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桑原武夫さんの寄贈書のことなど

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月28日(金)10時21分3秒
  もうすぐ『詩と思想』5月号(伊東静雄特集)が出来上がる。
今回、伊東静雄のご遺族から諫早図書館に寄贈された書籍・資料の中に「発見」された、伊東静雄自身の手による書き込み(詩の下書き)の写真と書き起こしを掲載することができた。伊東静雄研究全体から見れば「小さな一歩」かもしれないが、伊東が「下書き」をどのように推敲したのか、など、詩作/思索の過程を垣間見ることができるのは、「小さいけれども大きい」出来事であるに相違ない。
なぜこんなことを記しているか。
昨日、桑原武夫の寄贈書籍、やく10,000冊が、保管場所がない、という、極めて物理的(非人情的、非学術的、非文化的)な理由で、遺族に何も相談のないまま廃棄処分されていたことが判明した、という記事を読んだからである。
神奈川近代文学館の「近藤東文庫」とか「楠本憲吉文庫」、長島三芳の生前・没後の寄贈書類など、それぞれの見識や趣味、志向、傾向性によって収集された書籍の目録を見ているだけでも、その人の「生前の頭の中」をのぞき込んでいるような、奇妙な感覚に襲われてゾクゾクする。
もしかしたら、一冊一冊精査していけば、本人や、誰かの手になる書き込みが発見されたり、そこからまた、新たな研究、ひらめき、発想の扉が開くかもしれない。
それなのに・・・。ご遺族の「『桑原武夫』という存在が忘れ去られたようで残念だ」と語ったという記事を読みながら、その痛みを維持管理する側は、どこまで感じているのだろう、と、なにやらそら恐ろしいような気持ちになった。
データだけが残されていればいい、とでもいうのだろうか。紙の書籍を、手に触れ、読み、場合によっては書き込んだり、何かを挟み込んだりした痕跡そのものが持つ、匂いのようなもの。気配。誰かが生きていた証し。
古書で詩集を購入すると、表紙の裏側にフランス語やドイツ語で月日が記されていたり、蔵書印が押されていたりして、感慨深いものがある。今は値崩れしていて、古書購入に「清水の舞台から・・・」というような覚悟は必要なくなったかもしれないが、新刊本にせよ古書にせよ、たとえば戦前の学生がどれほどの思いで購入したか、大切に持ち続けたか、といった、「もや」のようなものが、書籍そのものの息遣いとして残っている(今も生き続けている)のが伝わって来る。
本の命、のようなものを感じる、感じ続ける生き方をしたいと思う。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 
 

『呂』探索記・その4

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月25日(火)11時42分13秒
編集済
  8/13(月)青木氏より返信来る

冠省。度々お便りを頂きながら御返事が遅れ、申訳ありません。お申しこしの「呂」につきまして、私どもにも全巻揃っている訳ではありませんでしたが、かなりの号が残っておりました。で、書斎の一隅に箱に入れておりましたが、先日探しましたものの見つかりません。もう一度探してみますので、あとしばらくお待ちください。なお、お急ぎでしたら、茨木市立図書館の富士正晴コーナ(広重聰氏担当)にいくつかあると思います。右、とり急ぎ御返事のみ。匆々

8/14(火)

 青木氏の教示に従って、まず茨木市立図書館に電話してみましたが、今日は富士正晴記念館は休館、また、広重聰氏は2年前にすでに退職されたという。
 この日、「原野栄二」で検索して、大きな収穫がありました。原野栄二氏に近著『うらばなし 学者 文化人』あり。一燈園燈影舎 1990年6月刊行。――一燈園というのはもしかして、西田天香のあの一燈園ではないか。それなら話には聞いたことがあり、たしか河上肇の自叙伝でも読んだ気がする。原野さんはどういういきさつで、この団体とかかわるようになったのだろうか。そして、もし原野さんがまだご存命であれば、手立てを尽してお会いして、お願いすれば、話は簡単に実現するのではないか(わたしはこのときにはまだ、原野氏が疾くに亡くなられたことを知らなかったのです。1999年7月逝去。)

