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妖精 ?!

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年12月28日(水)12時23分27秒
   野村喜和夫さんの『証言と抒情』が届いたので、さっそく読み始めました。しばらく読み進んだところで、

 クラリモンドとは誰だろう……クラリモンド……妖精! WAO!

「自転車に乗るクラリモンド」のはじめの部分が引用されて、「クラリモンドとは誰だろう」と自問のあと、1974年2月25日付佐藤紘彰宛石原書簡の一部が引かれます。

  クラリモンド(ドイツの怪奇作家 Hans Ewers の小説に出てくる妖精の名で Klarimond、小説の題名も同じ)[野村p.55]

 続いて野村さんは、細見さんもこの詩と、同じく佐藤書簡を取り上げ、ただし題名は「蜘蛛」という短編で、石原の勘違いではないか、と指摘されている旨が紹介されています。
 石原さん自ら、クラリモンドは妖精だ、と云っておられる。これは私の慧眼か、と自惚れてはいけないので、私の喜びはヌカ喜びというか、つまり、細見さんの本は私も読んで、だから当然当該個所も目にしているはずなのですが、ただ、私はそのことをすっかり忘れてしまっていた、というにすぎない。
 細見さんの本を開いて探すと、p.194以下に、該当する記述がありました。けれども「妖精」の個所には、私の手による傍線も書き込みもありません。それで、おそらく、私の目はこの語の上を何の注意もせずに滑って行って、意識的な記憶にはとどまらず、ただ無意識の領域にその痕跡を残して、次に前回の投稿を書いているとき、知らぬ間にそれが浮かんできた、のでしょう。こういうことを長々と書くのは見苦しいので、弁明はこれでやめます。
(でも、クラリモンドはほんとに妖精か?……)
 
 

野村喜和夫さんのこと――青木様へ

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年12月23日(金)15時38分49秒
   野村喜和夫さんのお名前は、『現代詩手帖』2015.11月号の座談会で知りました。(他に細見和之、佐々木幹郎の各氏が出席。)
 石原の詩「祈り」については、細見さんがその著書で指摘しておられる、「祈り」「悔い」「風」「午前」「きよらか」等の「語彙からしてもこの作品は立原的」、「なによりも作品のたたえている情緒がきわめて立原的」などの点はほぼ首肯できるのですが、それよりも、そこから数ヶ月での「夜の招待」への転位の速やかさ、佐々木氏の云う〈激変〉が、私にはむしろ鮮烈でした。どうも、石原作品の全体を通時的に〈抒情〉という語で括るには、私の感性にどこか障碍があるようなのです。(蛇足ですが、石原の詩には立原と違って「少女」が出て来ませんね。「クラリモンド」は、少女というよりは、あれは妖精ではないか。)
 野村さんは座談会で、ベンヤミンと云い、名づけと云い、「名づけとしての言語行為については、近刊のぼくの論を読んでいただきましょう」と云われる。そうか、と、『証言と抒情』を手に取るはずみがつきました。
 なお、『風立ちぬ』への立原の解説云々についての青木さんのご指摘と推測には、私も同意します。また、講演会での質疑応答の様子を細見さんにもお知らせなさった由、お返事がありましたら、せひご披露ください。
 

フォーラム

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年12月22日(木)11時13分2秒
  12月10日、伊東静雄生誕110年を記念して、「第11回 菜の花フォーラム」を開催しました。

師走のお忙しい中、多くの皆様が足を運んで下さいました。
奇しくも、この日は伊東静雄の誕生日であり、市川森一の忌日でもありました。

1 諫早男声合唱団の皆様が、力強くそして叙情溢れる歌声を披露して下さいました。

  歌曲:伊東静雄作詞の「燕」「小曲」

    永六輔作詩「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」ほか

2 講演:「詩との出会い~ことばの力」

    講師 二羽史裕氏(活水女子大学講師)

3 ビデオ上映:「わが故郷の詩~諫早~」

    企画 諫早市
  製作 株式会社イワプロ

   テレビアニメ「日本昔ばなし」でおなじみの常田富士男さんが、ナレーションを勤めておら
   れます。その若々しい声に聞き惚れました。

  今は見られなくなった、諫早湾の干潟を乱舞する野鳥の姿が懐かしい。
 判決で確定した排水門の開門調査をかたくなに拒む国は、100億円の基金を餌
  に一部の漁業者を釣り上げようとしています。
   どぶ溜にいくら札束を放り込んだとて、有明海の再生など出来る訳はないのに。

