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御礼申し上げます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 5月25日(木)14時44分32秒
  皆様のご投稿にヒントや新しい発見を頂いたり、アドバイスを頂戴したりして、ただただ感謝です。
お気づきの点がございましたら、どうぞまたご教示ください。とりいそぎ御礼まで。
 
 

『詩と思想』

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 5月25日(木)12時36分46秒
   わたしも『詩と思想』特集号の伊東静雄関連部分だけ、ようやく読み終えました。田中先生の論考をはじめ、青木さん司会の座談会など、なかなか読みごたえがありました。期せずして、なのか、あるいは何らかの必然性があるのか、「戦争詩」についての思索が多かったのを、興味ふかく思いました。そのうち感想をまとめて投稿したいと思います。皆様もどうかご意見をお寄せください。思うに、今日び、伊東静雄の特集を組むなど、快挙(怪挙?)ではないでしょうか。  

『詩と思想』(特集 伊東静雄)

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 5月19日(金)22時31分11秒
  『詩と思想』(特集 伊東静雄)5月号(発行 土曜美術社)が発売されていたので今日入手しました。
 なかなか面白そうですので今から読ませていただきます。、
 

『呂』探索記・その8

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 5月17日(水)15時39分11秒
編集済
   古書の検索中、たまたま雑誌『雲』の「ほぼ揃い」(欠号数冊あり)をみつけて、安いので購入しました。
 『雲』は戦後、原野さんが主宰して自ら編集発行された雑誌です。ほぼ毎号、ご自分の詩とエッセイを出しておられます。ほかに青木敬麿さんの短歌「生老病死」も、毎号掲載されています。
 その『雲』の第22号(昭和56年6月)に、原野さんの、「回想の伊東静雄」という文章が載っていました。
 後半は詩で、単行本『うらばなし』に載ったものの元稿で、いくらか推敲のあとを残して、ほぼ同じものですが、前半の地の文は『うらばなし』にはなく、関西文学の会が堺の伊東家のあたりを散策した、珍しい記録です。そのままここに載せます。画像はクリックして大きくしてみてください。
 

『呂』探索記・その7

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 5月13日(土)14時29分32秒
   この稿を書きながらウエブ上を探しているうちに、こんなものをみつけました。

 伊東静雄と原野栄二先生―伊東静雄の未発表の詩の発見に想う
 投稿日: 2014年4月14日 作成者: admin
 http://banvenom.com/?p=707

 このサイトの性質や投稿者については、何の知見も持ちません。『呂』の話が出て来るので、以下に全文を引用してご紹介します。

     ---------------------------------------------------

日本浪漫派を代表する詩人、伊東静雄の未発表の詩が見つかったとのこと。伊東静雄さんは、恩師?原野栄二先生や哲学者で歌人である青木敬麿さんたちと同人誌『呂』を発行。その後、伊東静雄の処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』が刊行されることになるのだが、当時、弘文堂の編集長だった原野先生もかなり尽力をしたと聞く。

原野先生曰く、伊東静雄という人は、〝とても線の細い人?だったという。そしてわたしが二十歳の時、堂島にあった近代日本文学専門の書店で『伊東静雄論』を買いに行かされたことがあった。あの書店は書店というよりも、何かソファが置いてあり、その上に無造作に書籍が並べてあるような、そんな湾や打ったことを記憶している。

原野先生が亡くなられて後、東京?神田の古書店の人が来て、同人誌『呂』がないと尋ねて来られたことがあった。何でも人伝いに原野先生のご自宅を聞かられて、先生の自宅まで来られたという。その時、原野先生の奥様に呼ばれて、わたしも原野先生のご自宅に行って、神田の古書店の人ともお会いして、いろいろとお話を聞いた。

残念ながら原野先生のご自宅からも、先生の同人誌関連の書籍を預かっているわたしの方からも、同人誌『呂』は発見できなかった。同人誌『呂』は第四号が刊行された際、当局の検閲で発行禁止処分にあって、それ以後、刊行されなくなった、日本近代文学史においても貴重な同人誌になっているらしく、その古書店もある大学の要請で同人誌『呂』を探しているとのことであった。

そう聞くと、恩師?原野栄二という人は、単に大阪の片田舎で学習塾を営んでいたという人物ではなく、日本近代文学史や日本近代哲学史、あるいは日本近代政治史に名を残すような大人物だったのではないかと、考えるように至ったのである。

