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「漂泊」−A・Tに−

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月12日(水)09時42分30秒
   こんにちは ありがとうございました。よく理解できました。
『コギト』昭和十年八月号において、「漂泊」−A・Tに−と書かれていることを確認しました。このA・Tが「あおき たかまろ」のA・Tであることも間違いないでしょうね。
 また、「家島」のこともご指摘の通りで、この詩は、杉本秀太郎氏のように「私の放浪する半身」が、放浪の(冥界を彷徨った)果てに蘇生する「絶唱」と創造的に解釈することも可能である一方で、「家島」や「伝記的事実」に即して解釈することも可能であるという、「おしゃれな」詩であるともみることができます。
 

伊東静雄の献詞と家島のこと

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 8月11日(火)23時50分19秒
  静雄は、数篇の作品を敬愛する人に献じていますが、「曠野の歌」(コギトS10年4月号)を萩原朔太郎氏に献じています。(詩集「わがひとに与ふる哀歌」では削除)「漂泊」の草稿は、「H島に寄す」が原題で、S10年6月小高根二郎の室を尋ねた靜雄は、原稿用紙を求めそそくさとしたため朗誦を始めた。(詩人、その生涯と運命)その後、詩文内容が彫琢され、詩題も「漂泊」に変更されーA・Tーにと記した。(コギトS10年8月)(詩集「哀歌」では削除)A・Tとは青木敬麿氏であることは間違いないと思う。H島とは、姫路の島「家島」のことである。家島は揖保町岩見港からも望まれる。家島のことについては、酒井百合子宛ての書簡にも出てくる。(家島のことや姫路のことや本明川のことがどっさり歌ってある筈です。)「家島」の名前の由来は、神武天皇が島内に入ると外の嵐はうってかわって波が穏かになったことから、まるで自分の家に居るように感じられたことから「家島」の名前がつけられたという。静雄の詩にも「あゝ幾歳を経たりけむ 水門の彼方/高まり 沈む波の揺籃」とある。また家島には、昔から赤坂清水と云う湧き水が存在し、島内の貴重な水源であったことも、ー入海の奥の岩間は孤独者の潔く水浴に真清水を噴くー「漂泊」の舞台が「家島」であることを裏付ける。  

青木敬麿氏のこと(補)

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月11日(火)21時11分44秒
  5、挿絵/昭和2年2月4日 酒井安代宛書簡
[・・・・・]私の隣にゐる哲学士[・・・・・]かうふう風な男ですよ。(よく似てゐます)〔挿絵略〕。
「全集」345頁ではこのように挿絵(青木敬麿氏の似顔絵)が省略されていますが、上村「哲学徒と詩人」には次のように書かれています。

 敬麿は、長じては色黒く、鼻が高く、長身痩躯であった。[・・・]古いアルバムのなかの、二十歳代なかばころの敬麿の写真を見ると、長い髪を多量に伸ばした面長な顔のなかで、特にその眼差しは鋭く、深く内にこもって熱え、ちょっとあの『夏の花』の作家原民喜の風貌と似ている。(何となく風貌が想像できますネ。)


6、「全集」539頁、「書簡」注六に青木敬麿氏のことが書かれており、その末尾が次のようになっています。
[・・・・・] 青木は昭和18年2月11日、大山行きの途中、吉岡温泉で急死した。

 上村氏が吉岡温泉三谷旅館に赴いて老婦人(旅館の奥様)から直接聞かれた話では、青木氏は母親と一緒に一月か一月半くらい滞在し、ずっと寝たきりであった。そして、寝棺に入れられて家に帰ったということです。(こちらの方が信憑性があります。)

7、「漂泊」の献辞について
『コギト』昭和10年8月号を探したのですが見つからず、青木氏への献辞は未確認です。
 

「暑中見舞い」にかえて/青木敬麿氏のこと

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月11日(火)00時05分53秒
   台風9号に伴う集中豪雨により兵庫県西部では大変な被害が起きており、被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。
 兵庫県揖保郡出身の青木敬麿(たかまろ)氏について、上村武男さんが『哲学徒と詩人』(編集工房ノア 1985刊)に約80頁にわたって詳述されており、偶然にも読了したところでしたので、参考になるかどうか分かりませんがそのメモを投稿させて頂きます。
(著者の上村さんは、尼崎市在住の神主・学校法人水堂学園理事長で、哲学や詩に関する複数の著作があり、静雄詩も本書において数篇が引用されています。)