8/15(水)

 京都市の電話番号案内に問い合わせる。
   京都市内に「原野栄二」名義の電話はナシ。
   一燈園は、075-581-3136.
   燈影舎は番号なし。
 次に一燈園に直接電話して、
   燈影舎 075-581-2901
 を知る。
 それで燈影舎に電話したが、ここも盆休み中であった。盆が明けたら燈影舎にまた電話して、原野氏宅の住所や電話番号を教えてもらう。やってみよう。

8/16(木)

 先日の青木氏からのハガキにたいして、富士正晴記念館のこと、原野栄二氏の近著のこと、一度原野家を訪いたいと考えていること、などを書いて、礼状を出す。

8/22(水)

 お盆も明けたので、探索を再開する。
 まず燈影舎に電話して用件を告げる。
   ・原野氏の本はまだ残っているので、来社されればお渡しできる。
   ・原野栄二氏はすでに死去された。夫人が家を守っておられる。
   ・ただ、その住所、電話番号は、原野家の許しがなければお教えできない。
   ・それで、わたしが燈影舎気付で原野夫人宛の手紙を書いて、これを燈影舎に託し、原野家に届けてもらう、ということを頼んで、了解を得る。
   ・燈影舎の所在は、JR山科―京津線四宮でおりて5分ほどの所。

 大急ぎで原野夫人宛の手紙を草し、午後、山科に燈影舎を訪ねました。原野栄二著『うらばなし』を入手。その他、出版物のカタログ等を頂戴しました(京都哲学叢書、ほか)。

 甚だ突然のお尋ね事をお許し下さい。
 原野栄二先生は昭和七年から、伊東静雄、青木敬麿ら諸氏と共に、『呂』という詩の同人雑誌を出しておられました。私は伊東静雄の研究に携わっていまして、この『呂』所在を探しています。原野家ではもしかして、同誌を保存してはおられなかったでしょうか。もし今も原野家でご所蔵であれば、ぜひ拝見させていただきたく存じます。
 はなはだ不躾ではございますが、右につきご一報を賜りたく、伏してお願い申し上げます。敬白
  (未完)
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山本様

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月23日(日)18時48分18秒
  そうですね、なぜ、静雄は「私が~」から始めるのでしょう。

私自身が詩を書き始めた時、青木さんの詩は翻訳詩のようだ、と言われたことがありました。
代名詞が多い、中でも「私」が多い、日本語では「私」は基本的に書かなくてよい・・・

意識して「私」を書かないようにしていた時期もありましたが、今では、「わたし」と「私」を一つの詩の中で書き分けたりする時もあります。

何といえばいいのか・・・和歌や俳句、あるいは伝統的な日本の抒情詩は、障子を開けた縁側のある和室で、外の空気や光を感じながら(時には一体となりながら)部屋の中の各主体(私)が詩を歌っている、そんな気がするのですが、西欧の詩の場合、石造りの部屋の、小さな窓から外を眺めながら(窓のそばに立つ人も、部屋の奥にいて窓に背を向ける人もいるかもしれませんが)各主体(私)が書いている。場合によっては、その状態を、更に窓の外から見ている、のぞき込んでいる「私」がいる、ような気がします。

静雄の「私」「わが~」には、そんな、感じている「わたし」を、外から見ている「私」が居る、そんな二重性を感じています。

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「公園」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月22日(土)13時38分21秒
  青木様。

『呂』という公園。願望と自負。
なぜ伊東の詩は、「私が……」というふうに始まるのだろうか。
 

『呂』探索記・その3

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月22日(土)13時35分12秒
  7/18(水) 青木敬介氏宛発信