一昨年、奥様の原野清香さんも亡くなられ、本当にさみしくなった。何よりも原野栄二という人を知る人物が居なくなることである。だからこそ、伊東静雄さんの話題が取り上げられるようになったときに、わたしは原野栄二先生のことを書きたくなるのである。

 

『呂』探索記・その6

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 5月12日(金)11時50分44秒
  8/30(木)原野夫人宛御礼状

前略 昨日は押しかけて参上いたし、申訳ございませんでした。手厚いおもてなし、さまざまなご教示と、すばらしい眼福。奥様のお話から、原野先生のお人柄までが偲ばれ、まことにたのしく充実した一刻でございました。厚く御礼申し上げます。
昨日お渡しした原野先生の「伊東静雄のこと」や、『うらばなし』から、『呂』の同人として次のような方々のお名前が出てまいります。まことにご手数ですが、この方々について、現在の消息、ご遺族の連絡先等、もしわかっておりましたら、お教えを願いとう存じます。これらの同人で、もしかして『呂』を保存しておられる方がおありかもしれませんので(氏名別紙)。
野島様には近々お会いしてお話をうかがいたいと思っております。『雲』の中に、原野先生が伊東にふれて書かれた文章が尚あるようですので、こちらは燈影舎で調べるつもりです。
何かの折に『呂』がみつかりましたら、是非お知らせをいただきとう存じます。
お世話になった上、重ねてのお願いで、まことに恐縮に存じますが、何卒よろしくお導きの程、お願い申し上げます。右、御礼迄。    草々
  八月三十日
原野清香様

(別紙)
『呂』同人
  原野栄二、青木敬麿、伊東静雄
  〇 瀧波善雅(アララギ歌人・篆刻家)
  〇 藤野基一(住友本社・俳人)
  〇 鳥羽嘉寿夫(前赤穂市長)
  〇 岡本正三(医学博士・伊東のホクロを手術)
  〇 澤延常(子息茨木市?)
  〇 正岡忠三郎(正岡子規の跡取り)

9/4(火)原野夫人より

前略
先日は折角お越し下さいましたのに何のおもてなしも出来ませず、却って結構なお土産まで頂き、恐縮致しております。お申し越しの件、主人の知人にお尋ねしていますが、何と云っても主人のお友達は皆なくなっていますので、判りにくうございます。お尋ねはしていますが、どなたがいつお返事を下さるか判りません。何か判りましたら又お知らせします。只今私はあれから整形外科に通っています。病気□□なので只今思うようになりません。お許し下さいませ、何か判りましたら又お知らせ致します。野島もその内来ると思います。季節の変り目御身大切にご自愛下さいませ。  かしこ
原野清香 拝

[別紙]

主人の本棚に伊東静雄の詩集がありましたのでよろしければ貴方に差し上げます。そして、娘が本棚を片付けているので、入用の本ありましたら差し上げます。よろしければご覧下さい。原野

9/8(土)原野家訪問

野島氏と初対面。きさくにしゃべってくれて、話がはずみ、そこへ原野夫人も加わって、にぎやかな半日となった。

この後、数回にわたって野島-山本メール交換がありましたが、省略します。

期待していたものん、『呂』は結局、早急にはみつからぬ、という結論になりました。

(未完)
 

『呂』探索記・その5

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月28日(金)15時40分46秒
  8/25(土)

 母の親しい知人の家にご不幸があり、葬儀から、骨あげ、初七日まで付き合って、夕方帰宅すると、留守中に原野夫人から電話があった由。こちらからかけ直して、暫時お話をし、29日に訪問のお許しをいただく。
 電話で話されたこと。

 ・夫人は今80歳。しかしお元気で、よく話をされる。書にも携わり、号を「清香」といわれる。
 ・同人雑誌は『呂』のほかに『河』『雲』などが保存されていたと思う。押入れをよく探せば出て来るかもしれない。
 ・原野の資料はいずれ、「弟子」に引き継いでもらう。蔵書は物置に入れてあったが、シケったのでゴミとして処分したものがかなりある。
 ・かつて堺で「文学散歩」という催しがあり、そこに原野も参加して、伊東の住居址などに行き、原野が話をしたこともあった。
 ・江川ミキさんとは親交があり、よくモノなど送ってもらった。
 ・雑誌「大阪人」に誰か何か書いていた。
 ・どうぞお越しください。29日がよろしい。宅は阪急上新庄からすぐ近く。娘が近くにいるので、迎えにやります。

