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一部修正しました。

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月29日(月)10時13分36秒
編集済
   お早うございます。大阪は久しぶりに雨が降っており、傘をさしての通勤となりました。

 先日の投稿(自宅で書いた)で、「慰問袋」に詩集や歌集を容れて戦地へ送ったと言う趣旨のことを書きましたが、会社に来て調べたら、これは私の勘違いでした。「慰問袋」は、誰の慰問袋が、どの兵隊さんに行くのかは判らないようにしたもの(送り主の住所、氏名などは書いてある)だそうで、中にはちり紙や手拭い、石鹸、シャツや腹巻き、缶詰、赤チンなどの薬品、写真や自分で描いた絵、近所の神社でもらってきたお守り札などが容れられていたそうです。(庄野氏の『前途』にも、「慰問袋」作りの模様が書かれていました。)

 従って、詩集や歌集を容れて戦地へ送ったのは、「慰問袋」ではなくて慰問のための郵便・小包だったろうと思います。(とりあえず修正しておきます。)
 当時の伊東静雄にとっては、「詩的な美しさ」よりも戦場で日夜苦闘している教え子や友人たちの悲哀に対する思いやりの情が優先していたにちがいありません。『春のいそぎ』において、せめて戦地への慰問文に添えて送る「梅花一枝」として、「詩集」または一篇の詩を送りたい(「梅花一枝」となって戦地へ赴きたいとも読める。)という気持が強かったことが分かります。
自らは弾丸の飛んでこないところに身をおいて、青年たちの戦意高揚を煽動するような所謂「時局便乗」詩でないことは、『春のいそぎ』やその頃に作られた静雄詩を読めば、詩の内容そのものが自ずから証明しています。(少しクドクなってしまいました。)
 ・・・・・
 われら皆共にわらえば
 わが友の眉羞ぢらひて
 うたひ出るふる歌ひとつ
 「ますらをの
 屍草むす荒野らに
 咲きこそ匂へ
 やまとなでしこ」
 ・・・・・
 (『まほろば』昭和19年3月号 拾遺詩篇「うたげ」から。)


 
 

「慰問」に添える 梅花一枝たらん

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月27日(土)23時04分19秒
編集済
  こんばんは。
「『天性』に関連する(小川氏や小高根氏の)記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。」という山本様のご指摘に、私も同感です。
 因みに、同時代のことを庄野潤三氏が、『前途』や「私の履歴書」(『野菜讃歌』に収録)の中で細かく描写されていたのを思い出して、再読してみました。

 大谷正雄氏や庄野氏の書かれたものを読むと、昭和15年~18年という戦雲急になりゆく中で、「学徒出陣」「応召」という宿命のもとにある青年たちがつくる個人詩誌に対して、伊東静雄は力を込めて応援し、丁寧に指導していることが読み取れます。

 庄野氏も「僕たちの雑誌が、いま、北や南に遠征している多くの友達への慰問文として送れるような雑誌になったらよい。」(『前途』83頁)と書いておられます。
(『春のいそぎ』の「那智」は、庄野氏が準備していた雑誌『望前』に掲載され、初出となる予定であったが、『望前』の発行は中止され、原稿は伊東静雄に返却された。『前途』156頁
桜岡孝次氏の詩集『東望』については『詩人その生涯と運命』638~9頁に記載があります。)

 そんな当時の情勢から推測すると、詩集『春のいそぎ』も、「梅花一枝」として、出陣中の教え子たちや友人への慰問の便りと一緒に送られたのだろうと思います。「せめては梅花一枝でありたいねがひは、蓋し今日我が國すべての詩人の祈念ではなからうか。」(『春のいそぎ』自序から)

  義父の歌集『戒馬』も戦友たちへ送られ、(私が保管している)義父への郵便物の中にも、歌集を送られたことに対する礼状が、中支からの「軍事郵便」で来ています。

 我が家では、家族総出で沢山の芋飴(長崎弁では「はっちゃんのんき」という)を作り、戦地への慰問袋に入れて送ったそうです。戦後、帰還された父の戦友さんから、それがとてもありがたかったという話を聞きました。
 

大谷正雄氏の仕事

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 8月26日(金)21時27分50秒
   『萩原朔太郎 晩年の光芒 ―大谷正雄詩的自伝―』をようやく読み終わりました。愚痴は言うまいと心に決めるのですが、読書のスピードが衰えたのには、ほんとうに情けなくなります。