4 フリートーク:参加者の皆様のご意見交換
 

龍田さま

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年12月19日(月)18時04分50秒
  人の記憶の不思議さというものに関して、先日ご紹介頂いたお話も、大変興味深かったです。
人は・・・物語としてしか、記憶できない、あるいは思い出せない、のかもしれません。
黒田喜夫シンポジウムに行ったときも、葬儀の際の記憶が、参列者それぞれに違う、という驚きがありました。ある人はカンナが真っ赤に咲いていた、と言い、ある人は、カンナなどはなく、くちなしが強く匂っていた、といい・・・ある人は棺が重かった、といい、また別の人は驚くほど軽かった、という具合。
記憶のストーリー、その再生の不思議を思います。
 

山本さま

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年12月19日(月)17時55分50秒
  お元気そうでなによりです。

11月に新宿で野村喜和夫さんの講演を聞く機会がありました。その時のことを少し。

与えられた演題は立原道造と石原吉郎だが、二人の接点は細見さんが紹介しているエッセイに頼るしかない、と前置きした上で、石原帰国後1年後の、立原風の詩「祈り」などを紹介してくださいました。

祈りは ことのほか/やさしかつた/悔多い やわらかな/てのひらのなかで
祈ることは やはり/うれしかつた/てのひらのなかで 風が/あたたかにうごいた
祈りのなかで/午前がすぎそして/午後がかさなつた/時刻はさみしく しかし/きよらかにすぎた
夜がきて 星がかがやいた/私はその理由を考えなかつた/私は てのひらのなかで/夜あけまで起きていた

石原の抒情の形成に、堀辰雄や立原の世界との出会いは大きく影響しているようです。

ただ、事実としては、石原のエッセイは正確ではないようです。質疑応答の時、堀辰雄の詳細な書誌が出ているが、立原が解説を書いたことはないはずだ、という指摘がありました。
私自身が調べた訳ではないのですが、立原は早逝していますし、弟子すじの青年に解説を依頼することも考えにくい。
恐らく、石原吉郎の帰国後に堀辰雄の『風立ちぬ』との衝撃的な出会いがあり、その関連で立原の「風立ちぬ論」を何らかの形で読んだのでしょう、その記憶が、時が経つにつれて、エッセイに記されたような「物語」として記憶され直したもののようです。
(細見さんには、そのときの質疑応答の模様をお知らせしてあります。)

野村喜和夫さんのお父様もシベリア抑留体験があるとのことです。その事もきっかけとなり、『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』をご執筆することになったとのことでした。
 

石原吉郎と立原道造

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年12月19日(月)11時35分29秒
    ** Morgenさんのお父上がやはりシベリアからの帰還者であることを知って、どう申し上げてよいか、私には言葉がありませんでした。そのような経験をした親を持つ世代というのは、おそらく私たちが最後なのでしょうか。なにしろ、総理大臣がすでに「戦争を知らない」ひとなのですから。

   ---------------------------------------------------

 昨年か一昨年か、立原道造を読みはじめ、いくつかの評伝と、全集をほぼ読み終えたところで、一度中断し、それから入退院があって、最近まったくの偶然から石原吉郎を読むようになり、しばらくしてこの二人、立原と石原が突然結びついたので、驚きました。といっても、私にできるのは、いくつかの文章を部分的に孫引きすることだけですので、あらかじめお許しを願っておきます。

 石原吉郎に「私の詩歴」という文章があります。これは『断念の海から』所載のものを細見和之さんが『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』(中央公論社)に一部引用されているのを、ここに孫引。

一九五三年冬、舞鶴の引揚収容所で私は二冊の文庫本を手に入れた。その一冊が堀辰雄の『風立ちぬ』であった。これが私にとっての、日本語との「再会」であった。戦前の記憶のままで、私のなかに凍結して来た日本語との、まぶしいばかりの再会であった。「おれに日本語が残っていた……」息づまるような気持で私は、つぎつぎにページを繰った。その巻末に立原道造の解説があった。この解説が、詩への私自身ののめりこみを決定したといっていい。東京に着いた日に、私は文庫本の立原道造詩集を買い求め、その直後から詩を書き始めた。」

