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野呂文学を読む会

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年10月17日(月)11時25分51秒
  おはようございます。
今日は、蒸し暑い陽気です。
こちらでは、ようやくキンモクセイが開花しました。
先日からヒヨドリの群れが賑やかで、モズの高鳴きは遠慮がちの様です。

10月15日、諫早図書館に於いて定例の「野呂文学を読む会」を開催しました。
たまたま、野呂文学研究家の浅尾節子さんが来諫されていて、諫早図書館で資料
調査の最中でしたので、会に参加して頂き、ディープなお話を聴かせて貰いました。

ラーキーでした。

膨大な資料をお持ちとのことで、リクエストがあれば送りますよ、と言って下さいました。

                                                                以上
 
 

バタバタしております

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年10月 8日(土)23時41分25秒
  こんばんは。
関わっている詩誌の締切やら、年鑑号のもろもろやらに追われて、なんとなく気忙しい秋です。読みたい本と読むべき本と、読まねばならない本が山積。
我が家も毎日新聞ですが東京版なので、記事情報ありがたかったです。のどかないい景色ですね。環境の変動と気象異常、鳥たちには受難の時代のようですが・・・『沈黙の春』が二度と訪れないように、人間が物質的欲望から精神的欲望へと気持ちを切り替えていくことを願いたいです。干拓の問題も、最終的には自然のかたちに戻ってほしいなぁ、と思います。
 

毎日新聞夕刊(10月7日)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年10月 8日(土)23時00分50秒
編集済
   毎日新聞夕刊(10月7日)の「夕刊ワイド」に、諫早の記事が出ています。

 長崎県諫早市(野呂邦暢「鳥たちの河口」)失われゆく自然への「挽歌」

 スキャンするには大きすぎますので、毎日新聞デジタル版のリンク先を下に載せておきます。そちらからご覧下さい。

http://mainichi.jp/articles/20161007/ddf/012/040/008000c

 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年10月 3日(月)09時55分38秒
  9月24日午後2時から,諫早図書館に於いて第105回例会を開催した。
出席者は、8名。

今回は、『早春』『金星』『そんなに凝視めるな』の3篇を読み解いた。

会報は第99号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート(4)                青木 由弥子


2 詩人上村肇の作品論   (三) 慈愛

    「蜜柑」「永別の春」「塒」を読み解く

                                 日本現代詩人会会員 松尾 静子


3 「羨望」の思い出                              三好  隆

     伊東静雄の詩「羨望」に出てくる年少の友人が、三好さんです。

                                 昭和39年8月 果樹園102号


4  西日本新聞 9月5日掲載 「教えてお宝」諫早の文人素描

    これから、明治以降の諫早の傑物15人が、上村紀元会長の文章により
  紹介されます。

                                                                以上

次回例会は、10月22日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

「きらクラ」

 投稿者:吉田伸太郎  投稿日:2016年 9月30日(金)21時53分59秒
  NHK FM で日曜午後2時から放送の「きらクラ」。クラシック初心者にも楽しめる番組です。この番組のコーナーの一つに「BGM選手権」というのがあって、詩や随筆・小説の一部にクラシック音楽のBGMを充てるというのがあって、今度の放送(10月2日)では、伊東静雄の「自然に、充分自然に」が取り上げられています。ご興味ある方は是非お聴き下さい。数年前にも同じコーナーで「夏の終わり」が取り上げられています。ひょっとしたらスタッフの中に伊東静雄ファンがいらっしゃるのかもしれませんね。私はこの番組の大ファンで、このFM放送を聞きたいばかりに、アンテナまで設置しました(^ ^)  翌日の月曜朝に再放送されます。

http://www4.nhk.or.jp/kira/

 

家島諸島巡り

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 9月23日(金)15時54分15秒
編集済
   こんにちは。上村さん。『伊東静雄研究会』のレジュメをお贈りいただきありがとうございました。

 一昨日(9月21日)、百合子さん宛伊東静雄の下記手紙に書かれている「家島」に行ってきました。某旅行会社の、チャーター船による「家島諸島巡りツアー」に申し込みをしていたのがやっと実施されたのです。(3度目の正直)

 「・・・私の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。あなたにもわからなかったら、もう私の詩もおしまひです。家島のことや姫路のことや本明川のことがどっさり歌ってあるはずです。・・・」(昭和10年11月2日 百合子宛封書)

