伊東静雄を偲ぶ
伊東静雄研究会
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(閑話休題)「神韻縹渺」ほか
投稿者:
morgen
投稿日:2008年12月 5日(金)12時59分36秒
前稿『子規の俳論』に引用されている朔太郎『詩の原理』に次のような文章がありました。
(芸術的主観の意味は、[…]それは即ちひとつの物象の全体から)「あの概念の殆ど言明されない様な、縹渺たる象徴的具体的な観念(イデア)」(『詩の原理)を感じとることである。
この「縹渺たる」というのは、朔太郎『月に吠える』に始まり何回も使用されています。その更に始源は北原白秋『邪宗門』の前文〜白居易“長恨歌”にあるようです。
・(唐)白居易 『長恨歌』…「山在虚無縹緲間」
・北原白秋『邪宗門』…詩の生命は暗示にして単なる事象の説明に非ず。筆にも言説にも言い尽し難き情趣の限りなき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺なる音楽の愉楽に憧れて、自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。
・WEBから調べるとつぎのようなのもあります。
「神韻縹渺」 芸術作品などがもっている、表現しがたいきわめてすぐれた奥深い趣。▽「神韻」は詩文などのきわめてすぐれた趣。「縹渺」はかすかではっきりしない様子、ほのかに見えるさま。 「渺」は「緲」「眇」とも書く。
・12/7 アルマ・マータ・クワイアの「春のいそぎ」は当日券がまだありそうです。
お問い合わせは:木本様0798−53−5331まで
・12/10静雄誕生日に因んで、多良岳に自生していた原種山茶花に似ていると思われ る写真を添付してみます。
伊東静雄の『詩論』
投稿者:
morgen
投稿日:2008年11月27日(木)14時09分3秒
伊東静雄の『詩論』―実は、そのような本はありません。
わずかに、卒論「子規の俳論」「談話のかはりに」(『呂』昭和7年11月、12月号)などが伊東静雄の「詩論」として残されたものだと言われています。
『定本全集』418ページ掲載の大山定一宛、富士正晴宛書簡なども、伊東静雄「詩論」のひとつとして私には興味があります。(長くなるので詳しい引用は省略しますが原文をご参照ください)
大山宛:(リルケの新詩集を読んで)「詩だけでしか表現されない種類の、思考の正確さ・・・・・」
富士宛:「實を云ふと作品の表現論は、一つの作品には一つしかないので、…(無意識に感じとるもの)[・・・]これは一冊の本にする時のために考へてゐて云ふのです。[・・・・・](伊東静雄は『詩論』を書く予定であった)
「談話のかはりに」のなかで、E.ケストナーの詩(自訳)を掲載したのに続けて「新即物主義といふのは、文字通り、なるべく事物に即し、明澄な鏡での様にこの紛雑した世界に対し、それを透徹しようといふのらしい。表現主義のアンティテーゼで、[・・・]」
(ちなみに、「表現主義」というのは、「印象主義」のアンティテーゼとして提唱されたもので、感情を作品中に反映させて表現するもので、特に不安や、葛藤などの人間心理の暗く、邪悪な面をあらわに表現する傾向がある。)
当HPには、“昭和2年(1927)5月 夏頃よりしきりに短歌を習作する。11月 黒谷瑞泉院で行われたアララギ歌会に出席、同席の歌人たちに失望、以後アララギへの関心を失う。21歳”という記載がありますが、これに引き続く、同3年「美しき朋輩達」、同4年「子規の俳論」、同5年「空の浴槽」、同7年「呂」、同8年「コギト」という伊東静雄のその後の足跡は、リルケやケストナーを学んだ京大時代に既に始源を発するのではないかと私は思います。
「リルケと俳句」(清水書院「リルケ」星野慎一、小磯仁共著)は、非常に参考になります(未読の方はご一読を薦めます)。リルケの墓碑銘は、俳句(HAI-KAI)の一種だといわれる学者もあります。
私は、リルケの生涯と良寛の生涯との間に多くの共通性があることに感動しました。
子規の俳論
投稿者:
上村紀元
投稿日:2008年11月20日(木)21時25分29秒
「子規の俳論」で、静雄は、正岡子規著「松羅玉液」(しょうらぎょくえき)の文中から『主観的なものに二種あり、一を感情的なもの、一を知識的なものとす。前者は文学に属すれども、後者は文学に属せず。』 を引用して、「この言は正しい。芸術的主観の意味は[・・・]それは即ち一つの物象の全体からあの概念の殆ど言明されない様な、縹渺たる象徴的具体的な観念」(詩の原理)を感じとることである。」と補足している。芸術的主観という言葉は感情的主観と解してよいのではないでしょうか。
