これだけのデータから、立原が伊東の何について、何を言おうとしているのかを理解するのは、私にはむずかしすぎます。

 編註は、昭和11年1月10日付津村信夫宛書簡に拠って、このページが書かれたのを1月上旬と推定しています。津村宛書簡は短いもので、

冠省。津村信夫論を今肩いからせて書いて居ます。四季・二月号に間に合はせるつもりです。津村信夫と王朝の抒情といふ所が得意の段です。

 この津村信夫論は実際に「愛する神の歌」の表題で『四季』第15号(1936年2月)に発表されました。また、角川版には未収ですが筑摩版全集第3巻に「「愛する神の歌」の手記」と題する文章が収録されていて、これは『四季』掲載分の別稿のようです。
 並べてみると「スケッチブック」のこのページのメモは、全体が津村論の覚書のようなもので、そうであれば、ここから立原の津村論に関して論じるべきなのでしょうが、私には津村信夫について何を云う資格も力量もなく、申し訳ないのですが、津村についてはここでパスさせてください。

 話は戻って、「スケッチブック」のこのページの少し前、第2ページと第4ページに、新古今集巻十一から2首を抜いて、その現代口語訳を試みたものが、書きつけられています。これが第6ページにつながりがあると思われるので、書き出してみます。

第2ページ(表)
 水脈もなく 水禽[とり]一羽 寒い水の上
 私は 待つてゐる
 来ない たよりを――
 たよりは 来ない 今日も昨日も
謙徳公――新古今集・巻十一

第4ページ(表)
 なぜ 乾かないのか 時雨ふる
 冬の 木の葉よ
 なぜ 乾かないのか つめたい頬
 頬をつたつて 誰も知らない涙よ
新古今集巻十一・よみ人知らず


 謙徳公は藤原伊尹で、この原歌は
  水の上に浮きたる鳥のあともなくおぼつかなさを思ふ頃かな
 よみ人知らずの原歌は
  時雨降る冬の木の葉のかわかずぞもの思ふ人の袖はありける
であることを、編註から知ることができます。
 この2首の訳は、少し手を加えて、同人誌「ゆめみこ」第15号(昭和11年1月号)に掲載されました。こちらの訳文は、同全集第四巻の「翻訳拾遺篇Ⅱ」の篇別中に収録されています。

新古今和歌集巻十一 〈神垣抄〉より

      32    謙徳公
水脈ひかず 水禽一羽 寒い水の上
私は おもつてゐる
来ない たよりを――
たよりは 来ない 今日も昨日も

      65    よみ人しらず
なぜおまへは乾いてゐないのか 時雨ふる
冬の 木の葉よ
なぜ乾いてゐないのか つめたい頬
頬をつたつて だれも知らない涙よ


 編註はなお次のように記します。

この現代語訳の試みは本号の「ゆめみこだより」に、「木曜日の新古今鑑賞で十二月にやつた巻十一から、道造、迪夫、貞夫の現代語訳を抄出してみました」と記録されている。
「ゆめみこ」は立原の一高時代の同期生、松永茂雄が主宰した同人誌で、貞夫はそのペンネーム、迪夫は弟の松永龍樹。


 この松永兄弟の現代語訳は、立原全集の編註では知られないのですが、小川和佑先生は『立原道造の世界』(講談社文庫)において、松永兄弟と同人誌「ゆめみこ」、およびその立原との関係、就中立原の新古今吸収において果たした役割について、詳しく説かれました(p.159~166)。そこで松永兄弟の試訳も紹介されています。

    32  幾度だしてもたよりのない女に  謙徳公
水の上に 浮いてゐる鴨。
どうして うごかない。

寒いから、
忘れさうな君の顔。
  迪夫(注、松永龍樹)

    65  冬木  よみ人しらず
さめざめと、
小雨にぬれる冬の木の葉の――
かわくときもないものよ。
恋しりそめた 人のなみだは。
  貞夫(注、松永茂雄)


