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立原から伊東へ、無言の言及

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月 9日(土)13時19分13秒
   青木由弥子様。お見舞い、ありがとうございます。すこしづつ、動けるようになりました。

 立原道造全集の、分厚い書簡集を、ようやく読了しました(角川版6冊本全集第5巻)。その中から。

 昭和10年8月5日猪野謙二宛(第127書簡)で、立原はこう書いています。

先日、コギトの六月八月號を手にして読んだが、中に就て、ナポレオンは面白かつた。保田といふ人の小説は思考は純粋なのであつたが小説として濁つてゐた。あれは小説でないのであらう。僕が小説としてよんだのかもしれぬ。だが、一體保田といふ人の文章はいひたいことがありすぎて、殆どあわててゐるやうな思ひがするのだ。天平、白鳳を背負つてゐる彼の姿はまためづらしくもうつとうしいのだ。それ故に過剰な氾濫が不吉な思ひを強ひるのだつた。

 文中、「ナポレオン」は芳賀檀「ナポレオン・ボナパルテ」(コギト昭和10.6~11.7連載)、「保田といふ人の小説」は、保田與重郎「等身」(コギト昭和10.6)の由。なお「コギト」昭和10年6月号は第37号、8月号は第39号。

 次に、昭和10年8月6日神保光太郎宛(第130書簡)では、

先日送つていただいた六月號たいへんたのしくよみました。あれからあと室生先生のところで八月號をお借りしました。保田さんの文章はあんまりたくさんのことが書いてあるので、よくのみこめないところもありましたが、面白うございました。

と書いて、立原が神保光太郎を介してはじめて「コギト」6月号に接して興を魅かれ、のち室生犀星に8月号を借り出して読んだことがわかります。保田さんの文章は「有羞の詩」(8月号)で、ここにのべられている保田にたいする感情はやはり好意というべきなのでしょう。
 「コギト」所載の詩については、同じ神保光太郎宛書簡で、

詩では「部落」と「追憶」がすきでした。ほかの詩はどうしてあんなにむずかしいのでございませう。僕にはつきりとのみこめないのでした。

と記します。「部落」は神保光太郎の作品(6月号)、「追憶」は津村信夫の作品(8月号)。「ほかの詩」について、8月号所載の詩は、田中克己「笛吹き」、伊東静雄「漂泊」、蔵原伸二郎「東洋の満月―五篇」、小高根二郎「われ雲際にのみ寄せ歌ふ・禱歌」。6月号については手もとに資料がなくてよくわからないのですが、伊東の「行って、お前のその憂愁の深さのほどに」がこの号に掲載されていたはずです。(8月7日津村信夫宛書簡にも、「ほかの詩はわからないのが多く、むづかしいので、わかりませんでした」との文言がある。)
 立原は伊東の詩については何も言っていません。おのずと「むずかしい」「わからない」詩に入ることになるのですが、これは、「言及しないという形での言及」です。

 次に「日本浪曼派」とのかかわりについて触れておきます。
 昭和12年1月12日、やはり神保光太郎宛(第353書簡)に、

けふ「浪曼派」をよみました。保田さんの本のことを書いてある文章、だれのもみなうつくしくて、快くおもひました。亀井氏の文章がとりわけすきでした。「浪曼派」の詩はつまりませんね。

 全集編註によると、雑誌「日本浪曼派」1月号は、書評特集、とあるだけで、詳細がわかりません。総目次で調べると、この号には伊東の詩はなく、散文「感想」が掲載されています。
 だいたい伊東は「コギト」に比して「日本浪曼派」にはあまり詩を投稿していません(計6篇、うち3篇は拾遺詩篇)。その中で『夏花』の「水中花」が突出しています。
 しかし伊東の「感想」は、昭和8年夏、保田との初めての出会いのことを記した、重要な文章で、その「魅かれ方」が、きわめて率直に述べられています。立原は伊東の名を出してはいませんが、必ずやこれを読んで、保田にたいしては云うまでもなく、伊東にたいしてもまた、あらためて気持ちを通わせるところがあったにちがいありません。

 つけ足し。
 伊東にはもうひとつ、同題の「感想」という文があります(「コギト」昭和13年11月)。そこに、

わたしの年少な一友人は田中君の詩を評して大へんこはいと言った。尤もなことだ。それは模倣を烈しく断はつてゐるから。

 私は直観的に、この「わたしの年少な一友人」を、立原と思い、それは田中克己の詩集への書評として書かれた立原の「詩集西康省」(「四季」昭和13年11月)のことを指していると思ったのでした(因みに「コギト」のこの号は、田中『詩集西康省』の刊行〈祝賀号〉)。しかし、ここでは田中の「拒絶」精神には触れるものの、直接に「こはい」という云い方はされていません。発表誌が両者とも昭和13年11月である点からしても、その先後/因果関係の推定には難が残ります。
 もしも伊東が立原のことを「わたしの年少な一友人」というふうに呼んだとすれば、それは伊東の立原にたいする親愛の気持をあらわす、ひとつの証言とすることができるのですが。

 * 小川和佑先生が『立原道造の世界』で〝「コギト」と立原道造〟について章を立てて詳しく論じておられます。ぜひご参照ください。
?
 