 夫人は話が好きで、もっとたくさん喋られた。一気に新しい事実が眼前に開けて、つかまえきれない。

8/27(月) わたしの不在中に夫人から、『呂』みつからぬ、とお電話を頂いた由。
8/28(火) こちらから電話、お話しに出たさまざまな文献資料や人物についても知りたいので、やはり明日お邪魔いたします、と伝える。

8/29(水)

 ・この日わたしから夫人にお渡しした資料
   山本皓造「伊東静雄の住居」(「昭和文学研究」第26集、1993.2)
   原野栄二「伊東静雄のこと」(「果樹園」74号)
  夫人から頂いた資料
   「大阪人」 (2001年9月、Vol.55) 寺田操「伊東静雄 近代大阪の人物誌③」を載す
   「河」 昭和7年2月号(第60号)
   野島秀司「原野栄二先生を偲ぶ」(プリント)
   宇田正「弔辞」(プリント)
  野島秀司さんは夫人が「弟子」と呼んでおられた人です。
  宇田正氏は追手門大の教授とのこと。
  なお、野島氏のこと、および『呂』同人のことについては、後に別に記します。
 ・原野家と青木家はきわめて親しかった。原野夫妻は下村寅太郎氏の媒酌で、西念寺で挙式した(昭和17年)。
 ・姉(?)が、吉田で「白樺」という喫茶店をしていて、貧乏学生に親切にしていた。その学生さんたちは、のちに皆出世した。
 ・燈影舎との関係はあまりよくない(この件は他聞をはばかって、ここには詳述しません)。
 ・2階に案内された。西田幾太郎の書簡を額装したもの、須田剋太郎の原画、その他、有名な人たちの色紙や写真がいっぱい、無造作に置かれていた。(未完)
 

ついしん

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月28日(金)10時23分7秒
  先ほどの投稿は、フェイスブックにのせたものです・・・
それを追記しようとして、そのまま投稿してしまいました。
なんだかぶっきろばうですが、怒りモードもそれなりに加算されているかもしれません。
『呂』が含まれている、なんてこと、あるのか、ないのか・・・今更どうしようもないですが。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

桑原武夫さんの寄贈書のことなど

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月28日(金)10時21分3秒
  もうすぐ『詩と思想』5月号(伊東静雄特集)が出来上がる。
今回、伊東静雄のご遺族から諫早図書館に寄贈された書籍・資料の中に「発見」された、伊東静雄自身の手による書き込み(詩の下書き)の写真と書き起こしを掲載することができた。伊東静雄研究全体から見れば「小さな一歩」かもしれないが、伊東が「下書き」をどのように推敲したのか、など、詩作/思索の過程を垣間見ることができるのは、「小さいけれども大きい」出来事であるに相違ない。
なぜこんなことを記しているか。
昨日、桑原武夫の寄贈書籍、やく10,000冊が、保管場所がない、という、極めて物理的(非人情的、非学術的、非文化的)な理由で、遺族に何も相談のないまま廃棄処分されていたことが判明した、という記事を読んだからである。
神奈川近代文学館の「近藤東文庫」とか「楠本憲吉文庫」、長島三芳の生前・没後の寄贈書類など、それぞれの見識や趣味、志向、傾向性によって収集された書籍の目録を見ているだけでも、その人の「生前の頭の中」をのぞき込んでいるような、奇妙な感覚に襲われてゾクゾクする。
もしかしたら、一冊一冊精査していけば、本人や、誰かの手になる書き込みが発見されたり、そこからまた、新たな研究、ひらめき、発想の扉が開くかもしれない。
それなのに・・・。ご遺族の「『桑原武夫』という存在が忘れ去られたようで残念だ」と語ったという記事を読みながら、その痛みを維持管理する側は、どこまで感じているのだろう、と、なにやらそら恐ろしいような気持ちになった。
データだけが残されていればいい、とでもいうのだろうか。紙の書籍を、手に触れ、読み、場合によっては書き込んだり、何かを挟み込んだりした痕跡そのものが持つ、匂いのようなもの。気配。誰かが生きていた証し。
古書で詩集を購入すると、表紙の裏側にフランス語やドイツ語で月日が記されていたり、蔵書印が押されていたりして、感慨深いものがある。今は値崩れしていて、古書購入に「清水の舞台から・・・」というような覚悟は必要なくなったかもしれないが、新刊本にせよ古書にせよ、たとえば戦前の学生がどれほどの思いで購入したか、大切に持ち続けたか、といった、「もや」のようなものが、書籍そのものの息遣いとして残っている(今も生き続けている)のが伝わって来る。
本の命、のようなものを感じる、感じ続ける生き方をしたいと思う。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