 ただし同書には「スケッチブック」への言及はありません。
 小川先生は、新古今集の和歌は立原の詩そのものになっている、と立原訳に高い評価を与えておられます。

 さて、ここからが、私の大ヤマカンになるのですが、私は
  伊東静雄にあつては、パロディとしてその精神が投げ出されてゐる。
というのは、立原がまず謙徳公の歌を前に置き、ここから伊東の『哀歌』巻末の(読人不知)、

水の上の影を食べ
花の匂ひにうつりながら
コンサートにきりがない


に連想を飛ばして、これを謙徳公の「パロディとして」(つまり本歌取りとして)とらえた、のではないかと見るのです。
 といっても、私は、直感的に「線を引いた」だけであって、これを分析的に論ずる力はありません。
 なりゆきから行けば、立原の津村論は、津村と王朝の抒情について論じ、ひいては伊東との比較に及ぶ、という内容をも含むべきだったはずです。それで、この部分の展開がないのが、惜しまれたのでした。
 

立原から伊東へ、無言の言及

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月 9日(土)13時19分13秒
   青木由弥子様。お見舞い、ありがとうございます。すこしづつ、動けるようになりました。

 立原道造全集の、分厚い書簡集を、ようやく読了しました(角川版6冊本全集第5巻)。その中から。

 昭和10年8月5日猪野謙二宛(第127書簡)で、立原はこう書いています。

先日、コギトの六月八月號を手にして読んだが、中に就て、ナポレオンは面白かつた。保田といふ人の小説は思考は純粋なのであつたが小説として濁つてゐた。あれは小説でないのであらう。僕が小説としてよんだのかもしれぬ。だが、一體保田といふ人の文章はいひたいことがありすぎて、殆どあわててゐるやうな思ひがするのだ。天平、白鳳を背負つてゐる彼の姿はまためづらしくもうつとうしいのだ。それ故に過剰な氾濫が不吉な思ひを強ひるのだつた。

 文中、「ナポレオン」は芳賀檀「ナポレオン・ボナパルテ」(コギト昭和10.6~11.7連載)、「保田といふ人の小説」は、保田與重郎「等身」(コギト昭和10.6)の由。なお「コギト」昭和10年6月号は第37号、8月号は第39号。

 次に、昭和10年8月6日神保光太郎宛(第130書簡)では、

先日送つていただいた六月號たいへんたのしくよみました。あれからあと室生先生のところで八月號をお借りしました。保田さんの文章はあんまりたくさんのことが書いてあるので、よくのみこめないところもありましたが、面白うございました。

と書いて、立原が神保光太郎を介してはじめて「コギト」6月号に接して興を魅かれ、のち室生犀星に8月号を借り出して読んだことがわかります。保田さんの文章は「有羞の詩」(8月号)で、ここにのべられている保田にたいする感情はやはり好意というべきなのでしょう。
 「コギト」所載の詩については、同じ神保光太郎宛書簡で、

詩では「部落」と「追憶」がすきでした。ほかの詩はどうしてあんなにむずかしいのでございませう。僕にはつきりとのみこめないのでした。

と記します。「部落」は神保光太郎の作品(6月号)、「追憶」は津村信夫の作品(8月号)。「ほかの詩」について、8月号所載の詩は、田中克己「笛吹き」、伊東静雄「漂泊」、蔵原伸二郎「東洋の満月―五篇」、小高根二郎「われ雲際にのみ寄せ歌ふ・禱歌」。6月号については手もとに資料がなくてよくわからないのですが、伊東の「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」がこの号に掲載されていたはずです。(8月7日津村信夫宛書簡にも、「ほかの詩はわからないのが多く、むづかしいので、わかりませんでした」との文言がある。)
 立原は伊東の詩については何も言っていません。おのずと「むずかしい」「わからない」詩に入ることになるのですが、これは、「言及しないという形での言及」です。

 次に「日本浪曼派」とのかかわりについて触れておきます。
 昭和12年1月12日、やはり神保光太郎宛(第353書簡)に、

けふ「浪曼派」をよみました。保田さんの本のことを書いてある文章、だれのもみなうつくしくて、快くおもひました。亀井氏の文章がとりわけすきでした。「浪曼派」の詩はつまりませんね。