子規は芸術における主観を知識に堕させない最良の方法として、写生主義を唱えますが、静雄は、その方法は単に啓蒙的な意義しか持ち得なかった。と述べています。
余談ですが、「子規の俳論」の卒論は、子規と文学論争を交わした諫早出身の野口寧斎(漢詩人)を意識して著述されたのではないかと思います。今日野口寧斎の詩業が見直され、その詩想が研究されています。(静雄の漢詩もあり)また長與善郎(大村)の文献引用等、郷土先哲者への思いが感じられます。この論文を高く評価した潁原退蔵も長崎県五島の出であったことも不思議な縁でありました。
「子規の俳論」と『詩の原理』について
投稿者:
morgen
投稿日:2008年11月20日(木)16時20分29秒
「秋」
木の葉が散る、遠い所からのように散る、
どこか空の遥かな園が冬枯れてゆくように。
木の葉は否むような身振りで散ってくる。
そして夜々、重い大地は
星々のあいだから寂寥の中へ落ちる。
[・・・・・]
<リルケ『形象詩集』から>
「芸術的主観(直観)」という用語は、どこから始まったのか?・・・こんな素朴な疑問を抱きながら、仕事の合間にヘルダーリンやリルケの文庫本をめくって字探しをしていたら、リルケの有名な詩「秋」で止まってしまいました。今の季節にぴったりの詩ですね。(まだ「芸術的主観(直観)」の用語は見つかりません。)
参考までに、伊東静雄が「子規の俳論」において『詩の原理』から引用しているのは、次の「 」の部分です。
芸術的主観の意味は、[・・・]それは即ちひとつの物象の全体から「あの概念の殆ど言明されない様な、縹緲たる象徴的具体的な観念」(『詩の原理)を感じとることである。
年譜(『全集』)によると、昭和3年10月に「正岡子規全集」を購入していますが、同12月に『詩の原理』も購入したのだろうと思います。(小高根二郎『詩人の運命』をご参照ください)
卒論提出が昭和4年の1月頃と考えると、伊東静雄はそれらの書籍の内容に影響されて「子規の俳論」を推論したのではなく、それまでに基本的な考えは既に固まっていて、卒業論文作成の必要上「正岡子規全集」その他のの書籍を購入して、そこから該当文章を引用したのではないかと思います。
「芸術的直観の象徴的表現」という伊東静雄の詩論は、ドイツロマン派の詩論に通じるものと思いますが、その出典は引き続き探してみます。
ちなみに『呂』の「談話のかはりに」の中で、(リルケの『形象の本』について)「常々僕は詩が散文と分派する第一歩はこの譬喩的精神である」と述べています。リルケも「短詩型と俳人の詠視に西洋のエピグラムとは異質の、自分の詩との深い関わりを認める鋭い柔軟性につらぬかれていた。」(『リルケ』星野慎一・小磯仁共著/清水書院)そうです。伊東静雄が、アララギ派短歌と決別し、短詩時代(『呂』を経て、「哀歌」に至る4〜5年の間の変遷の足取りやそのきっかけになった事件なども私には興味のあるテーマですが、このリルケの関心に何かヒントが隠されているように思います。
萩原朔太郎の「主観」「客観」に関するベルグソンその他の心理学に関する研究の跡は「未刊ノート」に収録されています。『三木露風一派の詩を追放せよ』『新しき欲情』などにおいて朔太郎が論敵としたのは「当時の文壇を支配していた、末期自然主義の悪しき現実主義であった」(中村真一郎「萩原朔太郎・その生涯と作品」)という辺りに両者の共通点は認められますが、伊東静雄が、萩原朔太郎に本格的に強い興味を持ったのは「コギト」期(昭和7〜8年頃)からではないのかと私は思います。
『詩の原理』刊行まで(10年間)
投稿者:
morgen
投稿日:2008年11月18日(火)13時57分10秒
こんにちは
会社の昼休みに書いていますので手元資料がなく不確かですが、テーマが面白そうなので私も「いっちょうがみで」参加させてください。
初版『詩の原理』の序で、朔太郎は次のようなことを書いています。
本書を書きだしてから、自分は寝食を忘れて兼行し、3か月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆ど約10年間を要した。[・・・]
ずっと昔、自分と室生犀星等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於いて、本書の近刊広告が出ていた[・・・]。
その10年間について、次のような記録が散見されます。(ネット検索)
・この10年前というのは1918年(大正7年)、4月号『感情』
・1921年(大正10年)3月、前橋の詩歌人たちと毎週一回文芸座談会を開催、主 として「詩の原理」を講話。
・刊行された昭和3年12月までにも、その概要は公にされていた可能性がある(?)