1、伊東静雄全集年譜における青木氏および『呂』についての記録。
・昭和7年(1932)7月、青木敬麿、原野栄二等と同人雑誌『呂』を創刊。(40号まで続いた)。(短詩風初期詩篇発表。ケストナー「新即物主義詩」、リルケ「形象詩」を紹介)
・ 昭和8年11月、『呂』の主宰者青木敬麿は胸を病んで、大阪を引揚げ郷里に帰った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*(実際は持病の「心臓病」による激しい発作に見舞われ、10年後にはそれが死因となって40歳で逝去されています。)伊東静雄は、帰郷する先輩に、詩「漂泊」を献じたのだそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「漂泊」
[・・・・・]
め覚めたるわれを巡りて
躊躇はぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
−いま、入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴く−
と告げたる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2、(以下順番が逆になりますが)昭和8年〜同18年(御津)
帰郷した青木氏は生家、兵庫県揖保郡御津町岩見、浄土真宗「西念寺」の第3代住職となります。その境内に「帰南舎」という集会所をつくり、子供達を教え、土地の人達の相談相手をつとめ、推されて地元の「漁業組合長」に選任されたそうです。その間に「善導和尚」「念仏論序説」「念仏の形而上学」などの仏教書を書いています。
昭和18年2月11日鳥取県吉岡温泉で静養中心臓病により死去(40歳)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3、昭和7年〜8年(『呂』の頃)
昭和7年に『呂』を創刊した当頃は、大阪の大谷女学校(阿倍野区共立通)の教師をしながら、高槻市富田の「行信教校」(常見寺内)という宗門の学校で4年間にわたり浄土教学の研鑽に努め励んでいたそうです。

4、明治36年(出生)〜昭和6年
 〜龍野中〜三高〜京大(哲)〜鹿児島師範教師〜福井師範教師〜大谷女学校教師
 

伊藤桂一氏文学碑除幕式

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 8月 3日(月)10時32分55秒
   暑中お見舞い申し上げます。伊東静雄賞創設以来、最終選者の伊藤桂一氏の文学碑が郷里四日市市に建立され、8月23日に除幕式が行われます。「蛍の河」で直木賞受賞、詩集「ある歳の年頭の所感」で三好達治賞受賞、日本芸術院会員としてご活躍中です。

「大阪春秋」取り寄せ拝見しました。これからも伊東静雄に関する文献など、お知らせ下さい。旧制住吉中学21期生の皆さんによる「傘寿記念文集」が発刊されました。戦時下の貴重な資料とも言うべき手記や写真が数多く編纂されていて、発刊までのご苦労がしのばれます。「伊東静雄先生」の章では、当時の思い出が綴られていて詩人の人柄を知ることができます。関係者皆さんにお礼申し上げます。
 

『大阪春秋』平成21年夏号

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 7月 3日(金)16時02分11秒
   『大阪春秋』平成21年夏号の「水と大阪を巡る近代文芸散歩」のトップに、伊東静雄「淀の河辺」が掲載されていますのでご紹介します。興味のあられる方はご一読ください。
 筆者は、宇田 正追手門学院大学名誉教授で、伊東静雄に続いて田辺聖子、小林一三、水上滝太郎、川田順、吉井勇、宮本輝が取り上げられています。
 宇田先生は、淀川べりにある北野高校在学中に創元叢書版『伊東静雄詩集』をひもといて、この一編の詩に触れ、たちまち強く魅かれたそうで、つい最近まで次のように「誤認」しておられたそうです。

 この詩がおそらく自分にとっても懐かしい青春プレイバックの場たる十三か長柄あたりの新淀川の流れの岸辺での「君」と「われ」との愛と別離のレクイエムとして歌われたものと独り合点し、ようやく「春の目覚め」を迎えるようになった若き日の自分と重ね合わせて愛誦していたのであった。
 

「いかなれば」(補/蛇足?)

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 6月26日(金)16時46分33秒
  「夏の詩人」とも言われる静雄は、本来ならば今まさに燦々と輝く今年の盛夏の太陽讃歌を歌うべきところを、去年の太陽のひかりへの「哀歌」を歌い、真昼間に煩く鳴き騒ぐアブラゼミやクマゼミを歌わずに、朝夕ひっそりと鳴く蜩の哀音を歌うのか?(当時街中に蜩が棲息していたかも疑問ですが?)
 実際には、手元にない(空想上の)水中花や金魚を空中に放り投げることまで持ち出してまで、はかなくキラキラと光って散っていく一瞬の金属的反射光のことを歌うのか?
 これらの「なんでやねん」という問いに対する詩人の回答は、「汝らを歌ふことはあらじ」と、自然や写実を歌うことを『拒絶』して、「記憶された事物が呼び起こす感情(詩的直観・芸術的主観)を歌う」のだという自己のスタンス(抒情詩宣言)を「いかなれば」という詩の裏で言っているのだという気がします。別の言葉でいえば「アララギ派日本歌人」側からの「いかなれば」という問いに対する言葉であるようにも、私には思われます。
 