 『詩人、その生涯と運命』(小高根二郎)によれば、百合子・静雄の共有する播磨灘や家島の記憶が「H島に寄す」~「漂泊-A・Tに-」を生み、伊東静雄は小高根氏のアパートで原稿用紙にこの詩をしたためて朗吟し、小高根氏は「1935年6月16日わが部屋にて歌ふなり。」とその末尾にメモしておいたそうです。(同書 281~289頁)

 家島諸島とは、姫路飾磨港から約30分(18キロ)程の洋上に浮かぶ44島をいい、一昨日はそのうち家島、坊勢島(ぼうぜじま)、男鹿島(たんがじま)、西島の4島を船で巡り、約40名の団体で島に上陸して散策しました。(最高齢92歳!超お元気!)
 家島の小高い山の上にある「家島神社」、坊勢島の漁師集落(兵庫県一番の漁獲高で、今なお人口上昇中という)などの島の佇まい(狭く入り組んだ路地)や歴史の話などが印象に残りました。前日に通過した台風16号のために、船は港内に係留されたまま漁はお休みで、坊勢島の魚屋さんも閉まっており、期待していた鮮魚の土産は買えませんでした。

 「H島に寄す」で「島人は櫂音高く 入海の奥の岩間に うち群れて清水汲む小舟すすめぬ」と歌われている岩間は何所の辺りか? ということが前から気になっていたのです。(随分昔に島の観光案内所に電話で訊ねてみましたが)真清水は枯れてしまったようだというお応えでした。 昔は、島には水源が少なく、とても貴重な真清水だったに違いありません。現在は姫路市営水道管が播磨灘海底に敷設されていて水問題は解決されて、岩間の真清水は、島人の記憶から薄れてしまったのかもしれません。

 「・・・ああ 黙想の後の歌はあらじ/われこの魍魅の白き穂波蹈み/新月におほ海の面渉ると/かの味気なき微笑の人を呼ばむ」(『日本浪曼派』昭和10年7月号)から、「H島に寄す」~「漂白-A・Tに-」の間(数日間)に詩人にどんな変化が起こったのか?
それは、「姫路から百合子さんが來版されたこと」によるのではと、小高根氏は推測されています。(納得!)因みに、ガイドさんの話によると、家島諸島には犬しか棲まない島と、猫しか棲まない島があるそうです。(44島のうち41島が無人島)

 「漂泊」

底深き海藻のなほ 日光に震ひ
その葉とくるごとく
おのづと目あき
見知られぬ入海にわれ浮くとさとりぬ
あゝ 幾歳を経たりけむ 水門の彼方
高まり 沈む波の揺籃
懼れと倨傲とぞ永く
その歌もてわれを眠らしめし(*)
われは見ず
この御空の青に堪へたる鳥を
魚族追ふ雲母岩の光……
め覚めたるわれを遶りて
躊躇ためらはぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
――いま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴く――
と告げたる


 「H島に寄す」

・・・・・・・(*)
島人は櫂音高く 入海の奥の岩間に
 うち群れて清水汲む小舟すゝめぬ
あゝ われらあまりに遠ければ
 またわれらをさまたぐるものはなし
木葉舞う柏の梢に いざ
 わがひとを招ぜばや
目に見えぬ野犬の群れの島にみち
 長吠きしやまぬ諸声を
いま誰かはひとつひとつにわかち得む
 

ごぶさたしてしまいました

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 9月19日(月)18時13分54秒
   いま、ふたつの仕事を背負い込んでいます。ひとつは、元教師仲間でやっている雑談会のようなところで、10月に、参集者に「折口信夫原作・川本喜八郎監督、人形劇アニメ『死者の書』」というDVDを見てもらって、私が話をする、という催し。もうひとつは、大学のゼミのOB会で今まで雑文集のような冊子を二、三年に一度出していたのを、電子媒体利用でやれないだろうか、ということになって、そのための「委員」の一人をやらされて、teacup の無料掲示板の経験を話したりしています。そんなことで、目下の読書は折口信夫の全集や関連文献が中心で、あとひと月続くことになります。

 探していた室生犀星『我が愛する詩人の伝記』がみつからないので、注文して取り寄せ、先日読了しました。この夏、富岡多恵子『室生犀星』を読みました。春に『釈迢空ノート』を再読し、初読時と同じように瞠目したのですが、『室生犀星』にも感銘を受けました。この人はすごい人です。(私と同い年です。)