『呂』探索記・その4

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月25日(火)11時42分13秒
編集済
  8/13(月)青木氏より返信来る

冠省。度々お便りを頂きながら御返事が遅れ、申訳ありません。お申しこしの「呂」につきまして、私どもにも全巻揃っている訳ではありませんでしたが、かなりの号が残っておりました。で、書斎の一隅に箱に入れておりましたが、先日探しましたものの見つかりません。もう一度探してみますので、あとしばらくお待ちください。なお、お急ぎでしたら、茨木市立図書館の富士正晴コーナ(広重聰氏担当)にいくつかあると思います。右、とり急ぎ御返事のみ。匆々

8/14(火)

 青木氏の教示に従って、まず茨木市立図書館に電話してみましたが、今日は富士正晴記念館は休館、また、広重聰氏は2年前にすでに退職されたという。
 この日、「原野栄二」で検索して、大きな収穫がありました。原野栄二氏に近著『うらばなし 学者 文化人』あり。一燈園燈影舎 1990年6月刊行。――一燈園というのはもしかして、西田天香のあの一燈園ではないか。それなら話には聞いたことがあり、たしか河上肇の自叙伝でも読んだ気がする。原野さんはどういういきさつで、この団体とかかわるようになったのだろうか。そして、もし原野さんがまだご存命であれば、手立てを尽してお会いして、お願いすれば、話は簡単に実現するのではないか(わたしはこのときにはまだ、原野氏が疾くに亡くなられたことを知らなかったのです。1999年7月逝去。)

8/15(水)

 京都市の電話番号案内に問い合わせる。
   京都市内に「原野栄二」名義の電話はナシ。
   一燈園は、075-581-3136.
   燈影舎は番号なし。
 次に一燈園に直接電話して、
   燈影舎 075-581-2901
 を知る。
 それで燈影舎に電話したが、ここも盆休み中であった。盆が明けたら燈影舎にまた電話して、原野氏宅の住所や電話番号を教えてもらう。やってみよう。

8/16(木)

 先日の青木氏からのハガキにたいして、富士正晴記念館のこと、原野栄二氏の近著のこと、一度原野家を訪いたいと考えていること、などを書いて、礼状を出す。

8/22(水)

 お盆も明けたので、探索を再開する。
 まず燈影舎に電話して用件を告げる。
   ・原野氏の本はまだ残っているので、来社されればお渡しできる。
   ・原野栄二氏はすでに死去された。夫人が家を守っておられる。
   ・ただ、その住所、電話番号は、原野家の許しがなければお教えできない。
   ・それで、わたしが燈影舎気付で原野夫人宛の手紙を書いて、これを燈影舎に託し、原野家に届けてもらう、ということを頼んで、了解を得る。
   ・燈影舎の所在は、JR山科―京津線四宮でおりて5分ほどの所。

 大急ぎで原野夫人宛の手紙を草し、午後、山科に燈影舎を訪ねました。原野栄二著『うらばなし』を入手。その他、出版物のカタログ等を頂戴しました(京都哲学叢書、ほか)。

 甚だ突然のお尋ね事をお許し下さい。
 原野栄二先生は昭和七年から、伊東静雄、青木敬麿ら諸氏と共に、『呂』という詩の同人雑誌を出しておられました。私は伊東静雄の研究に携わっていまして、この『呂』所在を探しています。原野家ではもしかして、同誌を保存してはおられなかったでしょうか。もし今も原野家でご所蔵であれば、ぜひ拝見させていただきたく存じます。
 はなはだ不躾ではございますが、右につきご一報を賜りたく、伏してお願い申し上げます。敬白
  (未完)
?
 