 

山本 皓造さま

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 7月 8日(金)10時54分48秒
編集済
  ご旅行にいらしているのかと思っておりました。お大事になさってください。
紙の手書き原稿をスキャンして添付するという方法を試しておられるかたもおられました、別サイトですが。短時間パソコンの前に座るだけで済むとのことです。
お励ましありがとうございます、頑張ります!
 

ごぶさたしました

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 7月 7日(木)12時38分55秒
   パソコンの前に坐ってキイボードを長時間叩くという作業を行うことができなくなって、「休業」していました。掲示板を見ることはできますので、楽しみに見ていました。

Morgenさん。
 先月のはじめ、私が「生々洞」のことを書いて投稿したのにふれて「数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが」と書かれているのを読んで、「そういえば」と、その心当たりを探そうとしたのですが、ところが今の掲示板の形式で、数年前まで遡って「語句検索」するのは、かなり煩わしいことになります。そこで思ったのは、「索引があればよい」ということでした。私は掲示板開設以来すべての投稿をWordの形になおして保存していましたので、Wordで使える「索引作成機能」によって、ともかく2003年(開設の年です)の分を、試しに作ってみました。結論は、「これは大変だ!」というものでした。
 他方、Morgenさんの回想に該当する投稿を探しつつ、遡って行って、今のところ、
   2011.6.13「ゆうすげのむこうに」、「訂正 水戸部アサイ」さん
がそれか、と思いました。2010.5.31の投稿にもアサイさんの名前が出て来ます。
 全投稿についての語句索引がもし出来れば、大きな財産になりそうですが、夢ですね。

青木由弥子さん。
 伊東静雄研究会会報で、力作「伊東静雄論」を拝見しています。刺激的で新鮮な問題提起があって楽しみにしています。ひとつひとつの論点をたっぷりと展開していただくことを希望します。

 書き溜めてあった草稿がいくつかありますので、整理して追い追い投稿します。
 

図書館祭り

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 7月 4日(月)15時30分41秒
  7月3日、恒例の諫早図書館祭りが、多数の団体が参加して賑やかに開催されました。
伊東静雄研究会も参加しました。

上村代表から伊東静雄の業績が明らかにされ、会員が「曠野の歌」、「自然に、充分自然に」、
「なれとわれ」、「夕映」、「露骨な生活の間を」、「長い療養生活」を朗読しました。

その後、郷土の文人コーナーに移動し、明治時代に中央で活躍した野口寧斎の漢詩を紹介したり、「河」の同人であった上村肇と木下和郎の詩を朗読しました。

上村肇の詩   「蜜柑」「春の潮」「雁渡る」「塒」「螢」

木下和郎の詩    「斧の花」「草の雷」「谷の歌」「昭和19年 秋」「六地蔵さん」「蟹の歌」

司書さんが、野呂邦暢の自筆原稿や市川森一が名誉館長時代に使用した部屋を説明して下さいました。
 

防人歌

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 7月 3日(日)17時45分34秒
編集済
  Morgen さま

お読みいただきありがとうございます。誤読その他もろもろあるかもしれません、お気づきの点があればお知らせください。

前川佐美雄さんのことを、前登志夫さんが『山河慟哭』の中で記しておられました。読み直してみようと思います。

防人歌と言えば・・・昭和17~18年頃は、防人歌関連書が6冊も出ている、とのことです。それ以前は2冊くらいしか出ていないのだとか。出版目録に当たっていないので、確定情報ではないですが・・・国民の気分というか心情が、防人歌のこころを求めていたのでしょう。
義父様は、先駆けてその心を詠われた・・・ということになりますね。感性の鋭敏な方だったのでしょうか。
便乗本もあるなかで、吉野裕の『防人歌の基礎研究』は、当時の万葉集本の中でも高水準だったそうです。とりいそぎ。
阿部猛『太平洋戦争と歴史学』より。
 

ある「支那事変歌集」-『戒馬』のこと

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 7月 1日(金)23時26分30秒
   滝田様の「ご報告」および上村様からお送り頂いた「例会レジュメ」興味深く拝読いたしました。
有り難うございました。

 青木様の「伊東静雄ノート(3)」に触発されて、わが身内(義父)のある「支那事変歌集」-『戒馬』について書いてみました。

 昭和14年7月、大阪心斎橋筋の丸善と同じ並びの少し南に寄ったドンパルの2階で、日本歌人の大阪歌会があった。そこへ、黒い越後上布の上に絽の黒羽織を着、絽か仙台平か忘れたけれど袴まで付けて、黒い夏足袋もちゃんとはいて、伊東静雄が出席して歌の批評をした。この黒づくめの装束に対して、頭の新しいパナマ帽と足もとの草履の白が印象的であった。…(昭和28年7月号『祖国』に掲載された前川佐美雄「伊東静雄を憶ふ」から。富士『伊東静雄研究』に再録)