 暑い最中に「PO」の同人、佐古祐二さんの『評論集 抒情の岸辺』を読んでいるとき、偶然というのでしょうか、佐古さんから近著『詩集 丈高いカンナの花よ』を贈っていただきました。中に、書評として「柴田三吉詩集『さかさの木』」という文があり、「戦争詩への熱意」と副題されています。引用された一篇「戦争」の書き出し、「防毒マスクをつけたまま/ひと、を産み終えたあなた」これをも「戦争詩」として、「戦意昂揚詩」や「反戦詩」と共に、統一的に考える視点が欲しいと思います。大谷正雄さんが伊東静雄の「海戦想望」について論じておられた部分が、良いと思いました。佐古さんの『赤いカンナ』の中では、「ある一つのシュールな暗喩――ファシズムの育て方について」という作品が異色と思いました。詩は認識だ、というのは今挙げたどなたかがどこかで云っておられたのですが……。

 とはいえ、佐古さんはまた、「病」や「性」に関する壮絶な情念(?)の歌い手でもあります。またたとえば、「食卓の赤い林檎」に出て来る未来、過去、悔恨、希望などの語句や、「蝋燭」という作品は伊東を想起させますし、「丈高いカンナ」の「記憶」は、立原の「追憶」と並べて何か云いたくなります。それらを含めて長い引用を、ここではできません。
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 9月 9日(金)11時14分29秒
  暑くて長かった夏もようやく終わりが見え、秋の気配がそこここに感じられるようになりました。

 「夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへすずしき風や吹くらむ」
                           『凡河内躬恒』

本日の長崎新聞に、第16回伊東静雄賞を受賞された彦坂まりさんの文章が掲載されています。
         タイトルは、『上村肇没後10年「海鳥忌」によせて』

8月27日午後2時から,諫早図書館に於いて第104回例会を開催した。
出席者は、7名。

今回は、『孔雀の悲しみ 動物園にて』『夏の嘆き』『疾駆』の3篇を読み解いた。

会報は第98号。
内容は次のとおり。

1 文学のおもしろさ                 桑原 武夫

                      『文学入門』第一章 「なぜ文学は人生に必要か」

2 縁                                         藤山 増昭

                2016年8月 詩誌『子午線』120号記念特集号より転載


3 詩 「菜の花忌によせる」                           原 子朗

                          昭和47年4月 『河』12号

4  戦争の伝承~心と言葉がつなぐ重み                   上村 紀元

    諫早の先人   前山 五竜   川柳
                    市川 青火   俳句
                    内田 冬至      俳句
                    草野  源一郎  短歌
                    山田 かん      詩   「片づける」
                    上村 肇        詩      「蝉の季節」
                    野呂 邦暢   作家    「失われた兵士たち」


5 はがき随筆 「別れ」                               龍田 豊秋

                              毎日新聞長崎県版 7月20日掲載

                                                                以上

次回例会は、9月24日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

「夏の終」較べ(改)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 9月 8日(木)11時52分17秒
編集済
  青木様。お忙しいところを瀬尾氏にお便りいただきありがとうございました。

瀬尾育生『戦争詩論1910-1945』からは、「戦争詩・国民詩・愛国詩の用語法」についてご教示を受けました。

それでは、昭和15年~昭和17年という3年間の<<夏の終>>は、どういう違いがあったのでしょうか。当時の出来事をまとめて見ます。

*昭和15年夏の出来事
ヨーロッパでは、前年9月から第二次世界大戦が勃発して、その戦火はますます拡大していた。日本では、これに便乗して(日独伊三国軍事同盟加盟)勢力拡大を図ろうとする陸軍や松岡洋右のような政治家と、日中戦争からの足抜きや日米関係改善を優先する海軍や政治家(米内)などが争っていた。
7月には、陸軍のごり押しで、米内内閣は総辞職し、アメリカが最も嫌う松岡洋右を外相とする第2時近衛内閣が成立した。
同月、「大東亜の新秩序」「南方への進出」などの内閣方針が決定され、議会政治が実質崩壊し、北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟成立などの日本の運命を揺るがす大事件が矢つぎ早に起こっている。

このような大波や大風をはらむ苛酷な時の流れは、庶民としては抗うことの不可能な、そのうねりに身を任せて生きていくことを余儀なくさせるもの(心はそうあるよりほかがなかった)であった。詩人は「疲れてゐるわけではなかった」が、詩人の目にはその虚脱感、放心状態から、「壮大なもの(世界)が徐かに傾いてゐる。」ように見えた。