 萩原朔太郎の、誰も知らない、大谷氏でなければ書き得ない、濃密な、人間くさい交情は、たいへん楽しく読ませてくれました。
 大谷氏の言葉は、鋭く、しかし温かく、気持ちよく読めます。「海戦想望」について、「……それは伊東さんの肯定精神からである。伊東さんという人は時代に便乗しない人であった。ただ肯定した人なのである」という見方、朔太郎と静雄を並べて「むき出しの神経で世間に対処していた朔太郎とはだかの神経の伊東静雄には共通点があったのだろう」という見方、これらは、即座に受け入れるのではなしに、一度じっくりと考えてみることを迫り、その果てに、もし肯定できるなら、深い認識を得ることができるだろう、と感じさせます。昭和17年8月、「妻子をつれて十年振りに帰郷、彼らに始めて私の故郷を見せ」た、その詩「なれとわれ」を、私は今までなんだかのんきな気持ちで読んでいましたが、この「十年」の、長さと重さを、大谷氏の文章から突きつけられるようにして感じ取って、胸を衝かれました。
 改めて、小川和佑『論考』や小高根『生涯運命』をパラパラとめくってみたのですが、大谷氏や『天性』に関連するき記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。他の伊東評伝も捜してみましょう。
 本書に収められた「天性誌の中の伊東静雄」と「伊東静雄書簡集」は大変有益でした。ただしいくらかの疑問を生じました。ごく簡略に言うと、「伊東静雄書簡集」の「凡例」にある「一~十の十通は大谷正雄により本書収録の「天性誌の中の伊東静雄」の中に引用されているものであり、十一~十六は本書において始めて公表されるものである」という記述と(「天性誌の中の伊東静雄」は昭和56年「火山地帯」連載)、人文書院刊『伊東静雄全集』(昭和36年2月刊)および『増補改訂』『定本』にはすでに16通の大谷正雄/つゆ子宛書簡が収録されていることとが、合わない。

 本書について、別の話題です。伊東は『天性』第8号に「羨望」という詩を載せています。小高根『生涯運命』によると、この剣道二段の受験生は「三好隆」氏であると、伊東が庄野潤三に教えた由。この三好氏は住中15期卒業で、「「羨望」の思い出」という回想文を『果樹園』第102号に載せています。いい文章ですので、貼りつけます。テキストにしようと思ったのですが、しんどいので、画像で間に合わせました。読みにくくてすみません。
 

山本 皓造さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 8月15日(月)17時20分42秒
  立秋を過ぎて、朝方、夕方の風には秋の風情が伴うようになりました。
昨日は実家に父の墓参に行き、今日はなんとなく一日まったり過ごしておりましたが…

平成元年の「月報」に関しては存じませず・・・ご教示ありがとうございました。
「七月二日・初?」の初出は「コギト」で、「天性」にも掲載されたもの、とばかり思っておりました・・・大谷正雄さんの御著書295ページに(私も取り寄せてしまいました!)〈「初?」と云う詩を「コギト」に発表しているようだが、それは何うでもいい〉とあって・・・その書き方がいかにもあの時代に生きた人の感じだなあ、と思いながら読んでおります。288ページの発禁のくだりも、当時のVTRを見ているようで「おおお!」と思いました。
8月20日発行予定の詩誌『千年樹』に『春のいそぎ』初出一覧表、なんていうものを作って載せた原稿を送付したばかりでして・・・「コギト」を確認して、初出が「天性」ならば、訂正しないといけないですね。もう間に合わないでしょうから、次号の原稿送付までに調べておきます。
〇号、という数字と〇月、が合っている時とずれている時が多々あって、メモや一覧表などを見ていると混乱してしまいます。読んでいる時には何げなく過ぎてしまうことも、書くとなると一つ一つが小石のようにつまずく原因になったりする・・・気をつけないといけないなあ、と思います。
「てんとうふ」は「点灯夫」の意味のようですね。ガス灯の時代、最先端の職業だったのかもしれないなあ、などなど・・・。明りが少しずつ灯って、道が明るんでいくのが楽しいです。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

訂正など

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 8月15日(月)15時15分54秒
  7月24日に「雑談」の表題で投稿した記事中に誤りがありました。
表紙・目次の図版を貼りつけた『呂』を「第2号」と書いたのは誤りで、「第一一号」に訂正します(昭和八年六月号、第二巻六月号)。