青木敬介様
 甚だ突然でございますがお許しください。私は詩人・伊東静雄について研究している者ですが、ご教示を得たいことがあり、先日お電話をいたしましたところ、ご不在にて、奥様にあらましを申し上げましたが、尚、書面にて意を尽したいと存じ、あらためて筆をとった次第でございます。
 私は同人雑誌『呂』のバックナンバーを探しております。ご承知のごとく、『呂』は昭和七年六月、伊東静雄や、お父様の青木敬麿さん、原野栄二さん等を中心に刊行され、伊東は多数の作品を同誌に発表しています。これらの初期詩篇は、伊東の詩業をあとづけるに当ってぜひ詳細な考究を要するテーマと考えるのですが、原資料たるべき雑誌『呂』の書誌事項について、各種評伝や研究書はほとんど触れるところがありません。…… (中略)……
 電話での奥様のお話では、「見たことがあるように思うが、全部そろっているかどうか……」とのことでした。もし現在『呂』をご所蔵であれば、その号数、またほかに同誌のバックナンバーの所在についてご存じならば、それらについても、ご教示を得とうございます。
 私は昭和十年生まれ、大阪の住吉高校の卒業生ですが、伊東先生は私の入学より先に阿部野高校に移られたので、直接に教えを受けたことはありません。伝記研究の欠を埋めるべく、先に大阪での伊東静雄の住居を調べて『昭和文学研究』誌に発表したことがあります。ひき続き京都時代の調査にかかり、ほぼ成稿を得ましたが、並行して“雑誌『呂』と伊東静雄”という標題で、少しづつ構想を練っているところです。(中略)……
 時々地図を眺めて、御津町岩見という所へ、やはり一度はぜひ行ってみたい、との思いを強めております。
 右、まことに唐突で不躾はでございますが、お許しをいただき、ご教示を賜りますよう、何卒よろしく御願い申上げます。 敬具
  七月一八日


 投函して、とうとう踏み出した、という思いに、なんだか昂奮して、ふわふわと、落ち着かぬ毎日を送っていたのですが、7月が終わってもまだ返事をいただけませんでした。
 わたしの孫は当時6歳で、幼稚園の年長組、折しも夏休みで、このころは毎日のようにやって来て(お母さん=わたしの娘の骨休めです)、おじいちゃんと精一杯遊んで、ご満悦、ご機嫌で帰るので、こちらはそれだけでクタクタになります。それでも、まだ今よりは若かったのでしょう、読書もし、原稿にも手をつけていました。
 京都での調べは、最期の詰めがまだ残っていて、これは10月になってようやく実現しました(後述)。それと、わたしのメモでは「桶谷伊東柳田」と称しているものに着手(これはある種の「日本浪曼派論」になるはずであったのだが、結局ものにならず。『コギト』『日本浪曼派』全冊を読まずに「論」を書くのは、無謀であろう)。
 また、この前後に読み上げた書物を拾ってみると、
  川田順三『口承文芸論』、同『無文字社会の歴史』、同『アフリカの心とかたち』
  柳田国男『口承文芸考』
  野家啓一『物語の哲学』、同『言語行為の現象学』、同『無根拠からの出発』
  バシュラール『空と夢』、カール・シュミット『政治的ロマン主義』
  大岡信『抒情の批判』、同『超現実と抒情』、同『昭和詩史』、同『蕩児の家系』
 まあ、よく勉強もしていた、ということでしょう。大岡信『抒情の批判』を読んだ日に、こんなことを日記に書きつけています。

この本の読了は3度目である。1回目は Aug. 3. 1961、羽曳野病院に入院中に詩を書いていた頃。2回目は June 24. 1982、この時も詩を書いていたが、これは中年の Sturm und Drang みたいなもの。すると、ちょうど20年おきにこの本を読んだことになる。それはたぶん、20年を間に置いて、同じような精神状態が戻って来ているということを意味している。〈ちょっとも傷けられも また豊富にもされないで〉。

 8月に入り、督促がましくて気がひけて、臆しつつ、西念寺に電話してみましたが、やはり住職はご不在で、奥様が出られました。これが8/1(水)で、すぐ後の8/4(土)に、追って手紙で、「かような閑文字のために勝手な申し条でまことに心苦しいのですが」お返事を賜りたい、と書き送りました。
 8月13日(月)、「待望の!」返事が届きました。(未完)
 