また、『偲草』においては、「・・・先生はそれら無益と思われる相手に対しても堂々と 一つ一つ正論を以て説かれた。それはつねに昂然たる詩の原理であった。・・・」と書かれていますが、この場合の詩の原理は、書籍としての『詩の原理』ではなく試論そのものてあることは明らかです。
「芸術的主観」についても興味があるのですが、時間がないので改めて投稿します。
ありがとうございました
投稿者:
nyshiyan
投稿日:2008年11月18日(火)11時57分27秒
萩原朔太郎の『詩の原理』には、キーワードのように主観、その有り様がくりかえし追求されていますが、伊東静雄の「芸術的主観」という言葉がどこからきたのかなと疑問に思っていました。萩原朔太郎の『詩の原理』を読んでいるはずだと思っていましたが、伊東静雄の「子規の俳論」の「芸術的主観」という言葉自体は、漱石の『文学論』にも、朔太郎の『詩の原理』にはなかったように見受けられます。ただ、「子規の俳論」自体は、『詩の原理』の大きな影響下にあると思えます。
さっそくのご返答ありがとうございました。
「詩の原理」お尋ねの件
投稿者:
上村紀元
投稿日:2008年11月18日(火)10時55分47秒
伊東静雄が京都大学卒業論文「子規の俳論」の記述にあたり、長與善郎の「芸術の二道」の文章を引用して、子規の言う芭蕉批判について弁護していますし、他に夏目漱石の「文学論」や室生犀星「芭蕉雑記」等の参考文献がみられます。そのなかに萩原朔太郎の「詩の原理」については、熟読を重ね、この論文の結論付けを行っています。「子規の俳論」のいたるところに朔太郎の「詩の原理」の影響がみられます。ご指摘のように「詩の原理」は昭和3年12月初版されました。論文の構想を練っているか、大枠の論述が組成されていた時機に静雄の眼にとまったと思われます。朔太郎の論調は静雄の詩作へのヒントとなりました。昭和10年「哀歌」を絶賛した朔太郎とは奇しき縁があったと思われます。
お尋ねします
投稿者:
nyshiyan
投稿日:2008年11月18日(火)01時23分9秒
このホームページの「生涯」(年譜)の昭和3年の項目に、「萩原朔太郎の「詩の原理」読み、感動。」とありますが、その拠り所を教えていただけないでしょうか。萩原朔太郎の『詩の原理』(新潮文庫)の「解説」(伊藤信吉)では、「初版は昭和3年12月」とあります。伊東静雄はその本を読んでいたのではないかと思っていますが、『伊東静雄青書簡』を含めて、書簡にはそのことはなかったような気がします。
よろしくお願いします。
「菜の花」と詩人
投稿者:
morgen
投稿日:2008年11月11日(火)17時02分22秒
「菜の花・・・」と言えば、蕪村「菜の花や 月は東に日は西に」という句が思い出され、江戸時代には北野〜長柄〜毛馬一帯は、春ともなると見渡す限りの「菜の花畑」が拡がり、そもそも「鶴野茶屋」「茶屋町」という地名の発祥は・・・・・などと、御隠居さんの見てきたような講釈が飛び出しそうです。
ところが「菜の花や 月は東に日は西に」という蕪村の句は、摩耶山で詠まれたものらしいです。(すなわち神戸の菜の花,瀬戸内海の月と夕陽でした)
大山崎の油商人が流通を独占した胡麻油に代わって、菜種油が重要な燃料になった江戸時代には、河内平野の菜種油は、綿花とともに重要な産物であったと言われています。その名残は戦後まで引き継がれて、河内長野一帯にも広大な菜の花畑が展開していたのだと思います。
私の生家は添付写真の右端の丘の上に在りますが、伊東静雄が少年時代を過ごした場所はこの写真の左端の(写真からは外れる)位置にあり、この小野地域一帯は、春になると見渡す限りの菜の花畑でした。地元の農家は、菜種油を収穫した後にアブラナの殻を山のように積んで殻焼きをし、田を鋤で起こして田植えをしました。まっ黄色に染まった菜の花畑と、菜種殻を焼く煙がたなびく晩春の景色をを多良岳の麓の丘の上から眺めた記憶は、今でも郷愁を誘うものであります。(この風景は、今や全く失われました。)
臨終の床にある詩人の脳裏では、河内長野一帯を埋めつくすように咲く菜の花が、故郷からのお迎えのように詩人を包み、永遠の帰郷に誘ったにちがいありません。