*昭和16年夏の出来事
7月29日、日本軍、南部仏印に進駐。アメリカは、直ちに在米日本資産の凍結、石油全面禁輸措置を取る。(駐米野村日本大使への無線通信が全て米軍に解読されていたために迅速な措置が執られた。これにより対日経済封鎖網が完成された。ルーズベルトが出した助け舟にも日本側は対応できず、自ら設定した10月の期限を徒過し軍部は一直線に日米開戦準備へ進んだ。)…<戦時下での日本の石油備蓄量は1年半分…戦争の限界は18年夏まで!>
この「開戦なき戦時体制」を、日本のマスコミは、「ABCD包囲網」と名づけ、こぞって反米英キャンペーンを展開した。9月6日の御前会議で、(10月半ばまでに交渉不成立の場合は「米英線を辞せず」という)開戦の内意が決められて以降、軍部は具体的な開戦準備や部隊の移動を開始した。(それらの戦時体制の強化によって強烈な反米英敵愾心が国民の間に醸成されたことが、12月8日のの宣戦布告を“清々しく”感じさせたともいえる。)
天皇は、「軍部は、やけっぱちの戦争をしようというのか?」と、軍幹部に対する不満を側近の木戸に漏らされたそうで、“清々しい”などという感情は毛頭なかったに違いない。(『1941 決意なき開戦』堀田江理 2016/6 人文書院)

近衛内閣から東条内閣にバトンタッチされるとともに、世界的な日本封鎖網にまともな判断力を喪失した日本が、地球上から自分の国家が消えて無くなる程の重大な危険をも省みずに「やけっぱちの戦争」「勝算のないワンチャンスの賭け」「集団自殺の道」に踏み出したのが、昭和16年夏の重大事件であった。(松岡洋右、山本五十六は、何よりも賭けが大好きな人間であった。)

9月5日、天皇と杉山 元陸軍参謀総長との会話。(御前会議での拝謁上奏)
天皇「アメリカとの戦争となったならば、陸軍としては、どのくらいの期間で片付ける確信があるのか。」
杉山「南方方面だけは三ヶ月くらいで片づけるつもりであります。」
天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は一ヶ月くらいにて片づくと申したが、四ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか。」
杉山「支那は奥地が広いものですから。」
天皇「ナニ、支那の奥地が広いと言うなら太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信あって三ヶ月と申すか。」
杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。(『文芸春秋』平成19/4「昭和天皇戦時下の肉声」から)

*昭和17年夏の出来事
1942年6月7日、日本海軍による「窮余の一策」ミッドウェー環礁(北太平洋)攻撃は大失敗となり、日本海軍は主力空母4隻はじめ航空機や操縦士に大きな損害を受けた。
さらに、8月7日には、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島(南太平洋)に上陸し、米軍の大反攻が開始された。
 

Morgen さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 9月 6日(火)15時56分40秒
  秋の虫が盛んに鳴きだしたのに、まだまだ昼間は「真夏」です・・・。
先日、瀬尾さんにお便りを差し上げましたところ、大変申し訳ない間違いをしてしまった、できるだけ早い段階で修正してほしいとのことでした。瀬尾さんも、伊東静雄を尊重すべき詩人の一人、と考えておられるそうです。
「初蝉」の初出、『千年樹』の方では修正が間に合いませんでした。こちらは次号で・・・。伊東静雄研究会の会報の方は修正済みです。
なんだかバタバタしていまして・・・取り急ぎ、ご報告まで。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

「敗北の暗示」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 9月 4日(日)23時59分21秒
編集済
   瀬尾育生『戦争詩論』1910-1945が配達されましたので、早速ページをペラペラとめくってみました。
 同書p267~273、「補論3 敗北の暗示」という項目の中で、「戦時下のごく早い時期に、敗戦への予感を匿された主題として書かれた詩の例」として、伊東静雄「夏の終」があげられています。著者は、「夏の終」は1942年9月に書かれたという前提のもとにこのような解釈をされたのでしょうが、それが1941年8月だとしても同じ解釈が成り立つかどうかは、瀬尾氏に訊いてみる必要がありそうです。

 私はむしろ、秘められた「暗示」があるとすれば、1942年12月「述懐」の方ではないかという感じもします。(確たる根拠はありませんが…)

「大詔」から1年経ち、
・・・・・
戦ひの時の移りに
などてせむ一喜一憂
・・・・・
堪へよとや
乏しきに堪ふる戦は
夷らが童だに知る
・・・・・
と、草陰の名無し詩人が、子と妻に言ったという内容です。