少しずつ

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月19日(水)15時00分58秒
  山本皓三様

襟を正して拝読しております。
「研究」は原典がないと始まりませんが・・・内容は書き継がれて、今、読むことができる。
「鑑賞」は『全集』などで可能、これは大変嬉しいことですね。
フェイスブックに上げたものをコピペします。初期詩篇も、大切に読んでいきたいです。

ネットで知り合った若者たちと、グループチャットやメッセンジャー等で「対話」しながら、「口語自由詩」の自由について、考え続けている。
規範や規制からの自由、既製、既成からの自由・・・逸脱、解放を目指す自由は、行き先を定めているのか。永遠の放浪者、故郷喪失者であることを目指すのか。あるいは、たどり着き得ない、憧憬の地を求め続けるのか。
自主独立を目指す自由、自らの立つ場所を、自らの家と成す自由もあるはずだ、と漠然と思う。それもまた、見果てぬ夢の憧憬かもしれないが。

私が腰を おろす場所は皆
公園になる
そこで人々は ひとりでに
水の様な
安らかな歩調に帰り
木々の梢の様に
自分の言葉で話を始める

伊東静雄の「公園」。
そこを訪れた人は皆、自ずから安らいだ歩調となる場所、焦りを持たずに逍遙できる場所。風にそよぐ木々が自らの歌を奏でるように、各々が自らの言葉で話始めることのできる場所。公園であるから、誰もが出入り自由。静雄の語る「私」は、詩神の語る「私」の代弁であるようにも思う。
自分の言葉を持つ自由。それこそが、口語自由詩の自由、かもしれない。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

『呂』探索記・その2

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月19日(水)14時16分59秒
   わたしが2003年8月、雑誌『PO』にはじめて書いた論考「伊東静雄の詩的出発」は、「初期詩篇論の試み(一)」と副題し、その末尾に次のように記しました。

しかし『呂』時代にはそれ自体の問題性がある。たとえば「同人」としての『呂』の実態、この時期の詩作の時期区分、とりわけここから「哀歌・コギト的なもの」への道すじ、などは大きな課題である。この時期については、また稿を改めたい。

 前回の投稿で、“雑誌『呂』と伊東静雄”というテーマで思い浮かんだ「構想」を記しましたが、『PO』の初期詩篇論を書き終えた段階では、当時のメモによると、次のようなものになっていました。

 ① 同人雑誌『呂』の創刊までの経緯。原野栄二・青木敬麿・伊東静雄らの人的交渉
 ② 昭和7年6月の創刊号から□年□月第43号終刊号まで、総目次を含む書誌的事項の詳細
 ③ 『呂』の同人たちと、主たる作品の紹介。
 ④ 同人たちによる伊東の評価、および当時の詩壇・文壇中における結社『呂』の位置づけ
 ⑤ 『呂』に掲載された伊東の諸作品の解読
 ⑥ 伊東の全詩業中における初期詩篇群の位置づけ

 以上をもって(二)として、「初期詩篇論」の完結と考えていたのでした。
 このうち①については、拙著『大阪/京都』で、判明する限りでの事柄をあらまし述べておいたのですが、2001年当時は、青木、原野の二人については、まだほとんど何の知見も持っていなかったのです。

 ともかく『呂』の全冊、バックナンバーを揃えることが不可欠であり、それがなければ何事も始まらないのはあきらかです。まず、ここからです。

 いろんなエピソードから推して、伊東は資料文献類の保存にはわりとマメなところがあったように思います。しかし自宅は昭和20年、堺の空襲によって、「七月十日の明方に罹災、家財の大半と書籍の全部を焼失しました」。このとき『呂』もすべて灰になったに違いありません。

 7/16(月) 日本近代文学館に電話したが、今日は月曜日で、休館日であった。夜、インターネットで「御津町 西念寺」で検索して、住所、電話番号と、住職・青木敬介氏の名を知る。ネットによれば、青木敬介氏はもう長年、瀬戸内の環境破壊問題に精力的に取り組んでおられるらしい。
 7/17(火) 日本近代文学館に再度電話。『呂』は第1~7号を所蔵していると。NACSISというサイトを教えてもらったので、ここでも検索。非会員なので検索範囲は限られるが、少なくとも大学図書館で『呂』をもっているところはなさそうであった。
西念寺に電話したが、住職は不在。奥様が出てくださったので、用件をあらましお伝えする。その後、手紙を書くことにして、下書きを作る。(未完)

?
 