 ここで二冊の文庫本と云っているもう一冊は、ニーチェの『反時代的考察』だそうです。
 前引の文章は、

「そんななかで、私はすがりつくように詩を書きつづけた。どれもこれも立原道造ばりの感傷的なものばかりであったが、……」

と続いて行きます。
 同じ事実を落合東朗『石原吉郎のシベリア』(論創社)が紹介しています。同書によると、ナホトカを出た復員船興安丸は1953年12月1日舞鶴港に入港、援護局の寮に入る。2日、復員式。正式に軍籍を離脱。3日の夜、東舞鶴発の臨時列車で帰郷の途につく。5日午前品川着。弟宅に落ち着く前に銀座を歩く。この日、石原は[銀座で]文庫本の立原道造詩集を買い求め、その直後から詩を書きはじめます。
 落合氏は石原の「詩を書き出すまで」『現代詩体系12』月報、1976年2]月)から引用しています。内容は「私の詩歴」とほとんど同じです。

 細見さんは前引の本で、石原の「自編年譜」および「私の詩歴」に拠りつつ、その青年時代の文学/思想/信仰遍歴をかなりくわしく辿っていますが、「堀」「立原」との接触を思わせる記述はありません。鮎川信夫がある座談会で、

「あんがい彼は、立原道造とか堀辰雄とか、ああいうふうな文学が好きだとかさ、あるいは北條民雄の『いのちの初夜』だとか、そういう若い頃に影響を受けた文学の線から考えればいいんであって、だから、実際はすごく迷惑な話だったと思うの、収容所体験っていうのはね。」

と述べて、石原が青年時代、堀/立原に親しんでいた、ふうのことを示唆しているのですが、典拠が不明です。ここであえて愚見を述べるならば、もし石原と立原をつなぐものがあるとすれば、それは「四季派的抒情」のようなものではなくて、その「詩語」「詩法」においてであろう、と思うのです。たとえば、立原の〈風〉と石原の〈風〉。私はこの語の内包と用法を並べてみて、そんなふうに思いました。

 さて、石原→立原をつなぐもう一本の糸について。

「ある建築家から聞いた話ですが、立原道造という詩人は東大の建築学科の出身で、その卒業設計は、やがては廃墟となることを予想した建築物の設計であったということです。……その話を聞いたとき、瞬間的に私が思ったことは、何よりも建築家である前に、立原道造は詩人であった、ということでした。」(「断念と詩」、『石原吉郎セレクション』所収)

 「断念」は、石原のキイ・タームのひとつで、これをめぐって書かれた評論だけでもずいぶんの数になると思います。悲しいことに私には、今はまだ何も書けません。今、枕元に積んである書物が一段落したら、『立原道造全集』のうち、最後にただ一篇、残してあった卒業論文「方法論」を、読もうと思っています。
 

昔日の客

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年12月 9日(金)10時50分16秒
  青木由弥子様、「折々のことば」をご紹介下さり有り難うございました。

このコラムは、鷲田清一さんが書いたものですね。
私が、野呂さんの随筆を読んだ記憶に照らすと、ニュアンスが異なります。

"ある日、野呂さんがいつものとおり手持ちのお金が乏しかったので、均一本の値切りを例によってお願いした。

通常は、野呂さんの願いに応じてくれる店主が、その日はたまたま腹の虫の居所が悪かったのか、激怒して断られた。

諫早に帰ることになり最後に、前から欲しかった高価な本を買うことにして、値札どおりのお金を差し出した。
そして、帰郷することを店主に告げると、店主は黙って値引いてくれた。"

以上が、私の理解です。
関口良雄さんは、値切りを嫌ったいう訳ではないのです。
 

ツイッター

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2016年12月 8日(木)18時36分28秒
編集済
  ツイッターで流れてきました(笑)
https://twitter.com/yokoushio/status/805438725933015040
野呂さんのエピソードが、朝日新聞の折々の言葉、に掲載されたとのことです。
 

紅葉たけなわ

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年12月 8日(木)10時02分4秒
  おはようございます。今朝は冷え込みました。

野呂邦暢の文学碑がある上山公園には、市川一郎の句碑もあります。
伊東静雄は大学生のとき、同志社の学生であった同郷の市川一郎と親交を重ねました。
 

ご連絡

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2016年12月 7日(水)15時49分19秒
  11月19日午後2時から,諫早図書館に於いて第107回例会を開催した。

今回は、『なれとわれ』『送別』『春の雪』『大詔』を読み解いた。

会報は第101号。内容は次のとおり。

1 元伊東静雄賞選者 直木賞作家で詩人 伊東桂一さん死去
                                                        共同通信配信