「夏の終」の初出については、『定本伊東静雄全集』第七刷付録月報(平成元年四月三十日)の中の「追加訂正」の項で、
  「一九六頁下段一七行 不明、太平洋戦争勃発前 → 『公論』昭和一五年十月号」
と訂正されています。Morgenさんのご指摘によるWEB上の記事は私には初見でした。青木様がご自身の眼でしてくださったことで、この件は完璧になりました。ありがとうございました。

青木様、Morgen様が言及された『萩原朔太郎 晩年の光芒――大谷正雄詩的自伝―』は、おもしろそうなので私もアマゾンから取り寄せました。Morgenさんのように「流し読み」できないので、パラパラとめくって、枕元に積んであります。
著者が本書のp.242で述べているように、『非情派』→『天性』のこと、および林富士馬さんのことは、たしかに伊東の「人に知られもせずに行動、行為した部分」のひとつで、この点で本書は大きな意義を有すると思います。

伊東の詩集『春のいそぎ』に載った作品「七月二日・初蝉」と「庭の蝉」は、全集初版では初出誌“「コギト」昭和十六年七月号”とあったのを、前述第七刷月報で、“→ 不明”と訂正されていました。しかるに大谷正雄氏前掲書のp.294に『天性』昭和十六年八月号に伊東の「七月二日・初蝉」を掲載した旨、記述されており、またp.375の『天性』総目次にも記載されているので、この作品の初出もこれで確定しましたね。
 

Morgenさま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 8月 4日(木)15時08分6秒
  情報ありがとうございます・・・
てっきり、うんと古い本だとばかり思い、調べる事すらしませんでした・・・。
まだ新しい本なのですね。
てんとうふ社のホームページからは注文できず、Eメールでやり直しました。
茶色のインヴァネス・・・オシャレですね。高等遊民のような・・・。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月 2日(火)13時36分18秒
編集済
  「ルナ・パーク」

終電車で別れた
萩原朔太郎が
玄関に立っている
早朝である

濃い茶色の帽子をかぶり
インヴァネスを着ている
昨夜と
全く 同じ服装である

―昨夜は愉快でね
 ルナ・パークでねたよ
 安眠と言うのがわかった
 さわやかだよ
酒の香りが残っている

―目をさましたら
 墓場だった
 おまわりが来ないので
 ゆっくり 眠れたよ
満足な顔をしている
<大谷正雄著「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―てんとうふ社>から

アマゾンで注文していた同書が昨日配達されていたので、一気に流し読みしました。
昭和12年~同17年頃の、東京、軽井沢、白河、茅ヶ崎を舞台にした、人々の様子が描かれています。等身大の萩原朔太郎や伊東静雄が登場し、ナマの話をしてくれます。

 内容的には、伊東静雄に関わる『天性』誌や書簡のボリュームが全体の約3分の一を占めています。(是非ご一読を!)

 例の「公論」(「夏の終り」初出)の件については、p264に次のような簡単な記載があります。
―昭和十五年の「公論」十月号に「夏の終り」と言う「完成された」詩を発表している。

取りあえず流し読みしましたので、もう一回、今度は熟読してみるつもりです。
 

青木由弥子 様

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月28日(木)09時39分59秒
  サギソウの写真へのご感想、有り難うございます。

青木様が、伊東静雄研究会の会報に寄せて下さる、力のこもった文章を拝読するたびに、会員全員でため息をついております。

青木様のブログをお気に入りに追加しました。
これからは、時々お邪魔します。
 

龍田豊秋さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時41分55秒
  サギソウのお写真、素敵ですね。叔父が草物盆栽に凝っていて、溶岩の鉢にミズゴケで植えこんでいましたが、いつも数輪(数羽?)しか咲きませんでした。群れ飛ぶ様は壮観です。拙いものですが、ブログを(たまに)更新しているので、URLを張っておきます。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

山本 皓造さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時35分43秒
  貴重な資料を添付して下さり、ありがとうございました。

「夏の終」の出典情報は、上村紀元さまに教えていただきました。
萩原朔太郎 晩年の光芒ー大谷正雄詩的自伝― 大谷正雄著 P264 に、『公論』の15年10月号とあるそうです。まだ、『公論』そのものの確認は出来ていない、とのことでしたので、国会図書館に出向いた次第です。