山本様

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月23日(日)18時48分18秒
  そうですね、なぜ、静雄は「私が~」から始めるのでしょう。

私自身が詩を書き始めた時、青木さんの詩は翻訳詩のようだ、と言われたことがありました。
代名詞が多い、中でも「私」が多い、日本語では「私」は基本的に書かなくてよい・・・

意識して「私」を書かないようにしていた時期もありましたが、今では、「わたし」と「私」を一つの詩の中で書き分けたりする時もあります。

何といえばいいのか・・・和歌や俳句、あるいは伝統的な日本の抒情詩は、障子を開けた縁側のある和室で、外の空気や光を感じながら(時には一体となりながら)部屋の中の各主体(私)が詩を歌っている、そんな気がするのですが、西欧の詩の場合、石造りの部屋の、小さな窓から外を眺めながら(窓のそばに立つ人も、部屋の奥にいて窓に背を向ける人もいるかもしれませんが)各主体(私)が書いている。場合によっては、その状態を、更に窓の外から見ている、のぞき込んでいる「私」がいる、ような気がします。

静雄の「私」「わが~」には、そんな、感じている「わたし」を、外から見ている「私」が居る、そんな二重性を感じています。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

「公園」

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月22日(土)13時38分21秒
  青木様。

『呂』という公園。願望と自負。
なぜ伊東の詩は、「私が……」というふうに始まるのだろうか。
 

『呂』探索記・その3

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月22日(土)13時35分12秒
  7/18(水) 青木敬介氏宛発信

青木敬介様
 甚だ突然でございますがお許しください。私は詩人・伊東静雄について研究している者ですが、ご教示を得たいことがあり、先日お電話をいたしましたところ、ご不在にて、奥様にあらましを申し上げましたが、尚、書面にて意を尽したいと存じ、あらためて筆をとった次第でございます。
 私は同人雑誌『呂』のバックナンバーを探しております。ご承知のごとく、『呂』は昭和七年六月、伊東静雄や、お父様の青木敬麿さん、原野栄二さん等を中心に刊行され、伊東は多数の作品を同誌に発表しています。これらの初期詩篇は、伊東の詩業をあとづけるに当ってぜひ詳細な考究を要するテーマと考えるのですが、原資料たるべき雑誌『呂』の書誌事項について、各種評伝や研究書はほとんど触れるところがありません。…… (中略)……
 電話での奥様のお話では、「見たことがあるように思うが、全部そろっているかどうか……」とのことでした。もし現在『呂』をご所蔵であれば、その号数、またほかに同誌のバックナンバーの所在についてご存じならば、それらについても、ご教示を得とうございます。
 私は昭和十年生まれ、大阪の住吉高校の卒業生ですが、伊東先生は私の入学より先に阿部野高校に移られたので、直接に教えを受けたことはありません。伝記研究の欠を埋めるべく、先に大阪での伊東静雄の住居を調べて『昭和文学研究』誌に発表したことがあります。ひき続き京都時代の調査にかかり、ほぼ成稿を得ましたが、並行して“雑誌『呂』と伊東静雄”という標題で、少しづつ構想を練っているところです。(中略)……
 時々地図を眺めて、御津町岩見という所へ、やはり一度はぜひ行ってみたい、との思いを強めております。
 右、まことに唐突で不躾はでございますが、お許しをいただき、ご教示を賜りますよう、何卒よろしく御願い申上げます。 敬具
  七月一八日


 投函して、とうとう踏み出した、という思いに、なんだか昂奮して、ふわふわと、落ち着かぬ毎日を送っていたのですが、7月が終わってもまだ返事をいただけませんでした。
 わたしの孫は当時6歳で、幼稚園の年長組、折しも夏休みで、このころは毎日のようにやって来て(お母さん=わたしの娘の骨休めです)、おじいちゃんと精一杯遊んで、ご満悦、ご機嫌で帰るので、こちらはそれだけでクタクタになります。それでも、まだ今よりは若かったのでしょう、読書もし、原稿にも手をつけていました。
 京都での調べは、最期の詰めがまだ残っていて、これは10月になってようやく実現しました(後述)。それと、わたしのメモでは「桶谷伊東柳田」と称しているものに着手(これはある種の「日本浪曼派論」になるはずであったのだが、結局ものにならず。『コギト』『日本浪曼派』全冊を読まずに「論」を書くのは、無謀であろう)。
 また、この前後に読み上げた書物を拾ってみると、
  川田順三『口承文芸論』、同『無文字社会の歴史』、同『アフリカの心とかたち』
  柳田国男『口承文芸考』
  野家啓一『物語の哲学』、同『言語行為の現象学』、同『無根拠からの出発』
  バシュラール『空と夢』、カール・シュミット『政治的ロマン主義』
  大岡信『抒情の批判』、同『超現実と抒情』、同『昭和詩史』、同『蕩児の家系』
 まあ、よく勉強もしていた、ということでしょう。大岡信『抒情の批判』を読んだ日に、こんなことを日記に書きつけています。