 昭和12年、支那事変勃発後応召を受けて2年余の間北支で従軍していたわが義父は、病気のため内地送還され、昭和15年1月以降、同じ心斎橋筋の「日本歌人社」の歌会(月例会)に参加しています。従軍中から暇をみては作歌を続け、「毎日歌壇」に投稿した歌が、川田順先生の選によって新聞に載ったのがきっかけで、「日本歌人社」の同人になり、前川佐美雄先生に師事したのだそうです。「美しい髭をたくはへ、羽織袴を着けてゐて慇懃なる挨拶を述べた。」とあります。伊東静雄から半年遅れて、同じ場所で、しかもどちらも羽織袴を着けてというところが面白いですね。

 義父の支那事変歌集『戒馬』は、(一部しかご紹介できませんが)まるで「防人うた」のように兵士の日常が詠われています。前川先生には9ページに及ぶ序文を書いていただいていますが、「実際に戦火の中をくぐって来た人により、戦場に於ける人間の愛情が悲しきまでに美しく歌われている」戦争の記録であり、表現である・・・という褒め言葉をいただいています。
『戒馬』は、大東亜戦争の開始とともに、再び応召を受け、取り急ぎ前川先生に選をお願いして出版されたもののようです。



 
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 6月30日(木)09時51分29秒
  当方の今年の降雨量は、すでに例年の二倍に達したとのことです。
関東地方はダムの水位が下がって、まとまった雨が欲しいところですね。
わが家の周囲では、先日からクマゼミとヒグラシの鳴き声が聞こえています。
庭では、ネジバナとキキョウが咲き始めました。
サギソウの苗が順調に育っています。
7月末には、白い羽を広げた群れが見られることでしょう。

6月25日午後2時から,諫早図書館に於いて第102回例会を開催した。
出席者は、7名。

今回は、『燈台の光を見つつ』『野分に寄す』『若死』の3篇を読み解いた。

会報は第96号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄ノート (3)                                青木 由弥子

                                             「千年樹」66号より

2  詩人上村肇の作品論 (二)憤怒

    詩 「桃太郎悲歌」         詩集『みずうみ』みずうみ抄 収録

  詩  「盂蘭盆会」                  詩集『空手富士』<1> 収録

        「詩道」
                  日本現代詩人会会員 松尾 静子

3 はがき随筆 「ふるさとの詩人」                        龍田 豊秋

                        (2016年5月23日 毎日新聞長崎県版掲載)


4 詩 「今日の一品」        伊東静雄賞第一次選考委員    平野 宏

                                               (水盤)十六号


次回例会は、7月23日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

「なつばな」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月18日(土)23時58分14秒
編集済
  こんばんは
青木さま。有難うございました。小川和佑『論考』と講談社現代新書の2著確認しました。
ついでに、西垣 脩「朝顔」をスキャンして添付してみます。(富士正晴『伊東静雄研究』にも再録)
昨日の昼は、かまあげうどんを食べました。ではまた。
 

小川和祐→和佑さんです、失礼しました。

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 6月17日(金)23時58分13秒
  うまく修正できなかったので、新規投稿欄を使わせていただきました。  

「静雄の花」×小川和祐さん

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年 6月17日(金)23時34分8秒
  Morgen さんへ

『詩と思想詩人集』お買い上げいただいたとのこと、ありがとうございます!
うれしいような恥ずかしいような・・・不思議な感じです。一度活字になったものは、いろいろなところで、色々な方に手に取っていただける・・・ということを、妙に実感しました。
「かまあげうどん」は、もともとは二倍以上長くて(笑) なかなか帰ってこない息子をイライラしながら待ちながら、茹でたうどんをまた水に放して、またザルにあげて・・・なんていうことをやっているうちに、うどんって、なんだか「触手」に似ているなあ、と・・・以下省略。

小川和祐さんの『伊東静雄論考』叢文社 昭和58年 を読んでいて、7章「わが家はいよいよ小さく」の中に、159篇(!)の静雄の詩の中から、詩集、花の名と作品名を対応させた一覧表が載っていました・・・。小川さんによると、朝顔と桜がそれぞれ四回、あとは合歓、つはの花、菊、薔薇、野いばら、桃、卯の花・・・などなど。身近な花が多いですね。珍しい山野草とか、特別な園芸植物などは歌われていない。
「夏花」は、「堺東駅そばの彼の小さな借家の垣根に咲く瑠璃いろの朝顔の花にちなんでつけられた」・・・とありますが、そうなのかな・・・。そういえば、蕪村の朝顔の俳句に、朝顔や一輪深き淵のいろ というのがありました。これもきっと、深い藍色の花ですね。
小川さんの講談社現代新書の『伊東静雄』(1980)の再録部分に、花のリストはのっていました。とりいそぎ。
 