父が高校の歴史教員で、夏休みになると国会図書館などに通っていたのですが、その時分は、資料が出てくるまでにかなり手間取ったようです。その話を聞いていたので、なんとなく気が重かったのですが・・・全部デジタル化されていて、あっという間に資料が出てきました。マイクロフィッシュの資料は、かなり手作業の部分があって、読みにくいのですが、『公論』などは画面上でパラパラ本をめくるみたいに簡単に読むことができます。
その時代の雰囲気を知るためにも、前後を広く読む必要があると思いました。
『呂』、ずいぶんたくさんの同人が参加していたのですね。なんとなく、二人誌のようなイメージを抱いていました。ありがとうございました。

短歌、これもまた大きな連山のようなテーマですが・・・富士正晴によれば、静雄が花子さんと出会ったのも歌会の席だったようです。たぶん、その時一目ぼれして(雰囲気や相貌、才知などにほれこんだのでしょう)つてを頼って見合いに持ち込み・・・その途中で父親の死と借金の問題が浮上し・・・その困難を共に引き受ける形で花子さんはお嫁に来て下さったらしい。酒井百合子さんに、この結婚が上手くいくかどうか、と悩み相談のような手紙を出しているくらいですから、一時的には百合子さんに熱をあげていたとしても、この時には花子さんに夢中だったのだろう、と思います。「歌」のつなぐ縁、ということでしょうか。(脱線しました)
 

Morgenさま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月27日(水)14時20分13秒
  一緒に頭をひねってくださる方がいると、大変心強いです。保田與重郎の斡旋の可能性もありますね。保田は、日本浪漫派を、マルクス主義に続く文学運動と考えていたようです。今からみると、まるで真反対のようにも思えますが、西欧資本主義の欠点や問題点を、いかに克服するか、という点では、マルクス主義も、日本浪漫派(が影響を与えた、ということになっているファシズム的思想も)同じ・・・。皇国史観の立役者、平泉澄も、マルクス主義者の羽仁五郎も共にベネデット・クローチェの歴史学から影響を受けたらしい、ですし・・・平泉は『我が歴史観』の中で、明治以来の(西欧的な)研究法は分析であり、分析は解体であり、解体は死である。真を求めるには綜合であり、総合は生である、それは科学ではなくむしろ芸術である・・・などなど述べているのですが、これって、ノヴァーリスの、科学は自然を切り刻んで殺してしまった、芸術は死んだ自然を総合し再び再生させる、という思考法と、そっくりではないか、という気がして、なんとも複雑な気分になります。

ロマン主義の、原初への遡行、分析よりも総合、歴史的命脈の尊重、変化するものより普遍的なものの重視、現象より本質・・・といった理念が、ファシズムに転用されないためにはどうすればよいのか、という部分で、いつも立ちどまってしまいます。
 

『夏の終』//私の推理(?)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月26日(火)22時54分44秒
編集済
   7月15日付け青木様のご投稿にありました雑誌『公論』について少し調べてみました。(青木様にお書き頂くべきところですが、これまでに分かったデータと私の推理を“前座”で書いてみます。本格的な論究をお待ちしております。)

 <『公論』は、昭和14年、上村哲也、勝也兄弟によって設立された「第一公論社」の発行になる雑誌である。編集を担当した勝也は、改造社を経て先進社社長となったという人脈から、当初は幅広く小説やエッセー、詩歌なども同誌に掲載したが、戦争の進行とともにそれらは排除されて戦時色の強い雑誌となっていった。>(WEB上に掲載されている『古本夜話』から)

 国立国会図書館デジタルコレクションによると、『公論』1940年(昭和15年)10月号に「夏の終り」(詩)伊東静雄P244~245が掲載されています。

 また、『公論』について、『ユリイカ』(昭和50年10月号) 特集“日本浪漫派とは何か”P120で、橋川文三氏が対話の中で次のような要旨で述べておられます。

 彼ら(橋川氏より若い世代の人たち)が読んでいたのはもう浪漫派ではなくて『公論』ですね。極右の上村哲也・勝也兄弟が編集していた『公論』、われわれはもう読まなかったですね。しかし僕らよりちょっと若い世代は浪漫派よりもっとラジカルな『公論』に惹かれている。(因みに『日本浪曼派』は昭和13年に終刊)
<保田與重郎氏は昭和18年に第一公論社から『文明一新論』という本を出版しています。>