「呂」探索記

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月16日(日)11時56分59秒
    青木さんの投稿以来、私が昔、「呂」の探索でひと月か二月、走り回ったことを、しきりに思い出しています。といっても、それがいつのことであったのか、もう記憶が定かでなくなっていました。
 気になるので調べてみると、それは2001年の夏であったことがわかりました。その端緒の部分を、話の種に、少し再現してみましょう。

 もう学校は定年退職して、フリーな身体になっていました。自宅もすでに木津町に移っていました。このころの日記はワリとマメにつけています。



 でも、自分で書いたものでありながら、自分でわからない記述もあります。野家というのは野家啓一さんですが、氏の何を読んでいたのか。前後を見て、これは『言語行為の現象学』(勁草書房)であることがわかりました。水本精一郎は住中21期の卒業で、上掲論文は「初期詩篇の構造(1)――伊東静雄論ノート・その三――」(「河」22号、昭49.9)で、水本さんが住高同窓会室に寄贈されたものをコピーして持っていました。

 1998年頃から私は、「伊東Note」と称する、A6版の小さいノートを作って、読んだことの書き抜きや、感想、着想などを片端から書きつける習慣をつくりました。2001年頃にはすでにそれが20数冊に達していました。
 日記に書いた、7/15には、このノートに「構想」を書きつけています。
 ノート番号は「伊東26」で、その29葉目です。
 ここでも自分でわからないことがあり、「正面図」とは何のことなのか? これはやはり野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店)を7/12に読了していて、その中にありました。自分では気がつきませんでしたが、この「正面図」という考え、見方は、私の「初期詩篇論」の書き出しの部分や、「河邉」稿の、河の流れの正面に立って見る、などに生かされているようです。
 思いつきに始まって、翌7/16から動き出すのですが、以下は稿を改めて、また投稿しましょう。


 

行ってきました~

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 4月 7日(金)20時26分3秒
  今日は駒場の日本近代文学館に行ってきました。『呂』の創刊号から7号まで揃っていて・・・その後のものはなかったのですが、確認したかったのが昭和7年だったので、良かったです。ありがとうございました。

巻頭の論文が社会時評的な硬派なもの。
号を重ねるうちに、同人で毎月集まろう、とか、投稿欄設けよう、広告載せよう、と毎号、少しずつ変化している。
夏場に、青木が一人でやるべきものを持って来た、と文句?言いつつ、裸で蚊をバチバチ叩きながら、男三人、原稿用紙とにらめっこ、なんて光景が面白おかしく編集後期に記されていたり(そういうワイワイガヤガヤには、静雄は参加していませんでしたが)女性教師らしい人が、紀元節(昭和6年とか7年頃の事ですが)を批判的に書いていたり(栄養不良の子供たちが、寒さの中で長いこと校長の国体云々の話を聞かされて、貧血でバタバタ倒れる)精神文化研究所が出来たが、どうせマルクス主義者を批判する御用学者の集まりだろう、というような批判的な紹介をしていたり・・・
また改めて、ゆっくり読み込んでみたいと思いました。目次はとりあえず全部コピーしましたが・・・1枚100円のコピー代・・・通って、必要なところを書き写す方がよさそう。ほとんど人がいないので、ゆっくり静かに読めます。

昭和5~6年の『詩・現実』があったので、借り出して読んでみました。とんでもない分量と濃い内容で驚きました。マルキシズムにシュルレアリスム、英米仏独西の欧米の最先端を翻訳紹介、研究、論考・・・作品欄は、梶井基次郎の短編なんかも詩と一緒にに並んでいて、要するに短い詩と長い詩、あるいは、詩は短めの文学作品、短編小説はちょっと長め、程度の差しか無いようでした。三好達治、丸山薫も、まだこの頃はバリバリのモダニスト。
『呂』の中で、静雄がひとりでモダニスムっぽい短詩を書いていて、同人たちに詩人ぶってるとか、もっとわかりやすく書け、とか言われてる(笑)同人による寸評コーナーなどもあって、面白かったです。