2 (天声人語)戦記作家の貫いたもの
                                             朝日新聞平成28年11月3日

3 伊藤桂一さんのこと                  「河」同人     小野 祐尚


4  詩 「水車」                                        伊藤 桂一


5 詩 「川ー諫早にて」                                伊藤 桂一


6 詩 「天体」                                        伊藤 桂一


7  詩 「旗を焼く」                                    伊藤 桂一


8 二篇の戦争詩─────朔太郎と静雄         中桐 雅夫

                               以上
 

石原吉郎――失語について

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年12月 3日(土)12時02分19秒
   申しおくれましたが、上村さん、Morgenさん、青木さんにはお見舞いと励ましのお言葉をいただき、ありがとうございました。二、三日前、スーパーへ買い物に行ったとき、付き添って来た娘に「お父さん、歩くの、だいぶん早やなったね」と云われました。順調に回復しているようです。
 前回は唐突に、石原吉郎に触発されて妄想を開陳し、見苦しいことでした。と云いつつ、性懲りもなく妄想の続きを書きます。

 『石原吉郎セレクション』ではとくに「ことば」についての多くの言及に目を引かれました。

 饒舌のなかに言葉はない/
 言葉は忍耐をもっておのれの内側へささえなければならぬ/
 言葉を失うことと沈黙することとは、まったく次元がことなる/
 詩の一行目は訪れるもの、書きはじめるのは二行目から/
 「いわなければよかった」というのが、たぶん詩の出発ではないか/
 ことばは伝わるのか


 とくに私は、次の言葉から思索の糸を引き出されました。

 言葉がなお余命をたもち、有効であるのは、彼らの過去、かつて人間であった記憶のなかでである。

 私の思いは、「かつて人間であった記憶」というところから不意に、伊東「空の浴槽」の「あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら」へと飛びます。石原がシベリア抑留によって人間であることを喪失させられた体験をふまえて「かつて人間であった」と云っているのと伊東の場合とは状況が異なりますが、伊東がある種の「失語」状態にあったことを述べている、ということは云えると思うのです。このときの「失語」とはどういうものか、石原の「失語」と比べて何が云えるか、そして、伊東の「失語」と「詩」との関係はどうなのか――というのは、石原のもう一冊の講談社文芸文庫版『石原吉郎詩文集』の冒頭に、次のような文章を読んだからでした(「詩の定義」)。

(中略)詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。

 今日、栃久美子『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)を読み終わりました。
 島尾マヤさんの失語は、何だったのだろうか。
 

温かい師走の入り・・・

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年12月 1日(木)14時54分44秒
編集済
  青木さま
 「没絃琴」へのコメントありがとうございます。夜中に急いで書いたので良寛詩を全詩掲載できませんでしたが、大まかな意味は記載の通りです。「詩が生まれるとき」というような文句が浮かんできますね。

 スヴェトラーナ・アレクシェ-ヴィチさんの講演会感想を読みました。
 「困難な時代であるからこそ知識人は一般の人たちを勇気づけ、助けになるべき存在だ」と言う文章をみて、50年も昔のことを懐かしく思いました。ベトナム戦争の頃に、私は(大学院生)『ベトナム戦争に反対する知識人・文化人会議』の事務局(某新聞社ビル内)にいて、そのような趣旨の声明文や報告書の原稿を書いたり、先生方への連絡係をしていたからです。

 山本様、青木様のご投稿に触発されて、『石原吉郎詩文集』を買いました。
 私の父(大正4年生 故人)もほぼ同年代のシベリヤ抑留組ですが、その頃の話をするのを嫌がりました。繰り返して同じシベリアの夢をみてうなされるそうで、それは誰かが殺される夢だったのかもしれませんね。そのような訳で、私も満州やシベリアの本を読むのは少々辛いです。

 温かい師走の入りではありますが、パソコン上のスケヂュールは結構詰まっています。昨日は休みを取って、淀川サイクリング(70キロ)、スポーツジム(2時間)、公園の落葉掃除(1時間余)をしました。柔道の選手のように“まだまだ”という心構えで、この冬を乗り切りたいと思っています。
 

天金

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年11月30日(水)16時03分1秒
  山本さま

石原吉郎、黒田喜夫・・・様々な詩誌で一斉に(まるで連携しているように)見直しの機運が高まっているように思います。現代の詩から、抜け落ちてしまったもの、薄まってしまったもの・・・を、もう一度取り戻しに行こう・・・そんな詩人たちの想いが、背後にあるような気がしています。