 <<以下は私の拙い推理ですが、>>―伊東静雄は、保田氏に(?)強く求められて(?)、昭和15年夏の終り頃に創って、手元に置いてあった詩稿「夏の終」を、昭和15年当時は創刊されて間がなく、まだ極右政治誌色が濃厚ではなかった『公論』に(心ならずも)提供した。
 そのために、同誌の他の論調とは異質であり、即物詩・散文詩風のクールな詩になっており、心の中の「ある壮大なものが徐かに傾いている」という、放心状態・虚脱感の漂う平明な詩になっています。その結果、「夏の終り」(詩)だけが何となく浮いた感じで、場違いな『公論』に掲載されることとなった。
 ―(そしてその事実は『伊東静雄全集』の年譜には記載されなかったのではないか?)...こんな推理をしてみましたが、それを裏付けるような証拠や証言が果たして見つかるのか? 今となっては自信はありませんが...
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月26日(火)09時29分23秒
  Morgen様、私の写真を使って下さり有り難うございます。
中々、満足出来る写真は撮れません。

7月23日午後2時から,諫早図書館に於いて第103回例会を開催した。
出席者は、6名。

今回は、『沫雪』『笑む稚児よ』『早春』の3篇を読み解いた。

会報は第97号。
内容は次のとおり。

1 伊東先生のこと                 明石 長谷雄

                                       詩集『冬タンポポ』あとがき より
    伊東静雄に私淑して、伊東静雄に詩集を献呈した。


2 詩 「渚にて」                                  山本 まこと
            2014年夏の記憶、佐世保
                                       「あるるかん」31号

3 詩 「おさなご」                                大木 実


4  詩 「おうどん」                                山田 かん


5 野口寧斎と佐佐木信綱との通交        伊東静雄研究会 上村 紀元


6 野口寧斎と正岡子規                          上村 紀元


7 野口寧斎と伊東静雄                                  上村 紀元

                                                                  以上

次回例会は、8月27日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

暑中お見舞い申し上げます

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月25日(月)14時07分53秒
編集済
  龍田様

 多良岳の「オオキツネノカミソリ」の画像をご掲示いただきありがとうございました。さっそく、デスクトップの背景に使わせていただいています。

 色は違いますが「夕萓(ゆうすげ)」などの一種かと思っていましたが、本当はヒガンバナ科ヒガンバナ属の花なのですね。

 10代の頃に、毎年植林をした多良岳山麓の杉や檜が、もう60年物の立派な材木になっているはずで、機会があれば昔の植林地(校有林や村有林など)を訪れてみたいものです。

 大阪は「天神祭り」で賑っていますが、日本全国いよいよ本格的な盛夏到来。
 皆様どうぞお体を大切に猛暑を乗り切ってください。
 

花便り

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月25日(月)09時46分18秒
  暑い日が続いています。皆様お変わりありませんか。

昨日、多良岳に登りました。
金泉寺山小屋の気温は、摂氏23度でした。

オオキツネノカミソリが丁度見頃でした。

わが家の庭では、サギソウが涼しげに咲いています。
 

画像忘れました

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時50分35秒
  ここに貼り付けます。
 

雑談

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時46分12秒
   国会図書館へは、私はただ一度だけ、行ったことがあります。請求した図書が出て来るのをベンチに座って待つ、いらいらとした不安な時間、複写をとる手続きのわずらわしさ、そんなことを漠然と憶えているだけで、そもそも何をしに行ったのか、何を閲覧したのか、そんなことはきれいさっぱり忘れてしまっています。でも、東京に住んでいる人は、さまざまな資料へのアクセスに関して圧倒的なアドヴァンティジをもっているわけで、その点うらやましく感じたものでした。