「かまあげうどん」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月16日(木)23時46分57秒
  昼食の後で、会社の近くの古本屋に立ち寄り3冊買ってきて、仕事の合間にペラペラとページをめくってみました。
  ・小田 久郎著『戦後詩壇私史』(新潮社 1995)、
  ・『詩と思想詩人集2014』(土曜美術社出版販売 2014)、
  ・植和田 光晴著『R.M.リルケ 言語的転向の軌跡』(朝日出版社 2001)

 『戦後詩壇私史』は、序章「口語の詩から日常語の詩へ?萩原朔太郎から谷川俊太郎へ」というタイトルに、興味が湧いたからです。(立原道造詩の戦後形は?)
 同書189ページには、井川博年さんの詩「靴の先」も載っています。日常語詩であり口語の詩でもありますが、著者の小田久郎さんは「現代詩の典型的な達成点をしっかりと押さえている。」と評しておられます。(1960年頃?『明日』のメンバー写真が載っています。)
  死ぬ直前
  ベッドの横で泣いている妻に
  夫は笑顔でこういったという
  なんとかなるさ
  人生はきっとなんとかなるものさ

  そしてほんとうに
  人生はなんとかなるものよ
  と笑顔で
  小さなバーのマダムはいった。
  丸い髙い椅子の上で飲んでいると
  酔いは早くまわるのか
  その時ぼくは急に
  確実な地面が欲しくなり
  足をのばし 靴の先で
  床をそっとさわってみたのだ。

『詩と思想詩人集2014』には、青木由弥子さんの「かまあげうどん」が載っています。
明日の昼御飯は「かまあげうどん」にしようかなあ!
 

立原道造は<<花の詩人>>か

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月14日(火)22時21分11秒
  梅雨時だというのに、利根川水系では早くも水不足の危機がささやかれています。(冬季の雪不足の影響とか…)

 先日は、山本様が『立原道造 詩の演技者』(小川和佑著 林道舎)を紹介され、早速読ませていただきました。番号は5で、「小川和佑」のご署名があります。

 立原道造の詩語・・・「書き言葉」(モダニズム)詩語~~~[日常語としての話し言葉」詩語へと変遷し、加えて14行詩という形を採用して、詩を読む者に「音楽性」を感じさせるという至難の業を成し遂げたところに、「詩の演技者」としての比類なさが表れている。
 同書の中心論点をこのように要約してみました。

 同書63頁以降に、「わずか16種の花の名しか詩集に出てこないのは、<<花の詩人>>というには少なすぎる。」「しかも、『優しき歌』には花の名すら出てこず<<花>>となっている。」

 伊東静雄の詩には「朝顔」「山茶花」「ドクダミ」しか出てこない。と書いておられます。(菊、野茨の花、立葵、辛夷など・・・他にも出てきますが?)

 皆様も、数えてみてください。“「夏花」とは何の花か?”という設問もありましたね。

 梅雨の晴れ間を利用して、丹後半島の奥伊根温泉という所に行ってまいりましたので、涼風に替えて写真を添付してみます。
 

水戸部アサイさんについて

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 6月 5日(日)00時12分30秒
編集済
  皆さま今晩は。
 諫早の「伊東静雄研究会」例会は、その発表テーマから拝察すると、今や本格的な文学サークルへと充実した内容になっていて、同慶至極の思いがします。
 文学門外漢の私は、一種の好奇心から、色々な本を読んでは「ああでもない、こうでもない」と自問自答を繰り返しているばかりですが、青木さまからは「多方面に豊かな感性をお持ちですね。」とお褒め頂き、面はゆい感じがします。

水戸部アサイさんについて、中村眞一郎編『立原道造研究』に収録されている同氏の「優しき歌」(昭和21年11月『午前』5号から再録)に言及がありますので、p39~41の一部を要約して抜粋してみます。

・・・・・今度の少女(A・M嬢 水戸部アサイさん)は、夢の対象ではなく、初めから生きている一人の女性だった。詩人は村暮らしの間じゅう、若い私に向かって、昼も夜も飽きることなく、その人について、その出会い、その無数の小事件、その無数の心理的絡り、その共にする生の将来への希望、を語り続け、机の上に拡げたまま置いてある長い紙に、毎日日課のようにして手紙を書き続けた。そんな日常の中から『優しき歌』は生まれつつあった。・・・・・もし詩人が、もう一度歌いだすとしたら、丁度『若きパルク』や『ドゥイノの悲歌』のように苦難に満ちた沈黙の後の、体験の底から掬まれた深いものでなければならなかったろう。・・・・・