 これだけを読むとどうということもないのですが、「大詔」の文章の単純明快さと較べてどこか口ごもっているような感じがあります。

 瀬尾氏は次のように書かれています。「1942年6月にはミッドウェー海戦の敗北があった。・・・やがて補給路を断たれて大半の兵士たちが闘わずして餓死・病死する。最終的には2万人近くの死者を出して、翌年2月に撤収することになった。1942年9月は、もっとも敏感な詩人たちにとって日本の敗戦がはじめてリアルな予感となってあらわれた<<夏の終>>であった。

 しかし、戦争詩を書いた当時の伊東静雄についてよく知っておられる吉田正勝氏の「伊東の戦争詩は、寧ろ彼の資質の純粋性の証しと考えている。」という意見に関する文章(富士正晴編『伊東静雄研究』355頁~)などを見ると、伊東静雄が言葉や文章にそんなことを表明するはずはなく、寧ろ「肩をおとしてボソボソと歩かれる緩慢な身のこなしなど、はた目にも見紛うべくもなかった。」と吉田正勝氏が書いておられるような、気落ちした態度に敗戦への予感が表れていたのではないでしょうか。

 

『うた日記』~『陣中の竪琴』~「戦争詩」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 9月 2日(金)00時06分19秒
編集済
   こんばんは。
 去年の秋~冬は、月に3~4日は東京出張をしていて、時間を作っては、森鷗外記念館や田端文士村を数回訪れて、資料を閲覧しました。

 弁当箱のような形をした森鷗外『うた日記』~佐藤春夫『陣中の竪琴』~伊東静雄「戦争詩」という流れを辿ってみようという秘かな思いもあったのですが、それ以降進んでいないことに気が付きました。(この掲示板に去年の10月に2回投稿していますが、本題にまでは迫ってはいません。10/6 同12)

 庄野潤三『前途』には、伊東静雄が『うた日記』の詩を朗詠する場面が書かれています。何回も『うた日記』を読みこなしていたんでしょうね。私も、それらをもう一回読んでみて、『うた日記』~『陣中の竪琴』~「戦争詩」という流れにチャレンジしてみるつもりです。(しかし良い知恵だ湧いてくるかどうか?)

 今は、古本屋で見つけた森まゆみ『彰義隊遺聞』と半藤一利『幕末史』を読み終わり、森まゆみ『千駄木の漱石』を読んでいます。立場が異なれば色々な見方があることに感銘しました。
 私も、色々な考えに触れて、老化に抗って脳みそを柔軟に保っていきたいものだと、ささやかに頑張ってみるつもりです。色々と新しい情報をお待ちしております。
 *アマゾンで、瀬尾 育生著『戦争詩論』2006/7/19を取り寄せ中で、明日の朝配達される予定です。
 

山本 皓造さま Morgenさま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 8月30日(火)17時05分1秒
編集済
  あっという間に夏が過ぎ、行きつ戻りつ、の異常台風も過ぎ・・・
蝉と虫の声とが重なりあって聞こえてきます。
落蝉に手を触れた途端、ゼンマイが急に弾けるように震え始めて、どきりとしたことがありました。
もう命のないもの、と思って触れた時の、発作的な生の痙攣、のような・・・あの時の感覚を詩に書きたいのですが、どうにもうまくいきません。

「三好隆」さんの文章、ありがとうございました。小川さんの『伊東静雄論考』に「伊東静雄と三島由紀夫」の1項があり、そこに三島(平岡)少年の最後の詩、「夜の蝉」が引用されているのですが・・・この詩が掲載された「学習院輔仁会雑誌」の昭和18年の169号は、冒頭に大伴家持の「丈夫は名をし立つべし後の代に聞きつぐ人も語りつぐがね」などを置き、「出陣学生諸子を送り在学生諸氏に告ぐ」という野村行一の文章から始まります。(野村氏は、たぶん当時は学習院高等科の教授だったと思います)紙の統制などで発行間隔が開いていた輔仁会雑誌は、この号で休刊となるのですが、三島はそのことも意識しつつ、これで最後、と思いながら、この詩を掲載したのだと思います。
蝉・・・静雄の「前生」という言葉が前から気になっているのですが・・・仏教の信仰篤かったという静雄の母の影響もあるのかもしれません。
蝉は、地中から蘇るように現れて、ひと夏を鳴ききり、またすぐに死んでいく。お盆の時期に盛んに鳴く、ということもありますし、再来した死者の声のような気がするもの、なのではなかろうか、という・・・。
『春のいそぎ』は、前半に「戦争詩」が収められていますが、私もまた、人々とともに歌うことが許された、というような、詩人としての控えめな悦び、詩人の務めを果たせる、という安堵のようなものを強く感じます。
後半に、家族との思い出や、子供への想いを置いたということ・・・出征する友人に、この『春のいそぎ』を贈ったりもした、ということ・・・私もまた、日本の皆と共に、君の無事を祈っているよ、という思いが前半であり、後半は、戦場にあっても、日本の風流や雅を愛する心を忘れないでくれ、家族への想いを忘れないでくれ、という願いが込められているように感じます。