『詩・現実』の中で、静雄の短詩に一番近かったのは、モダニスム時代?の室生犀星・・・。朔太郎がひとりで文語の詩を「叙情詩」と名付けて載せていて、次の号では、新しいイズムは既に皆古びた、今、一番新しいのは新古典主義だ、という詩論を展開していて・・・それだってイズムでしょ、と突っ込み入れたくなるのですが(笑) 昔を懐かしむ、反動的懐古主義ではなく、行きすぎたモダニスムとは異なる新しい道を探そうという古典回帰だったんだな、というのが、なんとなく・・・

帰りに、渋谷のスクランブル交差点を見下ろす駅の2階に、外国人旅行客が鈴なりになっているのを見ました。つられて私も見てみた。全部黒髪の人達が一斉に、バラバラに動くというのは、確かに壮観、不思議なぞわぞわ感があります。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 4月 6日(木)13時28分35秒
  山本さま モルゲンさま

早速にありがとうございます。八万円? あわわ・・・この前、『春のいそぎ』を5000円で落札したのでした・・・

とりあえず、明日、駒場に行ってみます。
感謝です?
 

RE:「呂」㍼7,11月号,12月号 

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 4月 6日(木)13時24分59秒
編集済
  今日は。

「日本の古本屋」に『呂』14・22・27号が出品されていますが、価格は81,000円です。(原野栄二で検索する。)
取敢えず、古書店にお願いして、目次だけを見せて頂くということはできないでしょうか?
***ただし、昭和7年11月号は第6号、同12月号は第7号ですので、「呂」14・22・27号は該当しませんが、『哀歌』所載「静かなクセニエ」の初出は依然として「不明」のままです。
<この際、どこか研究機関のお力で『呂』の総目次作成にチャレンジされるよう提案してみるという手はないですかね?>

*あきつ書店(アキツショテン)

〒101-0051
東京都千代田区神田神保町 1-24 ハクバビル501
TEL:03-3294-8175
 

とりあえず

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月 6日(木)12時27分7秒
編集済
  駒場の日本近代文学館で検索すると、「呂」昭和7年6月号~12月号を架蔵しているようでした。とりあえずお知らせします。
神奈川近代文学館にはないようです。
「呂」の探索については、昨年7月に一度書いたことがありましたね。ずっとさかのぼると、もう2度ばかり書いています。
以前、Morgenさんが、富士正春記念館を調べてくださったことがありました。ここにもありませんでした。
原野栄二さんの旧宅に奥様を訪ね、また、青木敬麿さんのお寺(兵庫県御津・西念寺)の継嗣・青木敬介様に書信で問い合わせをしたことがあるのですが、いずれも成果が得られませんでした。
「呂」の同人が何人かわかっていますので、その所在存否を調べて、片端から尋ねる、ということも考えてみたのですが、これは考えただけに終わりました。。
 

『呂』の現物をお持ちの方はいらっしゃいますか?

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 4月 4日(火)21時19分18秒
  いつも皆様の投稿、楽しみに拝読しています。
ところで、『呂』の現物をお持ちの方はいらっしゃいますか?国会図書館に調べに行ったのですが、所蔵されていませんでした。
昭和7年、11月号、12月号、「静かなクセニエ」の総題?と、内容を確認したいのですが・・・全集と、伊東静雄研究、小川さんの伊東静雄論考、杉本さんの岩波文庫の年譜や年表を照合しているのですが、ちょっとずつ違う、というのが、モロモロあって・・・
 