 「盛岡への旅行中は、童話の他はトーマス・マンばかり読んでいた。」(明るい方向へ向かっている) しかしながら、同13年11月には「かはいさうな僕ら。なぜ愛しあひながら、しかも妨げるだれもゐないのに、離れようとねがったりしなくてはならないのだろう。」(道造)という方向に暗転し、迷走してしまっています。まさに「AIの暴走」を連想させもしますが、戦時かという異常な世相を抜きにしては説明できないことです。

 中村眞一郎氏が書いておられるヴァレリーの最高傑作『若きパルク』や、リルケの「心の時代」の成果である『ドゥイノの悲歌』の境地へ達するまでには、立原にその後どれほどの時間や体験が必要だったのか、想像もつきません。(参考のためやや蛇足の感がありますが、“観る”から“心”への移行を宣言するリルケの詩「転向」を添付します。)
(立原の文章にリルケの文章からの引用は多いが、立原の詩は実際にはリルケ「初期詩篇」のレベルでしかなかったとも言われています。『新詩集』『マルテの手記』の“観る”詩以前。)

 このように、立原道造は、将来への予感として『優しき歌』という詩の断片を遺し、詩友たちに『午前』という仮説的提言を遺しただけで死んでしまったということです。

 水戸部アサイさんは、長崎から帰った立原道造の入院病棟に介添婦として泊まりこみ、献身的な看病をしました。後年は、長崎の修道院で社会奉仕活動に生涯を捧げられたそうです。

 佐藤実様のご本や「生々洞」のことは、山本様の書かれている通りです。(数年前に本欄にチョッピリ投稿したように記憶していますが?)

上村さん、研究会のレジュメをお送り頂きまして有難うございました。
 

生々洞――立原の盛岡

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 6月 4日(土)15時51分34秒
編集済
   おもしろい本を読みました。

  A 佐藤実『立原道造 豊穣の美との際会』昭和48年、教育出版センター
  B  〃 『立原道造ノート』昭和54年、同上

 立原の「盛岡ノート」をめぐって、その前後の動静、盛岡の「立原道造文学遺跡」案内、滞盛中の日程の同定、人脈(加藤健、深沢紅子)など。著者はAを書き終えて、もうすべて書き尽くしたと思ったが、その後また書くことが出て来た、と云っています。
 私はこの2冊を読んで、これまで全集とその編註だけでは薄い一枚の靄で隔てられたように輪郭のぼんやりしていた「盛岡ノート」の中の日々や風景や人々が、はじめてくっきりとその色と形を見せてくれたという気がしました。
 小川和佑先生もこれらの著書を「必読」とされておられます。

 それにしても、立原道造という一人の若い詩人が、ただひと月滞在したという「事」があっただけで、若い著者を駆り立ててこれだけの仕事をさせ、のみならず今にいたるまで、たとえばウエブで「盛岡 立原道造」などと検索をかけるとおびただしいページが出て来るという、これはどういうことなのでしょうか。

 図版は、Bの表紙カバーで、「表紙装画 深澤紅子」とあります。これはどこでしょう。
 「生々洞」か、と思うのですが、Aで見られる生々洞の写真は、このカバー絵とはまったく違います。昔の生々洞は戦後になって建て直されたと、あるウエブサイトに書かれていました。今もその跡を探しに行く人が多いらしく、現在の写真が見られますが。詳細がわかりません(もうひとつの図版)。
 加藤健氏邸の写真が洋館で、よく似ているけれども、子細に見るとやはり違うようです。
 一縷の望みを託して、盛岡市立図書館のレファレンスに電話して調べてもらったのですが、私が上に記したのと同様の見解で、Bのカバーの表紙絵に該当する建物を同定することは結局できませんでした。何かゆかりのある建物に違いないのですが……。
 

掲示板というより・・・

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年 6月 2日(木)21時37分42秒
編集済
  掲示板というより、充実した連載マガジンのようです・・・

山本さま
「空の浴槽」不思議な作品ですよね。初めて読んだとき、魅力的かつ、斬新さに驚きました。プロメテウスの神話を連想したり・・・なぜ詩集に収めなかったのでしょうか・・・モダニズム系の作品の模倣のように感じられたから?・・・散文詩をなぜ静雄は書かないのか、とか・・・『わがひと~』は、行分け詩でもつなげて読むと散文のような作品と、凝縮度の高い、行分けでしか書き得ない作品と混在していますね・・・何となく『おくの細道』の、散文的な地の文と、結晶度の高い俳諧の部分を組み合わせた構成を連想します。