山本皓造先生へ
投稿者:
『あるかんば隊』のココペリ〜♪
投稿日:2008年11月 5日(水)15時43分48秒
もう間もなく、立冬ですね。 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。
早速ですが、山本皓造先生のご著書『伊東静雄と大阪/京都』を、お分けください。
昨夜本棚から、復刻版『わがひとに 與ふる哀歌』を取り出し開きましたら、冊子が挟まれていて
そこに、上記の先生のご著書が紹介されていました。
「本当に必要としている時に、必要なものに出会うことができる」そんな驚きと喜びの気持ちで
いっぱいになり、本日出版元の竹林館さんに連絡をとりました。
「この本は、山本先生がお持ちです。直接ご連絡をして下さい」とのお返事でしたので、この
掲示板をお借りして、お申し込みをさせて頂きます。 ご連絡を、よろしくお願いいたします。
私のメールアドレスです。 momochan-3@m2.gyao.ne.jp
河内平野の菜の花ウォーク〜♪
投稿者:
『あるかんば隊』のココペリ〜♪
投稿日:2008年11月 3日(月)00時56分42秒
KATUYASUさま、早速のお申し込みを、ありがとうございます。
東高野街道を絡めながら歩きたいので、石川の両岸を菜の花が埋め尽くす頃に、スタートは近鉄『古市駅』以南
の何れかの駅で、ゴールは南海・近鉄『河内長野駅』の予定です。昼食場所は、錦織公園あたりになりそうです。
萩原天神駅周辺も、一度は訪ねてみたいところです。伊東静雄が住んでいた頃は『南河内郡黒山村北余部』だった
地名が、今は『堺市美原区北余部』に変わっています。北余部の町の真ん中を、今は阪和自動車道が走っています。
風景が変わり、当時の面影はもうないのでしょうか。
『こじき組』を結成して、伊東静雄にゆかりのある土地を訪ねたり、そこで読まれた詩を味わうというのも、面白い
かもしれません。 心斎橋や難波や天王寺界わいなどで、足跡をたどるのも・・
『アルマ・マータ・クワイア』の演奏会には、あるかんば隊のメンバーと出かけます。伊東静雄の詩が、どのように
表現されるのでしょう、楽しみです。 会場で、お目にかかれるかもしれませんね。
ウオークの件
投稿者:
KATUYASU
投稿日:2008年11月 2日(日)20時36分32秒
あるかんば隊さま今晩は 河内長野の国立南大阪病院へのウオーク企画されているようで、私は隣町の大阪狭山市に住んでいますので、前回のように参加したいと思います。それと彼が病院に入院する迄住んでいた手前の駅、萩原天神駅周辺はまだ行ったことがないので合わせて企画されればとも思います。場所の特定が難しいかも知れませんが。
12月7日の合唱のコンサートいずみホール「春のいそぎ」とともにショスタコーヴィチの無伴奏の合唱曲等も演奏されるようで行くつもりにしております。
リンクノ画像
投稿者:
KATUYASU
投稿日:2008年11月 1日(土)22時04分16秒
山本さんお手数をおかけします。私のパソコンでは一度大きな画面が出てすぐ小さな画面になるのです。それでそのままマウスを画面の右下に持っていくと四角い表示が出て(通常の画面に戻す)それををクリックすると大きな画面となり字の認識が可能となりました。ただ、印刷はA4なのでやはり見ずらいですが。貴重な資料、参考になりました。
ウォークの 案内です〜☆
投稿者:
『あるかんば隊』のココペリ〜♪
投稿日:2008年11月 1日(土)20時54分20秒
早くも霜月・・秋晴れの美しい青空に、ツワブキの黄色い花が、眩しいくらいに映えています。
私の通学路の途中にあった、本明川が大きく蛇行するあたり、山下淵と呼ばれる所は城山の山裾にあり、
そこには斜面いっぱいに、ツワブキの黄色い花が咲いていました。今ではもう、遠く懐かしい風景です。
今回は、京都府木津川市加茂地区を歩きます。大病から復活された隊員を祝し、隊員の地元を歩きます。
下村脩さんの薬学部の後輩でもあり、伊東静雄の話題もたくさん出て、楽しい一日になりますように〜。