在りし、在lらほしかりし

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2017年 4月 1日(土)11時26分36秒
  高橋睦郎氏の近著。難しい題名ですが筆者と三島由紀夫との50年以上の付き合らを綴ったもの。
27歳の時の詩集「薔薇の木、にせの恋人たち」を三島に送った時、直接、氏に本人から電話が入る。そして「眠りと犯しと落下と」の跋文を頼んだ時三島は「これはぼくが進んで書くことだからきみは、菓子折り一つ持って来てはいけないよ」と強調したとのこと。(124p)ここのところは北三国ヶ丘での伊東静雄に対する皮肉がこめられていると思った次第。「俗人と小人」が裏返る。
188pからの井上隆史氏の対談では「燕」が取り上げられている。三島の小説はその極端な右翼思想から殆ど読んでいないが4部作「豊饒の海」は読了した。1部の「春の雪」の題名は静雄の詩からとられているのは明らか。2.26事件やタイの仏教、転生の物語は4部の「天人五哀」のエンディングにきて驚愕のどんでん返しにて結末に至るのだがこのことを記述したものは高橋睦郎氏が私の知るところ初めてで我が意を得たりと思いました。今回の本、1度の読書ではつかみきれない本ですが氏の2つの詩集を含めてまた再読したいと思います。
 

老化に抗って

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 3月30日(木)10時23分10秒
  「菜の花忌」が歳時記の1ページのようにすっかり定着してまいりました。「菜の花忌」を始められた先輩方にも、毎年このように盛大に催行されているから、心安らかにお休み下さいと告げることができます。

 今年も、淀川縁の堤防は背の低い外来種の菜の花で真黄色に彩られています。しかし、いつまで待っても桜(ソメイヨシノ)は開花せず、去年はあんなにも混雑していた背割堤も、添付の写真(新築の展望塔からスマホ撮影)のようにひっそりとしています。地元の観光協会は、高さ25メーターの展望塔や「三川合流出合い館」を造って手ぐすね引いて待っていたのですが、今年の花盛りは随分遅れそうですね。

 わたしは、休日には相変わらず「淀の川辺サイクリング」を続けています。ロードバイクもカーボン製の軽量車に買い替え、「まだまだ!」と自らの老化に抗っています。



 

ご報告

 投稿者:龍田豊秋  投稿日:2017年 3月28日(火)10時17分9秒
  3月26日午後1時、諫早公園の中腹にある伊東静雄詩碑前で第53回「菜の花忌」が執り行われました。
空模様が気がかりで、肌寒い陽気でした。
例年は、ヤマザクラの盛りは終わり、ソメイヨシノが満開なのに、今年の開花は遅れています。

献詩  喜々津中学校3年 笹田泰平さん  「おじいさんの死」
       鎮西学院高校2年  佐藤加奈絵さん 「卵のきみ」

詩朗読  諫早コスモス音声訳の会 東かおり様 「野の夜」
        詩人          田中俊廣様  「まだ猟せざる山の夢」

場所を諫早観光ホテル道具屋に移し、午後2時30分から第27回「伊東静雄賞贈呈式・記念講演」が行われました。
大きな花瓶に活けられた菜の花の香りが、会場全体に広がっていました。

今回伊東静雄賞奨励賞を受けられたのは、次のお二人です。

千葉県柏市在住  渡会 克男 氏 67歳 「ガッコのセンセ」
滋賀県大津市在住  宮 せつ湖 氏 68歳  「雪の葬列」

記念講演の講師は、詩人・評論家 北川 透 氏でした。

演題は、「蝶の運命(さだめ)~伊東静雄と中原中也の交流について」。
                                                           以上
 

三国ヶ丘、菜の花忌

 投稿者:齊藤 勝康  投稿日:2017年 3月26日(日)22時20分32秒
  お久しぶりです。ここ数年見逃していた三国ヶ丘のけや木の会、今年もうっかりしていました。油断すると三月は本当にあっというまに来ますね。それに今回、共通のフアンである「伊東静雄、と野呂邦のぶ」の話をされたとは残念。ココペリさんに久しぶりにお会いできたのですね。日頃は月1回.露文の会でロシア文学を読むことに忙しい日々ですがまた静雄の詩と野呂の小説とエッセイの世界に戻ります。野呂の小説は向田邦子が亡くなった頃にTVドラマ化した「落城記」の原作者と知ったことからです。彼が静雄を描いた「詩人の故郷」も愛読しました。来年はぜひ行くことにします。  