「いかなれば」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 6月25日(木)13時45分39秒
  梅雨の切れ間に、「今年の盛夏のかがや」く時節となり、つい、伊東静雄の「いかなれば」という詩句を思い出して、インターネットで検索すると、チャンと次のようなページが出てきます。本当に便利な時代になったものだと思います。
伊東静雄「夏花」いかなれば<http://www.nextftp.com/y_misa/ito/ito.html

       いかなれば

いかなれば今歳の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。

夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。

いかなれば葉廣き夏の蔓草のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。
曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。

 静雄詩の「いかなれば」という詩語は、源氏物語の「いかなれば花に木づたふ鴬の桜をわきてねぐらとはせぬ」(柏木の歌)を(私には)想起させ、光源氏が女三宮を大事にしないこと(ねぐらとはせぬ)ことへの非難(後ろめたさ?)を込めた元歌のニュアンスを感じさせます。
 静雄詩の「いかなれば」では、「こぞ(去年)の夏の日のひかり」や「蜩の哀音」「水中化」が先ず自分の念頭に浮かぶことに対して、詩人は「いかなれば」と言っているのでしょうね。
大阪弁で言えば「なんでやねん」というところでしょうか。

http://www.nextftp.com/y_misa/ito/ito.html

 

訂正/朗読「声を便りに、 声を頼りに」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 6月13日(土)01時01分24秒
  すみません。wisさんのHPのタイトルを間違っていました。正しくは「声を便りに、声を頼りに」です。「声を限りに」では“演歌”みたいになってしまいますね。謹んで訂正させていただきます。  

朗読「声を頼りに 声を限りに」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 6月12日(金)23時57分41秒
  wisさん 佐藤さん こんばんは
wisさんの朗読「声を頼りに 声を限りに」http://koenoizumi.art-studio.cc/を「お気に入り」に登録して、愛聴させていただいております。今回は「伊東静雄詩集3」として詩集『反響』から次のような詩を朗読していただいております。

伊東静雄詩集3 「反響」〜小さい手帖から(全編) new!
 「野の夜」「夕映」「雲雀」「訪問者」「詩作の後」「中心に燃える」「夏の終わり」  「帰路」「路上」「都会の慰め」−2009/06/11ー

全部で約20分位です。仕事から帰って、風呂上りの寛いだ時間に、一人で聴くと、心の芯まで響きます。皆さん。是非、ご試聴下さい。

http://koenoizumi.art-studio.cc/

 

<すべてのものは吾にむかひて死ねといふ、わが水無月などかくはうつくしき。>『水中花』より

 投稿者:佐藤  投稿日:2009年 6月12日(金)21時47分32秒
  皆さん、お久しぶりです。私もご無沙汰しております。

 6月の万象が光るこの時期になると、『水中花』が思い起こされてきます。自己の生の輝きに対する憧れと、それを滅ぼうとする死への誘惑。”生と死”という事象に対して、これほど美しくまた怪しく歌った詩は他に類を見ないでしょう。

 wisさん はじめまして

私も『水中花』によって救われたかも知れません。
 

お久しぶりです

 投稿者:wis  投稿日:2009年 6月12日(金)21時01分47秒
  ご無沙汰いたしております。
いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
東京は、今朝、久しぶりの、
それは、突き抜けるような澄み切った青空でした。
しばらく、追われ気味で躓きそうだった私は、
心体(からだ)が解き放たれて行くような感覚に、心がほぐされていくままに深くため息をしました。

morganさんの以前のアドレスへご連絡したのですが、宛先不明で戻って来てしまったものですから、
こちらへ投稿させていただきました。突然に申し訳ありません。


久しぶりに伊東静雄氏の詩を読みました。
もし、まだ、朗読をお聴きいただくことがあるようでしたら、お時間の許す時にでも、
お聴きいただけたら嬉しく思います。

私自身、
読んでいくにつれ心は深く浸され、潤っていくようでした。
とても欲して(ほっして)読んだのです。
安心し、安堵しました。
聴いてみると、ここのところ追われているオーディオブックを読む時とは全く違う声でした。
懐かしいような・・・。