 オリジナル、たとえば初出誌や初版本等を見るのは、目的の詩の一篇だけではなくその周辺の風景も見られるので、有益でもあり、また歓びでもあります。以前にも書きましたがが、私は伊東静雄や青木敬麿らが創めた雑誌「呂」が見たくて、それがどこにもなくて、その時に教えてくれる人があって、志賀英夫さんという、詩誌『柵』を主宰している大阪在住の詩人で『戦前の詩誌・半世紀の年譜』という本も出しておられる方のことを知って、お願いして、蒐められた3点の「呂」のコピーを送っていただいたことがあります。
 伊東の詩「病院の患者の歌」ほかの載った第2号のページと、この号の目次の図版を貼りつけます。おそらく掲示板の皆様も、ここに名を連ねた同人の方々を、ほとんどご存じないかと思います。
 伊東の「呂」→「コギト」への移行、接近は、もちろん伊東の詩精神の内的な転位に求めるべきでしょうが、私は伊東の保田との出会いという外的な出来事が案外大きいと思うのです。
 なお「呂」の同号の巻末に「同人語」という欄があり、ここに(伊東)と署名のある文章があります。この(伊東)が「伊東静雄」ならば、これは全集未収録資料ということになるのではないでしょうか。

 伊東と短歌について。従来、全集だけによる限りでは、伊東の作歌作品数はごく限られていて、ほとんど、「短歌から詩への移行」とか、「歌の別れ」などを論ずる必要もないかのように、軽く見られていたような感がありました。しかしその後、田中先生の『伊東静雄青春書簡 詩人への序奏』における大塚宛書簡、『伊東静雄日記 詩へのかどで』、および酒井姉妹宛書簡等、新資料が出て、そこに収められた短歌作品を拾うと、相当な数に上りますし、作歌と作詩とが重なっている時期も明らかにあって、歌の別れ→作詩へ、という単純な行程と見ることはできないように思えるのです。私は短歌の読解力、鑑賞力というものがまったく欠けていて、力及ばないのですが、伊東静雄の短歌というテーマは、誰かがとりくむだけの価値のあるボリュームをすでに備えていると思うのです。
 

「また立原伊東」追補

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月24日(日)20時45分6秒
   前稿を書いたとき、小川先生が『立原道造の世界』で次のように述べておられることが、気になっていました。

……しかし、この原歌と現代訳の関係は塚本邦雄の「空ぞわすれぬ」(「南北」第六号[ママ])の説のごとく、これは本歌と本歌取りの関連において論ぜられるものではないという山田俊幸の指摘(注、前記「風信」第六号)は正しい。立原はこの原歌を彼の詩語で見事に四行詩に翻訳して見せた。結果的に見て、訳詩はそのまま立原の十四行詩の世界をさながらに映し出している。(p.164)

 引かれている塚本邦雄、山田俊幸両氏の論考は、次のものを指すと思われます。

  塚本邦雄「空ぞわすれぬ――現代における詩歌の意味」(「南北」第一巻第十二号、昭和四一・一二)
  山田俊幸「立原道造――全集未収録訳詩二篇」(「風信」第六号、昭和四六・三)

 このやりとりは、塚本氏が立原の現代語訳を本歌と本歌取りの関係において論評し、山田氏がこれにたいして否定的な見解を示した、という成り行きのようです。しかし私には今のところ、この2論考にアクセスする手立てがありません。そのかわり、ともいえないのですが、次の2篇を見つけました。

  塚本邦雄「飛鳥井の鮎 本歌取りについて」(「新装版現代詩読本立原道造」思潮社、1983.6)
  山田俊幸「ゆめみこたちの群像(一)~(八)」(「果樹園」第一五四号~一六一号、昭和四三・一二~四四・七)

 塚本氏の論は標題どおり、本歌取りという観点から立原の例の2篇の現代語訳についての批評を行っているもので、その批評は「本歌取りとしてすぐれた作品になっているか」「本歌取りの作法に随っているか」という観点から見て、相当に辛口です。(塚本氏は後半では「鮎の歌」を取り上げてこれを絶賛?しています。)
 山田氏のものは、主として松永茂雄の青年時代に焦点を置き、立原から見た茂雄による呪縛とそこからの解放を描きます。同人誌「ゆめみこ」や新古今の現代語訳については触れるところがありません。(なお「果樹園」は、小高根さんの、あの「果樹園」です)

 妙な言い方ですが、塚本邦雄氏というのは、私などから見れば、短歌の専門家であり、「玄人」です。そういう高みからバッサリ斬られると、竦んでしまいます。長くなるので、引用はしませんが、いちどお読みください。
?
 