Morgenさま

百千の・・・の琴、八木重吉の詩への連想が湧くのですが、静雄があの詩を知っていたか、どうか・・・もっと古くから、人々の心の奥に流れ続けていたものに触れている詩ではないか、と思っていたのですが・・・良寛さんも「琴線」を掻き立てるもの・・・詩情を揺さぶるものの源泉を、目に見える自然の、その背後に息づく「なにか」に見ていたのかもしれません。

ところで・・・三橋敏雄の俳句をボーっと流し読みしていたら、「かもめ来よ天金の書をひらくたび」という句に出会いました。昭和12年の作。
静雄の『わがひと~』かどうかは定かではありませんが、昭和10年刊行の「天金」装の詩集なので、イメージが重なりました。表紙の白鳥のレリーフとカモメのイメージも、重なるような、重ならないような・・・。
当時、どんな本が「天金」だったのか。なぜ、静雄が(保田與重郎が、というべきかもしれませんが)詩集に採用したのか・・・そもそも、よく使われた技法だったのか、珍しい装幀なのか、などなど・・・ささいなことですが、知りたくなりました。

もしご存知の方がいらしたら、教えてください(^^♪

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

「百千の草葉もみぢし・・・・・」

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年11月30日(水)01時12分4秒
編集済
  人影少なく、一面に黄葉する草木に囲まれた「淀の河邉」のサイクリングロードで、黙々とロードバイクのペダルをこいでいると、伊東静雄の「百千の草葉もみぢし・・・・・」という詩が脳裏に浮かんできます。(去年も同じことを書きましたが…)

 百千の草葉もみぢし
 野の勁き琴は鳴り出ず
 ・・・・・・・・・・

 詩人は、なぜ「自然の調べ」を「琴は鳴り出ず」と琴に譬えているのでしょうか?私は、良寛和尚の詩に出てくる「没絃琴(もつげんきん)」(絃のない琴)を連想しました。

 静夜草庵裏
 独奏没絃琴
 ・・・・・

 この詩を読んでみると、良寛さんは、実際は「没絃琴」を奏しているのではなく、「自然の調べ」を、「心の裡」で琴の音を聞くように聴いているのです。
「その調べは、流れる水に融けて奥深く、深い谷に満ち溢れ、山林に響きわたっているが、その微妙な音色は耳の聞こえない人でなければ聞き分けられない。(無心の人の心には直接に聞こえるもので、“不立文字”のように達磨禅の境地。)」と、良寛さんは言っているようです。

 詩人には、もみぢする百千の草葉中から鳴り出ずる「自然の調べ(琴の音)」が聴こえ、「百千の」という新しい「詩が生まれた」。
 そして『哀歌』のころの激した心は、秋の太陽に照らされて「あまく醸されて」いると、「百千の」では唱っているように思われます。

 「われ秋の太陽に謝す。」―(明後日からはもう冬ですが)元気で頑張りましょう。
 

石原吉郎――終末について

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年11月29日(火)14時33分58秒
  岩波現代文庫の『石原吉郎セレクション』を読み終りました。シベリア抑留体験者としてのこの人の名前は諸書で何度か目にしたことがありますが、その文章を読んだのははじめてでした。本稿はただひとつのことを誌します。およそ3/4ほど読んだところで私は、ヨハネ黙示録からの「第七の封印を解き給ひたれば、凡そ半刻のあひだ天静なりき」という引用に出会って、ガンと胸を打たれたように思いました。私は前から黙示録の騒々しさがいやで、終末はもっと穏かで静かなものであろう、そうであってほしい、と思っていました。昔(ずいぶん昔)「終末//静かに暮れてゆく/喇叭の音など聞えない」という短詩を書いたことがありました。この掲示板にかつて投稿した、開高健の詩碑についての文章の末尾につけた「北田辺」という題の詩のようなものも、私の予想と願望としての終末の穏かさと静かさを託したつもりでした。世界は今、すでにこの「半刻」に入っているのではないでしょうか。世界のこの静けさ(イロニーとして)はその証ではないでしょうか。そうしてこの半刻が過ぎ去ったあと、阿鼻叫喚が再びはじまるのではなく、そのまま不意に、まるで鋭い刃物で断ち切ったように、世界はスパッと終るのではないでしょうか。私の終末も、穏かで静かであってほしい。しかしどうしても喇叭が鳴るのなら、それはもう仕方がない。(上は私の勝手な妄想で、石原吉郎とは何の関係もありません。石原は「待つことがおそらくはそのまま生きることではないか」と言っています。)
 