この本の読了は3度目である。1回目は Aug. 3. 1961、羽曳野病院に入院中に詩を書いていた頃。2回目は June 24. 1982、この時も詩を書いていたが、これは中年の Sturm und Drang みたいなもの。すると、ちょうど20年おきにこの本を読んだことになる。それはたぶん、20年を間に置いて、同じような精神状態が戻って来ているということを意味している。〈ちょっとも傷けられも また豊富にもされないで〉。

 8月に入り、督促がましくて気がひけて、臆しつつ、西念寺に電話してみましたが、やはり住職はご不在で、奥様が出られました。これが8/1(水)で、すぐ後の8/4(土)に、追って手紙で、「かような閑文字のために勝手な申し条でまことに心苦しいのですが」お返事を賜りたい、と書き送りました。
 8月13日(月)、「待望の!」返事が届きました。(未完)
 

少しずつ

 投稿者:青木 由弥子  投稿日:2017年 4月19日(水)15時00分58秒
  山本皓三様

襟を正して拝読しております。
「研究」は原典がないと始まりませんが・・・内容は書き継がれて、今、読むことができる。
「鑑賞」は『全集』などで可能、これは大変嬉しいことですね。
フェイスブックに上げたものをコピペします。初期詩篇も、大切に読んでいきたいです。

ネットで知り合った若者たちと、グループチャットやメッセンジャー等で「対話」しながら、「口語自由詩」の自由について、考え続けている。
規範や規制からの自由、既製、既成からの自由・・・逸脱、解放を目指す自由は、行き先を定めているのか。永遠の放浪者、故郷喪失者であることを目指すのか。あるいは、たどり着き得ない、憧憬の地を求め続けるのか。
自主独立を目指す自由、自らの立つ場所を、自らの家と成す自由もあるはずだ、と漠然と思う。それもまた、見果てぬ夢の憧憬かもしれないが。

私が腰を おろす場所は皆
公園になる
そこで人々は ひとりでに
水の様な
安らかな歩調に帰り
木々の梢の様に
自分の言葉で話を始める

伊東静雄の「公園」。
そこを訪れた人は皆、自ずから安らいだ歩調となる場所、焦りを持たずに逍遙できる場所。風にそよぐ木々が自らの歌を奏でるように、各々が自らの言葉で話始めることのできる場所。公園であるから、誰もが出入り自由。静雄の語る「私」は、詩神の語る「私」の代弁であるようにも思う。
自分の言葉を持つ自由。それこそが、口語自由詩の自由、かもしれない。

http://yumikoaoki.exblog.jp/

 

『呂』探索記・その2

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月19日(水)14時16分59秒
   わたしが2003年8月、雑誌『PO』にはじめて書いた論考「伊東静雄の詩的出発」は、「初期詩篇論の試み(一)」と副題し、その末尾に次のように記しました。

しかし『呂』時代にはそれ自体の問題性がある。たとえば「同人」としての『呂』の実態、この時期の詩作の時期区分、とりわけここから「哀歌・コギト的なもの」への道すじ、などは大きな課題である。この時期については、また稿を改めたい。

 前回の投稿で、“雑誌『呂』と伊東静雄”というテーマで思い浮かんだ「構想」を記しましたが、『PO』の初期詩篇論を書き終えた段階では、当時のメモによると、次のようなものになっていました。

 ① 同人雑誌『呂』の創刊までの経緯。原野栄二・青木敬麿・伊東静雄らの人的交渉
 ② 昭和7年6月の創刊号から□年□月第43号終刊号まで、総目次を含む書誌的事項の詳細
 ③ 『呂』の同人たちと、主たる作品の紹介。
 ④ 同人たちによる伊東の評価、および当時の詩壇・文壇中における結社『呂』の位置づけ
 ⑤ 『呂』に掲載された伊東の諸作品の解読
 ⑥ 伊東の全詩業中における初期詩篇群の位置づけ