戦勝してほしい、と望みはしても、その為に命を捨てよ、犠牲になってこい、雄々しく名を立てよ、と煽ることはなかった、家族のことを忘れるなよ、日本の(やさしい)心や情緒を忘れるなよ、と呼びかける詩集だったように思うのですが・・・それを、うまく、言えるかどうか・・・課題山積!です。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

一部修正しました。

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月29日(月)10時13分36秒
編集済
   お早うございます。大阪は久しぶりに雨が降っており、傘をさしての通勤となりました。

 先日の投稿(自宅で書いた)で、「慰問袋」に詩集や歌集を容れて戦地へ送ったと言う趣旨のことを書きましたが、会社に来て調べたら、これは私の勘違いでした。「慰問袋」は、誰の慰問袋が、どの兵隊さんに行くのかは判らないようにしたもの(送り主の住所、氏名などは書いてある)だそうで、中にはちり紙や手拭い、石鹸、シャツや腹巻き、缶詰、赤チンなどの薬品、写真や自分で描いた絵、近所の神社でもらってきたお守り札などが容れられていたそうです。(庄野氏の『前途』にも、「慰問袋」作りの模様が書かれていました。)

 従って、詩集や歌集を容れて戦地へ送ったのは、「慰問袋」ではなくて慰問のための郵便・小包だったろうと思います。(とりあえず修正しておきます。)
 当時の伊東静雄にとっては、「詩的な美しさ」よりも戦場で日夜苦闘している教え子や友人たちの悲哀に対する思いやりの情が優先していたにちがいありません。『春のいそぎ』において、せめて戦地への慰問文に添えて送る「梅花一枝」として、「詩集」または一篇の詩を送りたい(「梅花一枝」となって戦地へ赴きたいとも読める。)という気持が強かったことが分かります。
自らは弾丸の飛んでこないところに身をおいて、青年たちの戦意高揚を煽動するような所謂「時局便乗」詩でないことは、『春のいそぎ』やその頃に作られた静雄詩を読めば、詩の内容そのものが自ずから証明しています。(少しクドクなってしまいました。)
 ・・・・・
 われら皆共にわらえば
 わが友の眉羞ぢらひて
 うたひ出るふる歌ひとつ
 「ますらをの
 屍草むす荒野らに
 咲きこそ匂へ
 やまとなでしこ」
 ・・・・・
 (『まほろば』昭和19年3月号 拾遺詩篇「うたげ」から。)


 

「慰問」に添える 梅花一枝たらん

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月27日(土)23時04分19秒
編集済
  こんばんは。
「『天性』に関連する(小川氏や小高根氏の)記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。」という山本様のご指摘に、私も同感です。
 因みに、同時代のことを庄野潤三氏が、『前途』や「私の履歴書」(『野菜讃歌』に収録)の中で細かく描写されていたのを思い出して、再読してみました。

 大谷正雄氏や庄野氏の書かれたものを読むと、昭和15年~18年という戦雲急になりゆく中で、「学徒出陣」「応召」という宿命のもとにある青年たちがつくる個人詩誌に対して、伊東静雄は力を込めて応援し、丁寧に指導していることが読み取れます。

 庄野氏も「僕たちの雑誌が、いま、北や南に遠征している多くの友達への慰問文として送れるような雑誌になったらよい。」(『前途』83頁)と書いておられます。
(『春のいそぎ』の「那智」は、庄野氏が準備していた雑誌『望前』に掲載され、初出となる予定であったが、『望前』の発行は中止され、原稿は伊東静雄に返却された。『前途』156頁
桜岡孝次氏の詩集『東望』については『詩人その生涯と運命』638~9頁に記載があります。)