 全集編註によると、雑誌「日本浪曼派」1月号は、書評特集、とあるだけで、詳細がわかりません。総目次で調べると、この号には伊東の詩はなく、散文「感想」が掲載されています。
 だいたい伊東は「コギト」に比して「日本浪曼派」にはあまり詩を投稿していません(計6篇、うち3篇は拾遺詩篇)。その中で『夏花』の「水中花」が突出しています。
 しかし伊東の「感想」は、昭和8年夏、保田との初めての出会いのことを記した、重要な文章で、その「魅かれ方」が、きわめて率直に述べられています。立原は伊東の名を出してはいませんが、必ずやこれを読んで、保田にたいしては云うまでもなく、伊東にたいしてもまた、あらためて気持ちを通わせるところがあったにちがいありません。

 つけ足し。
 伊東にはもうひとつ、同題の「感想」という文があります(「コギト」昭和13年11月)。そこに、

わたしの年少な一友人は田中君の詩を評して大へんこはいと言った。尤もなことだ。それは模倣を烈しく断はつてゐるから。

 私は直観的に、この「わたしの年少な一友人」を、立原と思い、それは田中克己の詩集への書評として書かれた立原の「詩集西康省」(「四季」昭和13年11月)のことを指していると思ったのでした(因みに「コギト」のこの号は、田中『詩集西康省』の刊行〈祝賀号〉)。しかし、ここでは田中の「拒絶」精神には触れるものの、直接に「こはい」という云い方はされていません。発表誌が両者とも昭和13年11月である点からしても、その先後/因果関係の推定には難が残ります。
 もしも伊東が立原のことを「わたしの年少な一友人」というふうに呼んだとすれば、それは伊東の立原にたいする親愛の気持をあらわす、ひとつの証言とすることができるのですが。

 * 小川和佑先生が『立原道造の世界』で〝「コギト」と立原道造〟について章を立てて詳しく論じておられます。ぜひご参照ください。
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山本 皓造さま

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 7月 8日(金)10時54分48秒
編集済
  ご旅行にいらしているのかと思っておりました。お大事になさってください。
紙の手書き原稿をスキャンして添付するという方法を試しておられるかたもおられました、別サイトですが。短時間パソコンの前に座るだけで済むとのことです。
お励ましありがとうございます、頑張ります!
 

ごぶさたしました

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月 7日(木)12時38分55秒
   パソコンの前に坐ってキイボードを長時間叩くという作業を行うことができなくなって、「休業」していました。掲示板を見ることはできますので、楽しみに見ていました。

Morgenさん。
 先月のはじめ、私が「生々洞」のことを書いて投稿したのにふれて「数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが」と書かれているのを読んで、「そういえば」と、その心当たりを探そうとしたのですが、ところが今の掲示板の形式で、数年前まで遡って「語句検索」するのは、かなり煩わしいことになります。そこで思ったのは、「索引があればよい」ということでした。私は掲示板開設以来すべての投稿をWordの形になおして保存していましたので、Wordで使える「索引作成機能」によって、ともかく2003年(開設の年です)の分を、試しに作ってみました。結論は、「これは大変だ!」というものでした。
 他方、Morgenさんの回想に該当する投稿を探しつつ、遡って行って、今のところ、
   2011.6.13「ゆうすげのむこうに」、「訂正 水戸部アサイ」さん
がそれか、と思いました。2010.5.31の投稿にもアサイさんの名前が出て来ます。
 全投稿についての語句索引がもし出来れば、大きな財産になりそうですが、夢ですね。

青木由弥子さん。
 伊東静雄研究会会報で、力作「伊東静雄論」を拝見しています。刺激的で新鮮な問題提起があって楽しみにしています。ひとつひとつの論点をたっぷりと展開していただくことを希望します。

 書き溜めてあった草稿がいくつかありますので、整理して追い追い投稿します。
 

図書館祭り

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月 4日(月)15時30分41秒
  7月3日、恒例の諫早図書館祭りが、多数の団体が参加して賑やかに開催されました。
伊東静雄研究会も参加しました。