『夏の終』/「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月19日(火)23時27分36秒
編集済
   近畿地方には「梅雨明け宣言」が出されて、やっと真夏らしい太陽が頭上に耀いています。気持ちの良い暑さですが、さすがに日中のロードバイクは中断しています。

 “前川 佐美雄と前 登志夫との関係”という、青木様のご設問に誘引されて、前 登志夫『山河慟哭』、同『森の時間』の2冊を読みました。
私も、多良岳山麓のどちらかといえば山育ちで、実父は青年時代には木挽き職人をしていたそうで、応召により満州へ行き、敗戦後数年間のシベリア抑留中は材木伐採をやらされていたそうです。、帰国後は地元農協の製材所で村有林の製材や、伐採予定の植林地の石高見積りなど、一生を材木を相手の仕事をしてきました。私はそんな環境で育ちましたので、少年時代には、多良岳・山犬台の伐採「飯場」に泊まったり、毎年、数回は植林の下刈り・間伐の手伝いに行き、中学時代には「一人前の職人」と煽てられて手伝いをしました。(大学時代にも大阪茨木の美山地方で薙刀をもって植林の下刈りの手伝いをしたことがあります。)
 そんな関係で、前 登志夫さんの『山河慟哭』『森の時間』を読んでいると、遥か60年数前に経験した杉や檜の皮剥ぎの匂いが懐かしく蘇ってくるような錯覚におそわれます。

「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く、人間のいとほしさをしみじみと感ずるのです。」という昭和15年6月中旬 池田勉宛伊東静雄書簡があります。 父や義父の20歳後半の生き方は、まさに「各自の苦しみを我慢して公の仕事をして行く人間のいとほしさ」そのものであったように思われます。(合掌礼拝!)

 先日の青木様のご投稿で『夏の終』のことに触れられていましたが、そういえば 『夏の終』がいつ書かれたのか? 「徐かに傾いている」「ある壮大なもの」とは何か?という詮索を、やったことがあったことを思い出しました。
(その際、永藤武著『伊東静雄論・中原中也論』―おうふう2002年刊―が私には参考になりましたが、同書は昭和16年夏説です。)

 従来まで、「夏の終」の初出について、『伊東静雄全集』年譜では「不明」とされていましたが、今後は“昭和15年夏”と改められなければなりませんね。第3詩集『春のいそぎ』が、おおむね年代の新しい詩を前に、古い詩を後ろに置いている配列とも一致します。<後ろから3番目が「蛍」、4番目が「夏の終」>。
*田中俊廣『痛き夢の行方』では、昭和15・10「夏の終」とされています。(同書177頁)
 

夏の終(『春のいそぎ』の方)

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 7月15日(金)22時24分0秒
編集済
  山本 皓造さま

立原の、独り言のような、覚書のような”静雄評”、たくさんのヒントを含んでいるような印象があります。詩人の直観、というような。直接、影響関係を指摘するようなことは出来ないかもしれませんが・・・そういう、論理を越えた部分で。

お元気そうでよかったです。山本様のご投稿を拝見し…「日本浪漫派」に静雄は”4篇”の詩を寄稿した、と早とちりで思い込んでいたので・・・「あ~!!!」と思って慌てて確認しました・・・4篇、ではなくて、4回、でした・・・。ありがとうございました。

「コギト」には毎回のように詩を出して、しかも同人費も払っているのに、”同人”にはならなかった、とのこと。「呂」の青木敬麿に遠慮したのでは、という説を読みましたが、本当にそれだけなのか、どうか。「日本浪漫派」の方は”同人”になっているのに、こちらには詩をあまり出していない・・・「水中花」は、いかにも浪漫派的な名作ですが・・・。

微妙な距離の取り方が気になります。参加同人との個人的な関係、掲載された他の作品との関係など、色々な要因がからんでいそうです。宿題、です・・・。

今日は、国会図書館に「夏の終」の初出を確認しに行ってきました。棟方志功の挿絵がついていました!ちょっと暗くて見づらいのですが、コピーを添付します。

昭和15年の『公論』、第二次近衛内閣の南進政策を強力に擁護するような論陣が張られていて、全体に戦時色が強く、太平洋戦争に既に入っている時期の雑誌かと勘違いするほどでした。大英帝国の衰退、ヨーロッパにおいてはドイツが覇権を握り、太平洋においては日本が覇者となる。この地域を経済的に支配下に置こうとするアメリカの”野望”を阻止し、亜細亜の植民地化を防ぎ、日本が盟主となる・・・という大東亜共栄圏のイメージが、既に知識人たちの間には浸透しつつあったのだ(メディアの力を借りて)ということが伝わって来るような内容でした。
 

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