 そんな当時の情勢から推測すると、詩集『春のいそぎ』も、「梅花一枝」として、出陣中の教え子たちや友人への慰問の便りと一緒に送られたのだろうと思います。「せめては梅花一枝でありたいねがひは、蓋し今日我が國すべての詩人の祈念ではなからうか。」(『春のいそぎ』自序から)

  義父の歌集『戒馬』も戦友たちへ送られ、(私が保管している)義父への郵便物の中にも、歌集を送られたことに対する礼状が、中支からの「軍事郵便」で来ています。

 我が家では、家族総出で沢山の芋飴(長崎弁では「はっちゃんのんき」という)を作り、戦地への慰問袋に入れて送ったそうです。戦後、帰還された父の戦友さんから、それがとてもありがたかったという話を聞きました。
 

大谷正雄氏の仕事

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 8月26日(金)21時27分50秒
   『萩原朔太郎 晩年の光芒 ―大谷正雄詩的自伝―』をようやく読み終わりました。愚痴は言うまいと心に決めるのですが、読書のスピードが衰えたのには、ほんとうに情けなくなります。

 萩原朔太郎の、誰も知らない、大谷氏でなければ書き得ない、濃密な、人間くさい交情は、たいへん楽しく読ませてくれました。
 大谷氏の言葉は、鋭く、しかし温かく、気持ちよく読めます。「海戦想望」について、「……それは伊東さんの肯定精神からである。伊東さんという人は時代に便乗しない人であった。ただ肯定した人なのである」という見方、朔太郎と静雄を並べて「むき出しの神経で世間に対処していた朔太郎とはだかの神経の伊東静雄には共通点があったのだろう」という見方、これらは、即座に受け入れるのではなしに、一度じっくりと考えてみることを迫り、その果てに、もし肯定できるなら、深い認識を得ることができるだろう、と感じさせます。昭和17年8月、「妻子をつれて十年振りに帰郷、彼らに始めて私の故郷を見せ」た、その詩「なれとわれ」を、私は今までなんだかのんきな気持ちで読んでいましたが、この「十年」の、長さと重さを、大谷氏の文章から突きつけられるようにして感じ取って、胸を衝かれました。
 改めて、小川和佑『論考』や小高根『生涯運命』をパラパラとめくってみたのですが、大谷氏や『天性』に関連するき記述は、密度が薄く、表面的、ある場所では感情的に軽視、蔑視(言い過ぎ?)とさえ感じられます。他の伊東評伝も捜してみましょう。
 本書に収められた「天性誌の中の伊東静雄」と「伊東静雄書簡集」は大変有益でした。ただしいくらかの疑問を生じました。ごく簡略に言うと、「伊東静雄書簡集」の「凡例」にある「一~十の十通は大谷正雄により本書収録の「天性誌の中の伊東静雄」の中に引用されているものであり、十一~十六は本書において始めて公表されるものである」という記述と(「天性誌の中の伊東静雄」は昭和56年「火山地帯」連載)、人文書院刊『伊東静雄全集』(昭和36年2月刊)および『増補改訂』『定本』にはすでに16通の大谷正雄/つゆ子宛書簡が収録されていることとが、合わない。

 本書について、別の話題です。伊東は『天性』第8号に「羨望」という詩を載せています。小高根『生涯運命』によると、この剣道二段の受験生は「三好隆」氏であると、伊東が庄野潤三に教えた由。この三好氏は住中15期卒業で、「「羨望」の思い出」という回想文を『果樹園』第102号に載せています。いい文章ですので、貼りつけます。テキストにしようと思ったのですが、しんどいので、画像で間に合わせました。読みにくくてすみません。
 

山本 皓造さま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 8月15日(月)17時20分42秒
  立秋を過ぎて、朝方、夕方の風には秋の風情が伴うようになりました。
昨日は実家に父の墓参に行き、今日はなんとなく一日まったり過ごしておりましたが…