救われたのは、私自身だったのかもしれません。


言葉にするのはもどかしく、難しいばかりですけれど、
突然、失礼とは思いながらご連絡させていただきました。
こちらは皆さん、研究のための情報交換を目的とされている場所なので、
この投稿は、この場には少し感傷的過ぎるかもしれません。申し訳ありません。
久しぶりに読んだ伊東静雄氏の詩に深く満たされたので、そのことだけ、是非お伝えしたかったのです。

失礼を深くお詫び申し上げます。


wis
 

閑話・「無観」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 6月 4日(木)15時26分18秒
  古本屋や骨董品店の話ばかりすると余程のヒマ老人と見做されそうですが、先日『天真』と墨書された相当に古い(江戸?)横額を格安(百円)で買いました。(NETオークション)“これは良寛詩の「騰々任天真」という詩句と何か関係があるのかな”、などと漠然と考えながら、現在は床の間の上手前の壁に掛けています。
 柳田聖山氏によれば、「騰々任天真」は、「のほほんのほんと、天真仏にお任せしてある」という意味だそうです。(NHKライブラリー柳田聖山『良寛』) ちなみに、良寛の師匠の大忍国仙が与えた「印可状」には次のように書かれています。

「騰々任運得誰看」(とうとうにんうんだれをえてかみせしめん)
  ・・・“のほほんのほん、どこにでも気軽に飛んでいくお前を、いったい誰が引きとめたり、看視できるものか”

これらの解釈の詮索は一応おくこととして、良寛ほど「伝記的な逸話」によって真相が歪められている人物も少ないのではないかと言われていますので、少しでも真相を知りたいと思い、古本屋で『良寛禅師の真実相』(長谷川洋三 名著刊行会)という本を見つけて買ってきました。この本によると、「騰〃任天真」の詩句は以下のようになります。(ニュアンスが随分違います。)

 不生無相という自己の内なる佛に任せてゆったりとしている。

 その他にも、次のような説が載せられています。(短か過ぎて分かりにくいかもしれませんがおもしろいので)

*「手毬唄」(つきて見よ ひふみよいむなここのとを とをとをさめて又始まるを)
・・・・・坐禅の折の「数息観」(呼吸の回数を数えることによって精神集中する修業)を表す。

*「天上大風」(てんじょうおおかぜ)
・・・風を孕んで大空に舞う凧そのものと一体になる(入我我入、無観)「芸術的主観」
・・・『法華経』(観世音菩薩普門品偈)・・・対象を迷いなく観てとる清浄な眼(真観)・宇宙の一切が自分と一体である観じる広大な眼(清浄観)・苦しみ悩む全ての者を救ってやらねばならない大悲の思いに満ちた眼(広大智慧観)・(悲観)・(慈観)
 しかしながらこの「五観」に捉われない「天上大風」という無観こそ最高。
 

「冒険ののち」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 5月21日(木)17時50分29秒
  上村さんのご紹介がありました講談社文芸文庫『伊東静雄』(杉本秀太郎著)を読みました。同書筑摩書房版も持っておりますが、筑摩書房の破産・再建という事情によって消えてしまう運命にあった(?)ところを、講談社文芸文庫刊によって生き延びさせて頂いたのではないかと思うと、喜ばしいかぎりです。
同書解説「冒険ののち」(原 章二)が新たに付け加えられておりますが、この解説は非常に興味深く読ませて頂きました。その中から一部を抜粋して記載します。詳細は同書をご一読下さい。

『伊東静雄研究』に続いて書かれたいくつもの静雄論は、[・・・・・]いわば詩と詩人との身元を調査し、詩を生み出した事件の犯人とその共謀者を捜索し、[・・・・・]実際に益体無きものである。
これに対して、杉本秀太郎の『伊東静雄』は、ひとつの冒険なのである。[・・・・・](『わが人に与ふる哀歌』はしかるべき遅さで読むことによって)前例のない詩集として存在する。
[・・・・・] 杉本秀太郎はこの本のなかで、含羞の笑みを半ば隠し半ば浮かべて、伊東静雄とディアレクティックな対話をしたのである。[・・・・・]
 

杉本秀太郎著「伊東静雄」再版

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 5月17日(日)08時31分30秒
  1985年(昭和60年)筑摩書房から出版された近代日本詩人選(全20巻)伊東静雄ー杉本秀太郎著が、講談社(文芸文庫)から再版されました。詩人の伝記的箇所を排除して、詩集「わがひとに与ふる哀歌」28篇を「私」と「半身」という二人の擬作者に割り振ることで、詩人の野心を読み解く著作です。  