 以上をもって(二)として、「初期詩篇論」の完結と考えていたのでした。
 このうち①については、拙著『大阪/京都』で、判明する限りでの事柄をあらまし述べておいたのですが、2001年当時は、青木、原野の二人については、まだほとんど何の知見も持っていなかったのです。

 ともかく『呂』の全冊、バックナンバーを揃えることが不可欠であり、それがなければ何事も始まらないのはあきらかです。まず、ここからです。

 いろんなエピソードから推して、伊東は資料文献類の保存にはわりとマメなところがあったように思います。しかし自宅は昭和20年、堺の空襲によって、「七月十日の明方に罹災、家財の大半と書籍の全部を焼失しました」。このとき『呂』もすべて灰になったに違いありません。

 7/16(月) 日本近代文学館に電話したが、今日は月曜日で、休館日であった。夜、インターネットで「御津町 西念寺」で検索して、住所、電話番号と、住職・青木敬介氏の名を知る。ネットによれば、青木敬介氏はもう長年、瀬戸内の環境破壊問題に精力的に取り組んでおられるらしい。
 7/17(火) 日本近代文学館に再度電話。『呂』は第1~7号を所蔵していると。NACSISというサイトを教えてもらったので、ここでも検索。非会員なので検索範囲は限られるが、少なくとも大学図書館で『呂』をもっているところはなさそうであった。
西念寺に電話したが、住職は不在。奥様が出てくださったので、用件をあらましお伝えする。その後、手紙を書くことにして、下書きを作る。(未完)

?
 

「呂」探索記

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月16日(日)11時56分59秒
    青木さんの投稿以来、私が昔、「呂」の探索でひと月か二月、走り回ったことを、しきりに思い出しています。といっても、それがいつのことであったのか、もう記憶が定かでなくなっていました。
 気になるので調べてみると、それは2001年の夏であったことがわかりました。その端緒の部分を、話の種に、少し再現してみましょう。

 もう学校は定年退職して、フリーな身体になっていました。自宅もすでに木津町に移っていました。このころの日記はワリとマメにつけています。



 でも、自分で書いたものでありながら、自分でわからない記述もあります。野家というのは野家啓一さんですが、氏の何を読んでいたのか。前後を見て、これは『言語行為の現象学』(勁草書房)であることがわかりました。水本精一郎は住中21期の卒業で、上掲論文は「初期詩篇の構造(1)――伊東静雄論ノート・その三――」(「河」22号、昭49.9)で、水本さんが住高同窓会室に寄贈されたものをコピーして持っていました。

 1998年頃から私は、「伊東Note」と称する、A6版の小さいノートを作って、読んだことの書き抜きや、感想、着想などを片端から書きつける習慣をつくりました。2001年頃にはすでにそれが20数冊に達していました。
 日記に書いた、7/15には、このノートに「構想」を書きつけています。
 ノート番号は「伊東26」で、その29葉目です。
 ここでも自分でわからないことがあり、「正面図」とは何のことなのか? これはやはり野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店)を7/12に読了していて、その中にありました。自分では気がつきませんでしたが、この「正面図」という考え、見方は、私の「初期詩篇論」の書き出しの部分や、「河邉」稿の、河の流れの正面に立って見る、などに生かされているようです。
 思いつきに始まって、翌7/16から動き出すのですが、以下は稿を改めて、また投稿しましょう。


 

行ってきました~

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 4月 7日(金)20時26分3秒
  今日は駒場の日本近代文学館に行ってきました。『呂』の創刊号から7号まで揃っていて・・・その後のものはなかったのですが、確認したかったのが昭和7年だったので、良かったです。ありがとうございました。

巻頭の論文が社会時評的な硬派なもの。
号を重ねるうちに、同人で毎月集まろう、とか、投稿欄設けよう、広告載せよう、と毎号、少しずつ変化している。
夏場に、青木が一人でやるべきものを持って来た、と文句?言いつつ、裸で蚊をバチバチ叩きながら、男三人、原稿用紙とにらめっこ、なんて光景が面白おかしく編集後期に記されていたり(そういうワイワイガヤガヤには、静雄は参加していませんでしたが)女性教師らしい人が、紀元節(昭和6年とか7年頃の事ですが)を批判的に書いていたり(栄養不良の子供たちが、寒さの中で長いこと校長の国体云々の話を聞かされて、貧血でバタバタ倒れる)精神文化研究所が出来たが、どうせマルクス主義者を批判する御用学者の集まりだろう、というような批判的な紹介をしていたり・・・
また改めて、ゆっくり読み込んでみたいと思いました。目次はとりあえず全部コピーしましたが・・・1枚100円のコピー代・・・通って、必要なところを書き写す方がよさそう。ほとんど人がいないので、ゆっくり静かに読めます。