立原は、恋愛に高い理想を求めすぎていて(精神的な面を)アサイさんは、もっと素朴に、たとえば黙って抱きしめてくれるとか・・・そういうことを実は望んでいたのではないかとか・・・リルケは、あえて愛する人から離れて自らの憧憬や情熱を引き出そうとしたのかも知れず・・・立原もそのあたりに憧れがあったのかな、等々・・・そのあたりの微妙な行きちがいがあったのかな、と思うのですが、どうなのでしょう・・仕事をする女性の、彼女自身の時間というか人生を、立原が尊重した、なんてことがあり得るか?・・・都会で送る新婚生活のようなイメージに、アサイさんが憧れていたとしたら・・・文学を追求する恋人は、添い遂げるのはむずかしく感じられたかもしれません。(立原のことをよく知らないまま、書いております、とんでもない勘違いをしているかもしれません。)

Morgen さま
入手しにくい書物をご紹介くださってありがとうございます。多方面に豊かな感性をお持ちですね。これからも楽しみに拝読させていただきます。
シュールレアリスム的な・・・無意識を活用するようなやり方を、立原も試していたのですね。
夢や夢想の断片を繋いでいくような感覚もありますね。
マチネ・ポエティク の復刊本を読んだときは、福永武彦の作品が、一番好みでした。
なんだか雑感ばかりですが・・・
 

菖蒲忌

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 6月 2日(木)15時09分2秒
  5月29日、第36回菖蒲忌が開催されました。
梅雨の走りを思わせる小雨がそぼ降り、雨に洗われた諫早菖蒲の紫が鮮やかでした。

会場は、去年と同じくグランドパレスでした。

1 作品奉読 「諫早菖蒲日記」冒頭 花堂 洋子

2 野呂文学作品朗読

    「小さな町にて」 鎮西学院高校インターアクトクラブ

    「風鈴」          諫早高校 放送部

3 第16回諫早市中学生・高校生文芸コンクール最優秀作品朗読

    随筆「夏と人生」  中学の部  毎熊 翼

    随筆「僕のカメラ」  高校の部  道脇 佑

4  昼食を挟んで午後からは、講師・中野章子さんによる記念講演がありました。
    久しぶりの来諫で、多くの友人知己の皆様とお会いになられ、大層に楽しそうに
  お話になりました。
    有り難うございました。

    演題 「文学の故郷」
 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年 5月31日(火)15時01分18秒
  5月28日午後2時から,諫早図書館に於いて第101回例会を開催した。
出席者は、会員が5名。
ゲストが2名。前回と同じく、西村泰則さんと富永健司さん。

今回は、『水中花』『自然に、充分自然に』『夜の葦』の3篇を読み解いた。

会報は第95号。
内容は次のとおり。

1 伊東静雄研究会 創設10年記念例会(第100回例会)
   これまでの活動の一端を記録

2  平成27年度伊東静雄研究会事業報告

3 住吉高校同窓会室所属 伊東静雄資料

  (1) 伊東静雄 履歴書(昭和4年)

   (2) 『耕人』第7号(昭和6年2月発行)  住吉中学校文芸部の機関誌
        詩 「歌」              特別会員 伊東静雄

   (3) 『耕人』第8号(昭和6年10月発行)
     詩 「ののはな」                                伊東静雄

   (4) 『耕人』第9号(昭和7年2月発行)
         詩 「私の孤独を 一鉢の黄菊に譬えよう...」     伊東静雄

   (5) 『學藝』第1号(昭和7年11月発行) 『耕人』を誌名変更
         詩 「事物が 事物の素朴を失ふ日...」 特別会員 伊東静雄

   (6) 『學藝』第2号(昭和8年12月発行)
         詩 「少年N君に ──── 」          特別会員 伊東静雄

   (7) 住中新聞 第15号(昭和22年11月発行)
         詩 「二十五周年祝歌」
                                                         伊東静雄
   (8) 同窓会報 (昭和30年7月発行)
         伊東静雄先生の詩碑建つ


4 詩人上村肇の作品論 (一) 絶唱      日本現代詩人会会員 松尾静子
    詩集『みずうみ』所収の「みずうみ」について

                                        参考文献詩集『みずうみ』
                                        詩誌『河 上村肇追悼号』

5 詩 「佐藤春夫」の服 小詩集                           井川 博年
                               (現代詩手帳 現代日本詩集 2010)


6 詩 「また明日」                                       藤山 増昭

7 はがき随筆 「生きた証し」                               龍田 豊秋
                        (2016年3月20日 毎日新聞掲載)

8 本日の伊東静雄作品鑑賞

  <自然に、充分自然に>    詩人の死生観を表明した作品である。

    <水中花>    西村泰則さんが、文法面から詳細に解説を加えました。


次回例会は、6月25日午後2時から,諫早図書館に於いて開催。
 

「背のびしてさはりし枝の径なりし」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月31日(火)10時57分15秒
   Morgen 様。
 立原道造の詩の作り方の話、聞いてみれば、さもありなん、と思われますね。
 彼の詩集からランダムに14行ほど取り出して、うまくならべると、ちょっときのきいたソネットがつくれそうです。(そんな不遜なことはおそろしくてできませんが。)
 さて。
 昨日(月曜日)、投稿をすませたその後に、注文してあった、小川和佑『立原道造 詩の演技者』(昭和63、林道舎)が届きました。おや、林道舎?!
 ぱらぱら見ていると、表題の道造の句のことからはじまる終章で、やはり、立原のための中村らの歌仙と「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」の句が紹介されていました。偶然とはいえ、不思議な一致でした。
 この本は「初版限定五〇〇部」で、番号が入っていて、私のは「22」番となっています。本書は「『立原道造の世界』(昭和53、講談社文庫)以後の新稿と、同書未収録の小論を聚めたもの」で、「あえてこのような少部数の限定版にした」と断っておられます。小川先生は何冊、立原道造の本を書かれたのでしょうか。
 

「AIによる詩の制作」(?)