井上靖と「蝉の声」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 5月13日(水)00時33分5秒
  気温が25℃を超えて夏日となることも珍しくなくなりましたが、爽やかな晩春です。
去年8月の投稿で、井上靖「一期一会」の中の文章の一部を引用して(蝉の声を聞いて)「井上靖氏のように吐き気が誘発されるかどうか?…少しオーバー気味か?」と書いたのですが、同氏の『私の自己形成史』に次のような文章がありましたのでご紹介します。(こちらのほうが、同氏が「吐き気」を催した状況を正しく伝えており、よく理解できますので、ご参考のために)


(昭和24年6月、『猟銃』を読んだ佐藤春夫に激励されたことに余程感動したらしく、井上靖は以下のように述べています)

 私は処女作の『猟銃』を書いたとき、それを人を介して佐藤春夫氏に読んでいただき、そうしたことで佐藤春夫氏にお目にかかる機会を持ったが、その日、自宅へ帰って机に向かい、蝉の声を聞いているうちに、めまいと嘔吐感を感じて、その場に俯伏した。この時私はふと伊東静雄の『庭の蝉』といった詩の一節を思い出した。それには蝉の声の中に、
一種前生の思いとめまいを伴う嘔吐感があることを指摘してあった。私は自分の作品を佐藤春夫氏に読んでいただいた興奮の中で、何とも言えず伊東静雄を懐かしく思った。その時の氏に対する親近感は、自分ながら異常と思われるほど烈しいものであった。

 また、『井上靖全詩集』に「春の日記からーある人の死にー」というのがあります。

[・・・・・]
 その晩、春の風が吹いた。風の音は長くあとをひいて聞こえていて、次第にかぼそくなり、やがて消えた。風の音がもう聞えなくなった時、あなたは何事か起こらねばならぬと信じたのだ。しかし何事も起こらなかったので、あなたは自分が姿を消したのだ。
 

情報有難うございます。2

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 5月10日(日)07時52分1秒
  前稿において「詩人、その生涯と運命」に、「師への鎮魂」の全文引用と書きましたが、一部抜粋のようです。morgenさんのコピーを楽しみにしています。当初詩集名は「晩春」が予定されていたが、詩篇推敲が必要のため出版を靜雄が延期させ、「わが手に消えし霰」と改題したが、出版社が嫌って(?)実現できなかった。やがて田中光子は小説に情熱を傾け、川端康成の門をたたき、三島由紀夫と知合うのでしょう。昭和37年「新潮」10月号に小説「鯉の肌」を発表していますが、大きな話題にはならなかったようです。やがて昭和45年、靜雄が跋代わりに与えた「中心に燃える」と三島の序文で詩集「わが手に消えし霰」を発刊したのは、靜雄の死後17年も後のことです。彼女はその後2冊ほど詩集を出版しているようです。

「あるかんば隊」のみなさん お疲れ様でした。ご活躍を祈ります。
 

情報有難うございます。

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 5月 9日(土)22時35分56秒
  morgenさん 有難うございます。田中光子詩集「わが手に消えし霰」に関しての資料は、「詩人、その生涯と運命」〜初版P795〜で小高根二郎が、跋「師への鎮魂」の全文を引用して、独特の読みでこの跋を解説しています。靜雄が張り切って田中光子の詩を指導したことは、書簡等で明らかであり、創元社「百花文庫」から刊行が予定されていたにも拘らず(序詩 中心に燃える・・)、静雄の生前には出版されず、昭和45年になって牧羊社から刊行された事情は何だったのでしょうか。創元社は当初から「わが手に消えし霰」の詩集名が長すぎるとの苦情を申し出ていたようですが、本音は別にあったのではないでしょうか。  

歩いてきました・・

 投稿者:『あるかんば隊』のココペリ〜♪  投稿日:2009年 5月 8日(金)22時35分57秒
   ご無沙汰しています。ご報告が遅くなりましたが、4月19日に
『南河内・伊東静雄終焉の地を訪ねて』ウォークをしました。
HPにアップしていますので、宜しかったらご笑覧ください。
  http://www.k2.dion.ne.jp/~kanko-dk/walk.html
 

田中光子第一詩集「高原」1942年

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 5月 8日(金)21時21分58秒
  下記のURLで検索して下さい。(何回もスミマセン)
これによると、伊東静雄の指導による第二詩集は結局は発行されず、三島由紀夫の協力により第二詩集『わが手に消えし霰』が昭和45年に発行されたということになります。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/library/ta/tanakamitsuko.

 

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