昭和5~6年の『詩・現実』があったので、借り出して読んでみました。とんでもない分量と濃い内容で驚きました。マルキシズムにシュルレアリスム、英米仏独西の欧米の最先端を翻訳紹介、研究、論考・・・作品欄は、梶井基次郎の短編なんかも詩と一緒にに並んでいて、要するに短い詩と長い詩、あるいは、詩は短めの文学作品、短編小説はちょっと長め、程度の差しか無いようでした。三好達治、丸山薫も、まだこの頃はバリバリのモダニスト。
『呂』の中で、静雄がひとりでモダニスムっぽい短詩を書いていて、同人たちに詩人ぶってるとか、もっとわかりやすく書け、とか言われてる(笑)同人による寸評コーナーなどもあって、面白かったです。

『詩・現実』の中で、静雄の短詩に一番近かったのは、モダニスム時代?の室生犀星・・・。朔太郎がひとりで文語の詩を「叙情詩」と名付けて載せていて、次の号では、新しいイズムは既に皆古びた、今、一番新しいのは新古典主義だ、という詩論を展開していて・・・それだってイズムでしょ、と突っ込み入れたくなるのですが(笑) 昔を懐かしむ、反動的懐古主義ではなく、行きすぎたモダニスムとは異なる新しい道を探そうという古典回帰だったんだな、というのが、なんとなく・・・

帰りに、渋谷のスクランブル交差点を見下ろす駅の2階に、外国人旅行客が鈴なりになっているのを見ました。つられて私も見てみた。全部黒髪の人達が一斉に、バラバラに動くというのは、確かに壮観、不思議なぞわぞわ感があります。
 

ありがとうございます

 投稿者:青木由弥子  投稿日:2017年 4月 6日(木)13時28分35秒
  山本さま モルゲンさま

早速にありがとうございます。八万円? あわわ・・・この前、『春のいそぎ』を5000円で落札したのでした・・・

とりあえず、明日、駒場に行ってみます。
感謝です?
 

RE:「呂」㍼7,11月号,12月号 

 投稿者:Morgen  投稿日:2017年 4月 6日(木)13時24分59秒
編集済
  今日は。

「日本の古本屋」に『呂』14・22・27号が出品されていますが、価格は81,000円です。(原野栄二で検索する。)
取敢えず、古書店にお願いして、目次だけを見せて頂くということはできないでしょうか?
***ただし、昭和7年11月号は第6号、同12月号は第7号ですので、「呂」14・22・27号は該当しませんが、『哀歌』所載「静かなクセニエ」の初出は依然として「不明」のままです。
<この際、どこか研究機関のお力で『呂』の総目次作成にチャレンジされるよう提案してみるという手はないですかね?>

*あきつ書店(アキツショテン)

〒101-0051
東京都千代田区神田神保町 1-24 ハクバビル501
TEL:03-3294-8175
 

とりあえず

 投稿者:山本 皓造  投稿日:2017年 4月 6日(木)12時27分7秒
編集済
  駒場の日本近代文学館で検索すると、「呂」昭和7年6月号~12月号を架蔵しているようでした。とりあえずお知らせします。
神奈川近代文学館にはないようです。
「呂」の探索については、昨年7月に一度書いたことがありましたね。ずっとさかのぼると、もう2度ばかり書いています。
以前、Morgenさんが、富士正春記念館を調べてくださったことがありました。ここにもありませんでした。
原野栄二さんの旧宅に奥様を訪ね、また、青木敬麿さんのお寺(兵庫県御津・西念寺)の継嗣・青木敬介様に書信で問い合わせをしたことがあるのですが、いずれも成果が得られませんでした。
「呂」の同人が何人かわかっていますので、その所在存否を調べて、片端から尋ねる、ということも考えてみたのですが、これは考えただけに終わりました。。
 

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