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年 5月30日(月)23時53分53秒
編集済
   山本様。立原道造に関するご投稿の真意は良く理解できました。
 私も、小川和佑『中村真一郎とその時代』を読みながら、ふと感じたことを書いてみます。

 今年の3月、Google系列のDeepmind社が開発した「アルファ碁」というロボットが、世界最強棋士イ・セドルを4勝一敗で破り、世界中を驚かせました。
 最近のAI(人工知能)の発達は著しくて、Deepthinkingという方法によって直観力や、創造力、さらには感情までも持つようになっているということです。また30年後には、ロボットの数が人間の数を越えるだろうとも言われています。
 ロボットは、人間と会話しながら言葉を学んでいきますが、人間そのものには全然興味がありません。従って、将来それが暴走しだすと人類の脅威となるだろうと危惧されています。
 このようなAIが、やがては人類が作った詩のすべてを学習し、人類が読んで感動し、面白いと感じるような詩を創作する時代やってきても不思議ではありません。

 立原道造が、油屋旅館の畳一面に詩句カードを並べ、カルタ取りをするのようにカードを並べ替えて『優しき歌』を制作したという話は、昭和10年代という過去に遡ることではありますが、、私は何となく、このような「AIによる詩の制作」を連想しました。
 「魔術的な詩の制作方法」に対する反発から、中村真一郎が立原と決別したのかどうかは不明ですが、私の身辺にいる技術者達の日常的な問題解決方法を観ていると、立原道造の詩作方法がそれ程奇異なものとも思えなくなります。

 小川和佑『中村真一郎とその時代』は、『恋の泉』『雲のゆき来』『四季』などの小説に関する論評が中心となっていますが、私は小説を読むのが苦手なので(すぐ飛ばし読みをしてしまいます)、そちらは直に同書をお読み下さい。
 

枕上読書断片(5)――愛のかたちについて

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年 5月30日(月)11時36分24秒
   前回投稿で、村上春樹『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』からの引用 B としたものを、ここに再掲します。

B:「ねえ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと。私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ」

 2013年12月21日に私は「対話」という題で投稿しました。そこで私は、立原の「盛岡紀行」に関連して、私にとってあらまほしかった立原の姿を書きました。私は逆上していて、暴言を連ねたのですが、若干の反省を含めて、今思っていることを記してみます。

 …………
 ・東北で見、感じ、考えたことをそのまま持って帰ること
 ・アサイへの愛を実体化し、現実に、行為すること
 ・別離、などしないこと
 ・病気でなければよかった
 ・野村は来なければよかった
 ・南への旅は来年まで待つこと
 ・エセー「風立ちぬ」は温めて一〇年後に書き直すこと
 ・芳賀檀なんかにイカレないこと
 ・死を、あと一年ではなく、堀のようにもっと長く、じっと見つめること

 立原よ、なぜあのとき、アサイさんに向かってすなおに手を伸ばさなかったのだ。手を伸ばして、そのすぐ指先に、それは見えていたのではないか(愛が、ではない。人が、女が、身体が)。なぜそれに触れ、掴んで、引き寄せなかったのだ。道造はアホや、なんでそんなときに、別離とか言い出すねン。(暴言! 掲示板除名か)
 …………

 立原は、水戸部アサイという恋人を「手に入れる」ことができた、と思います。
 アサイにたいして立原は、言葉や行動においても十分に積極的です。金田久子や關鮎子や今井春枝らの場合と比較して、「優しい歌Ⅱ」「物語」およびアサイ宛書簡などから読み取れる限りでは、その愛のかたちがはっきりと違います。
 私はふと思いついて、立原の詩篇のうち「おまへ」という語の用例を調べてみました。「優しき歌Ⅰ」までは、ときどき、気まぐれのように「おまへ」という語が呟かれて、すぐに消えてしまう。それが「優しき歌Ⅱ」になって突如、大量のほとんどすべての詩篇ごとに「おまへは」「おまへの」「おまへを」「おまへ」の呼びかけ。薄明の、夢幻の、追憶の、失意の少女への「おまへ」ではありません。黒い髪と白い顔と暖かい胸をもった、手を伸ばせば触れることもできる、現身の「おまへ」なのです。そのことが読み手に、ほとんど肉感的に、感じられないでしょうか。(詩作品のこういう読み方には当然批判があり、それについては後日、稿をあらためます。)