第27回 伊東静雄賞

 投稿者:伊東静雄顕彰委員会  投稿日:2016年11月29日(火)09時45分43秒
  第27回 伊東静雄賞は、国内外から1337篇の現代詩が寄せられ、選考の結果下記の通り決定しました。

伊東静雄賞  該当作品なし

奨励賞2篇  ガッコの先生   渡会 克男氏 千葉県柏市在住
       雪の葬列     宮 せつ湖氏 滋賀県大津市在

       賞状並びに副賞各25万円

贈呈式    平成29年3月26日 諫早観光ホテル道具屋

                          伊東静雄顕彰委員会

       
 

お大事になさってください

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2016年11月24日(木)18時12分52秒
  膝を傷められたとのこと、お大事になさってください。
私も(そそっかしいので)肋骨を折ったり足の親指の爪をはがしたり・・・親指の時はともかく、足の甲の骨を折った時には、歩けるようになってからも、かなり筋力に差があったように思います・・・。
冷えると痛みが増すかもしれません、どうぞ暖かくして、腰や肩などほぐしながらお過ごしください。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

お大事に・・・

 投稿者:Morgen  投稿日:2016年11月24日(木)00時23分55秒
編集済
   山本様。膝蓋骨折で3週間もご入院されたとのこと、お見舞い申し上げます。

 私は、公私とも相変わらず身辺多忙でバタバタしておりますが、体力を現状維持するために、年甲斐もなく「淀の河邉サイクリング」は続けております。目下のところ、できるだけ長続きさせる方法として「臀筋ぺダリング」を練習しております。歩く時も、できるだけおしりの筋肉を意識して使うようにし、太腿やハムストリングを脱力して(膝関節に頼らないで)、臀筋を強くする筋トレドリルに心掛けています。

 今日(11/23)は、家内に誘われて電車で京都の紅葉を見に行きました。黒谷(写真上)や真如堂(写真下)など東山方面の紅葉はちょうど最盛期を迎えており、少し歩いて空腹だったおかげもあり「六盛」の弁当もおいしくいただきました。

 どうぞお体を大事にされ、リハビリに励まれて、一日も早く自力歩行力を回復されるように祈っています。

http://

 

ごぶさた その2

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2016年11月22日(火)17時38分21秒
編集済
  久しく音沙汰なしで申しわけありません。
無様なことに、またもや転んでしまいました。夜、ゴミ出しに裏の石段を下りて、最後の段を踏みはずして転倒、膝蓋骨折、つまりひざの「お皿」にヒビがはいって、救急外来へ、以後3週間入院してこのほどようやく退院してきました。
入院中は掲示板も見られず、淋しい思いをしました。前にちょっと書いた、折口信夫『死者の書』の話の務めは果たし、その余韻で、ベッドの上で「折口信夫全集」1冊を、目をしょぼしょぼさせながら読み終わりました。それから横光利一『旅愁』上下。思うに、両人とも日本浪曼派に無縁ではなく、まだ「伊東の幽霊」がつきまとっているようです。
屋内でも歩行器を使って歩いている状態で、思うように動けません。ノートパソコンを2Fの書斎から階下へ移してもらったので、掲示板は見ることができます。またそのうち投稿を再開したいと思います。
知らぬ間にすっかり秋から冬になりました。皆様どうかお風邪を召されませぬように。
 

菜の花フォーラム ご案内

 投稿者:伊東静雄研究会  投稿日:2016年11月10日(木)20時03分31秒
  伊東静雄・生誕110年記念   第11回 菜の花フォーラム ご案内

日時:平成28年12月10日(土)午後1時~
場所:諫早図書館 2階 視聴覚ホール

〇 講演:詩との出会い~ことばの力  講師 二羽史裕氏(活水女子大学講師)

〇 歌曲:伊東静雄の詩を歌う 燕・小曲・他  諫早男声合唱団の皆さん

〇 ビデオ上映:わが故郷の詩~諫早~ 企画 諫早市・製作(株)イワプロ

〇 フリートーク: 参加者の皆さんのご意見交換  郷土の文学について その他ご自由に

  お気軽にご参加ください。申込み不要です。  お問合せ 090-3739-5717(上村)

                      伊東静雄研究会
 

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