上村代表から伊東静雄の業績が明らかにされ、会員が「曠野の歌」、「自然に、充分自然に」、
「なれとわれ」、「夕映」、「露骨な生活の間を」、「長い療養生活」を朗読しました。

その後、郷土の文人コーナーに移動し、明治時代に中央で活躍した野口寧斎の漢詩を紹介したり、「河」の同人であった上村肇と木下和郎の詩を朗読しました。

上村肇の詩   「蜜柑」「春の潮」「雁渡る」「塒」「螢」

木下和郎の詩    「斧の花」「草の雷」「谷の歌」「昭和19年 秋」「六地蔵さん」「蟹の歌」

司書さんが、野呂邦暢の自筆原稿や市川森一が名誉館長時代に使用した部屋を説明して下さいました。
 

防人歌

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 7月 3日(日)17時45分34秒
編集済
  Morgen さま

お読みいただきありがとうございます。誤読その他もろもろあるかもしれません、お気づきの点があればお知らせください。

前川佐美雄さんのことを、前登志夫さんが『山河慟哭』の中で記しておられました。読み直してみようと思います。

防人歌と言えば・・・昭和17~18年頃は、防人歌関連書が6冊も出ている、とのことです。それ以前は2冊くらいしか出ていないのだとか。出版目録に当たっていないので、確定情報ではないですが・・・国民の気分というか心情が、防人歌のこころを求めていたのでしょう。
義父様は、先駆けてその心を詠われた・・・ということになりますね。感性の鋭敏な方だったのでしょうか。
便乗本もあるなかで、吉野裕の『防人歌の基礎研究』は、当時の万葉集本の中でも高水準だったそうです。とりいそぎ。
阿部猛『太平洋戦争と歴史学』より。
 

ある「支那事変歌集」-『戒馬』のこと

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月 1日(金)23時26分30秒
   滝田様の「ご報告」および上村様からお送り頂いた「例会レジュメ」興味深く拝読いたしました。
有り難うございました。

 青木様の「伊東静雄ノート(3)」に触発されて、わが身内(義父)のある「支那事変歌集」-『戒馬』について書いてみました。

 昭和14年7月、大阪心斎橋筋の丸善と同じ並びの少し南に寄ったドンパルの2階で、日本歌人の大阪歌会があった。そこへ、黒い越後上布の上に絽の黒羽織を着、絽か仙台平か忘れたけれど袴まで付けて、黒い夏足袋もちゃんとはいて、伊東静雄が出席して歌の批評をした。この黒づくめの装束に対して、頭の新しいパナマ帽と足もとの草履の白が印象的であった。…(昭和28年7月号『祖国』に掲載された前川佐美雄「伊東静雄を憶ふ」から。富士『伊東静雄研究』に再録)

 昭和12年、支那事変勃発後応召を受けて2年余の間北支で従軍していたわが義父は、病気のため内地送還され、昭和15年1月以降、同じ心斎橋筋の「日本歌人社」の歌会(月例会)に参加しています。従軍中から暇をみては作歌を続け、「毎日歌壇」に投稿した歌が、川田順先生の選によって新聞に載ったのがきっかけで、「日本歌人社」の同人になり、前川佐美雄先生に師事したのだそうです。「美しい髭をたくはへ、羽織袴を着けてゐて慇懃なる挨拶を述べた。」とあります。伊東静雄から半年遅れて、同じ場所で、しかもどちらも羽織袴を着けてというところが面白いですね。

 義父の支那事変歌集『戒馬』は、(一部しかご紹介できませんが)まるで「防人うた」のように兵士の日常が詠われています。前川先生には9ページに及ぶ序文を書いていただいていますが、「実際に戦火の中をくぐって来た人により、戦場に於ける人間の愛情が悲しきまでに美しく歌われている」戦争の記録であり、表現である・・・という褒め言葉をいただいています。
『戒馬』は、大東亜戦争の開始とともに、再び応召を受け、取り急ぎ前川先生に選をお願いして出版されたもののようです。



 
 

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