 しかし立原は他方で、「別離に耐へる」ということを言い出すのです。

 僕には、ひとつの魂が課せられてゐる。どこか無限の、とほくへ行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして それに耐へて。だが、その魂は決して愛する者を裏切ることには耐へない。別離が一層に大きな愛だといふこと、そして僕の漂泊の意味。おまへにも また、これに耐へよと 僕はいふ。僕たちの愛が、いま ひとつの 大きな別離であるゆゑに。…(中略)…
 しかし、おまへは 僕のここにいふ別離を決して僕たちのカタストロフィーなどとかんがへる愚かさをしてはならない。なぜならばただ別離がいまは大きな愛の形式、そして僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法であるゆゑに、そして それに耐へることで僕たちは高められ強くせられるゆゑに――。僕たちの愛をいまは嘗てよりも、未来よりも、いちばんに強く信じなければならない日なのだ。(昭和13年9月1日水戸部アサイ宛、小川和佑『立原道造 忘れがたみ』p.92)


 堀辰雄はこのような立原を、次のように述べています。

 私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しさうな繪端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂をしあひながら、結婚までしようと思ひつめてゐる可憐な愛人がせつかく出来たのに、その愛人をとほく東京に残して、さうやつて一人で旅をつづけけてゐるなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合つてゐた。――「戀しつつ、しかも戀人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことを既に決意してゐる、リルケイアンとしての彼の真面目をそこに私は好んで見ようとしてゐたのであった。(「木の十字架」)

 「優しき歌 Ⅱ」の「Ⅴ また落葉林で」ではこう歌います。

 そしていま おまへは 告げてよこす
 私らは別離に耐へることが出来る と


 しかし現実世界においてアサイはほんとうに「私らは別離に耐へることが出来る」と告げてよこしたのでしょうか。小川先生はアサイに「わからない、そんなこと」と答えさせておられます(前掲書 p.96)。
 私も「わからない」と答えたい。

 愛のあるべき形について、これが正しいとか、まちがっているとか、言えるとは思えないので、結局は個々人の感受の問題とするほかないのでしょう。「道造はアホや」と云ったのは暴言で、これは取り消しますが、私の感受ではどうしても、次に引く田中清光さんの意見に同意するほうに傾くのです。

 愛は、現実に結び行為として不断の明日への働きかけを生まぬ限り、静止した風景に過ぎなくなり、観念に堕してゆかずにはいない。(田中清光『立原道造の生涯と作品』p.201)

 盛岡紀行や長崎紀行を読んでいると、風景に対したとき立原は、ほんとうにしみじみとした、澄んだ、いい文章を書きます。その立原が、何かを思いはじめると、もう彼の姿を見てはいられなくなってしまいます。
 長崎に向った早々の11月25日に、立原は薬師寺の境内で、こんなことを書いています。

 ……どうしておまへから離れることが出来たのだらうか。昨夜まで僕は知らなかつたこの別離がどんなのもかを、今もまだわからない。おまへは僕とはとほくにゐる。あの僕の知つてゐるビルデイングにゐる。しかし僕はそれを信じられない。僕がとほくに来てゐることも信じられない。別離とはこんなことだつたのだらうか。しかし僕はさびしい。そしてすべてがむなしい。何かささへるものを失つたやうな気がする。(角川版6冊本全集第4巻 p.312)

 私はここに、ほんとうの立原の、ほんとうの面のひとつを、認めてやりたい気がします。そうでないとあんまりかわいそうです。

          ……………………………………………………

 加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』の最終章で取り上げられた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、もうひとつ、一番最後に「共同体の再生」という主題が提示され、多崎つくるはその可能性を確信するコミットメントを残すのですが、その言葉は、加藤によれば「この小説のなかに根づいていない。浮いている」と評価されるのです。共同体といえば直ちに、晩年の立原道造にとって、彼のつもりでは、生死をかけた大問題であったわけで、いつかはそちらへ論議は踏み込まなければいけないのでしょうが、立原の場合についての私の考えがまだ熟していませんし(「風立ちぬ」の読みこなしもまだできていない)、それに、多崎つくるにおいて「共同体の再生」とは具体的にどういう問題か、小説の背景を説明するだけでも煩雑なことになりそうです。ですので、今は、加藤典洋の問題提示の事実を記すだけにして、「枕上読書」の多崎つくるの章はここでいったん幕引きとします。
 Morgen さん、貴重なご教示ありがとうございました。
 小川先生のその著書は知りませんでしたが、おもしろそうですね。中村真一郎『立原道造論』とちょうど半分ずれて重なる関係にあるわけです。またいろいろ紹介してください。(でも正直私には、中村真一郎の小説がもうひとつよくわかりません。)
 

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