『新生日本の藝術を語る』

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 3月24日(金)22時40分16秒
  随分昔のことになりますが、山本様が住高階段教室で昭和22年秋に行われた小野十三郎・伊東静雄の対談についてご投稿頂きました。

 『新生日本の藝術を語る』と題するこの座談会の記録が『すみよし外史』-先輩が語る住高60周年ー(昭和62年11月2日 同高同窓会)に載っていましたので、重複かも知れませんが見ておられない方のために添付してみます。
 

(余談)「みささぎのまち」(三国ヶ丘)―伊東静雄詩詠唱の流れ

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 3月17日(金)12時16分49秒
編集済
   「けや木通り・菜の花忌」に参加してみて、地元の方々の街づくりの熱意に感化されて、“伊東静雄の堺・三国ヶ丘における作詩(詩想・詩句など)の流れ”を自分なりにまとめてみようと思いたち、取り敢えずそのチャートを頭の中に描いてみようとしているところです。少しまとまったらまた投稿します。(本稿は、単なる余談です)

 随分まえに本欄に私が投稿したことのある東京の「森まゆみ」さん(谷中・根津・千駄木地域雑誌発行者)の『大阪不案内』という本があります。
 その中に、住吉高校を訪問された折のレポに、「詩人伊東静雄が国語の先生をしていたところです。」と紹介されていたところがあったように記憶しています。しかし、もし三国ヶ丘を訪れられたとして、「伊東静雄が終戦まで10年近く住み、“水中花”“百千の”“春の雪”などの、日本詩史上に輝く有名な詩を残したところです。」と言って頂けるかどうかは、きわめて怪しいですね。

 「けやき通りまちづくりの会」は、「みささぎのまち」として、百舌・古市古墳群の世界遺産登録も推進されているのでしょう。百舌古墳群の一番北に位置する「反正天皇陵」が世界遺産に登録されれば、古墳めぐりのスタート地点として沢山のお客さまが国内外から訪れられ、交通至便な「反正天皇陵」を訪れついでに、けや木通りを散策されるようになります。その情景を想像すると一種のワクワク感があります。

 ―街角スピーカーからは日本情緒たっぷりの「春の雪」や「百千の」の音楽が流れる。訪問客は、「みささぎのまち」の風雅を感じ、「日本て良いな!」と思いながらそぞろ歩き、みささぎのまちに「日本人の美しい心」の一端を感じてくれる。そして、けやき通りを下って、次の古墳めぐりへと向かう。そんな三国ヶ丘の情景をふと夢想してみる―

 みなさま、日増しに太陽が輝き、淀川縁は、鶯も雲雀も数が増えて、鳴き声も本物になっていますよ。紫外線対策をしていざフィールドへ!!

中野章子さんのブログが下記へ引っ越されました。

http://suzaku62.blog.jp/

 

けやき通り菜の花忌

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 3月 8日(水)11時59分35秒
   毎回、今年は何日で、どなたが講演をなさるのか、と、いつも心がけて注意していましたのに、そのたびに体調が悪くて、今まで一度も参加がかないませんでした。今年はじめて、3月5日の菜の花忌に出席できました。
 JR堺市駅は、ミュシャ館に何度か行って、勝手はわかっていたのですが、そこから足を伸ばしたことはなく、ちょっと迷いながら、なんとか三国ヶ丘幼稚園にたどりつきました。
 中野章子さんの講演はとてもよく、やさしく語りかけて下さって、最近ようやくその作品集(文芸春秋)を読み始めた野呂邦暢に、また少し近づけた気がしました。望むらくは、60分ではなくて90分を、与えてあげてほしかったです。
 中野さん、あるかんば隊のココペリーさん、野崎さん、それに名前の出た永沢さんらに、お会いできて、やっぱりがんばって出て来てほんとによかったと思いました。この日はもう春の陽気のはしり(?)も感じられる、気持ちの良い日でしたが、それだけではなく、嬉しいことが重なって、体があとあとまでホカホカとするようでした。この催しを続けて下さっている「けやき通り町づくりの会」の皆様に、お礼を申します。
 

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