平成元年の「月報」に関しては存じませず・・・ご教示ありがとうございました。
「七月二日・初?」の初出は「コギト」で、「天性」にも掲載されたもの、とばかり思っておりました・・・大谷正雄さんの御著書295ページに(私も取り寄せてしまいました!)〈「初?」と云う詩を「コギト」に発表しているようだが、それは何うでもいい〉とあって・・・その書き方がいかにもあの時代に生きた人の感じだなあ、と思いながら読んでおります。288ページの発禁のくだりも、当時のVTRを見ているようで「おおお!」と思いました。
8月20日発行予定の詩誌『千年樹』に『春のいそぎ』初出一覧表、なんていうものを作って載せた原稿を送付したばかりでして・・・「コギト」を確認して、初出が「天性」ならば、訂正しないといけないですね。もう間に合わないでしょうから、次号の原稿送付までに調べておきます。
〇号、という数字と〇月、が合っている時とずれている時が多々あって、メモや一覧表などを見ていると混乱してしまいます。読んでいる時には何げなく過ぎてしまうことも、書くとなると一つ一つが小石のようにつまずく原因になったりする・・・気をつけないといけないなあ、と思います。
「てんとうふ」は「点灯夫」の意味のようですね。ガス灯の時代、最先端の職業だったのかもしれないなあ、などなど・・・。明りが少しずつ灯って、道が明るんでいくのが楽しいです。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

訂正など

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 8月15日(月)15時15分54秒
  7月24日に「雑談」の表題で投稿した記事中に誤りがありました。
表紙・目次の図版を貼りつけた『呂』を「第2号」と書いたのは誤りで、「第一一号」に訂正します(昭和八年六月号、第二巻六月号)。

「夏の終」の初出については、『定本伊東静雄全集』第七刷付録月報(平成元年四月三十日)の中の「追加訂正」の項で、
  「一九六頁下段一七行 不明、太平洋戦争勃発前 → 『公論』昭和一五年十月号」
と訂正されています。Morgenさんのご指摘によるWEB上の記事は私には初見でした。青木様がご自身の眼でしてくださったことで、この件は完璧になりました。ありがとうございました。

青木様、Morgen様が言及された『萩原朔太郎 晩年の光芒――大谷正雄詩的自伝―』は、おもしろそうなので私もアマゾンから取り寄せました。Morgenさんのように「流し読み」できないので、パラパラとめくって、枕元に積んであります。
著者が本書のp.242で述べているように、『非情派』→『天性』のこと、および林富士馬さんのことは、たしかに伊東の「人に知られもせずに行動、行為した部分」のひとつで、この点で本書は大きな意義を有すると思います。

伊東の詩集『春のいそぎ』に載った作品「七月二日・初蝉」と「庭の蝉」は、全集初版では初出誌“「コギト」昭和十六年七月号”とあったのを、前述第七刷月報で、“→ 不明”と訂正されていました。しかるに大谷正雄氏前掲書のp.294に『天性』昭和十六年八月号に伊東の「七月二日・初蝉」を掲載した旨、記述されており、またp.375の『天性』総目次にも記載されているので、この作品の初出もこれで確定しましたね。
 

Morgenさま

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 8月 4日(木)15時08分6秒
  情報ありがとうございます・・・
てっきり、うんと古い本だとばかり思い、調べる事すらしませんでした・・・。
まだ新しい本なのですね。
てんとうふ社のホームページからは注文できず、Eメールでやり直しました。
茶色のインヴァネス・・・オシャレですね。高等遊民のような・・・。

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「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 8月 2日(火)13時36分18秒
編集済
  「ルナ・パーク」

終電車で別れた
萩原朔太郎が
玄関に立っている
早朝である

濃い茶色の帽子をかぶり
インヴァネスを着ている
昨夜と
全く 同じ服装である

―昨夜は愉快でね
 ルナ・パークでねたよ
 安眠と言うのがわかった
 さわやかだよ
酒の香りが残っている

―目をさましたら
 墓場だった
 おまわりが来ないので
 ゆっくり 眠れたよ
満足な顔をしている
<大谷正雄著「萩原朔太郎 晩年の光芒」―大谷正雄詩的自伝―てんとうふ社>から

アマゾンで注文していた同書が昨日配達されていたので、一気に流し読みしました。
昭和12年~同17年頃の、東京、軽井沢、白河、茅ヶ崎を舞台にした、人々の様子が描かれています。等身大の萩原朔太郎や伊東静雄が登場し、ナマの話をしてくれます。

 内容的には、伊東静雄に関わる『天性』誌や書簡のボリュームが全体の約3分の一を占めています。(是非ご一読を!)

 例の「公論」(「夏の終り」初出)の件については、p264に次のような簡単な記載があります。
―昭和十五年の「公論」十月号に「夏の終り」と言う「完成された」詩を発表している。

取りあえず流し読みしましたので、もう一回、今度は熟読してみるつもりです。
 

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