あるかんば隊HP
http://www.k2.dion.ne.jp/~kanko-dk/walk.html
来春は、伊東静雄の終焉の地『河内長野分院』周辺を歩いてみようと、地形図を広げて睨めっこしています。
今の国立病院機構大阪南医療センターで、勤務している知人に、伊東静雄に関する情報はないか尋ねました。
『ご依頼の件ですが、早速当院の管理課長に尋ねてみました。古いことなので、資料が残っているかどうかわからないが、一度調べてみるとの返事をもらいました。あまり期待せずにお待ちください。昭和30年代の病院の全景を写した写真は見たような記憶があるので、そういうものは、残っている可能性があります。
手元に当院の創立50周年記念誌がありますが、大したことは載っていません。 沿革としては、
昭和20年12月:国立大阪病院
昭和22年:法円坂に大阪病院が移転し、当院は河内長野分院となった
昭和32年10月:国立河内長野病院
当初は53834坪と広大な土地を有していたが、徐々に縮小されたようです。
伊東静雄が入院していた当時は、さぞかし広々していたものと思われます。
戦前は陸軍幼年学校があったそうです』
53834坪がどれくらいの広さなのかは、全く想像もつきませんが・・三年半を過ごした療養の地が、広々としていたこと・・何だか少し、救われた気がしました・・
河内長野分院から、二上・大和葛城・金剛・和泉葛城・・の山々は、どんな山容で見えていたのでしょう。
この山並は、静雄の心に語りかけ、励まし、守り・・そんな存在ではなかったかなぁ〜と想像しながら・・
河内平野に菜の花の咲く頃に、ウォークができることを夢見ています。 皆様も、たくさんの事ご教示下さい。
リンクの画像について
投稿者:
山本皓造
投稿日:2008年11月 1日(土)09時24分56秒
morgenさんに代わってお答えいただいて解決済みで、さらに私が言うこともないのですが、もしや、と思うので……
KATSUYASUさんは私の投稿で
伊東・小野対談前半
伊東・小野対談後半
というところをクリックしていただいたでしょうか。
私のパソコンの場合には、クリックすると別ページが開いて、
10秒後に
http://www.geocities.jp/rtxkp473/itou-ono1.jpg
へ、移動します。
自動で移動しない場合は、「
ここ
をクリックしてください。
というメッセージが出、10秒後、ないし「
ここ
」をクリックすると、ページが切り替わって、大きな画像が出ます。この文字はそのままパソコン画面で充分読むことが出来ます。
対談の件
投稿者:
KATUYASU
投稿日:2008年11月 1日(土)08時37分53秒
morgenさまアドヴァイス有難うございました。なんとか拡大でき読み取ることが出来ました。非常に貴重な資料ですね。小野の「詩論」が復刻したようであわせて読んでみます。
伝説の階段教室対談
投稿者:
morgen
投稿日:2008年10月31日(金)10時37分19秒
おはようございます。
KATUYASUさんのお悩みに対する回答になるかどうか分かりませんが、(私のやりかたを書きますと、)まず右クリックで「マイピクチャー」に保存し、それを画像として修正や拡張をした上で再保存し、印刷すると読み易いです。
山本さんの本棚からは、毎度色々な「宝物」が飛び出すので楽しみにしています。
小野さんの『奇妙な本棚』(詩についての自伝的考察 昭和39/6)という本に、今や伝説となった「住中階段教室対談」のことが書いてあります。内容は、夕刊『新大阪』と似たようなことですが、同心円で大阪の地図を描いて小野さんの詩を説明した伊東静雄の説明方法がとても印象的で、想い出に残ったと書いておられます。
両詩人の共通するところは、どちらもリルケの「形象詩集」に牽(惹)かれて、詩作をした点にあります。
(小野「私としてはこれは“抒情の否定”という方法の実践をやってみたわけで、主観や主情によって現実を浅く掬ってしまう従来の詩の方法を捨てて、風景自体のボリュームによって苛烈な現実を歌おうとしたのだ。)
住中新聞が保存されていたとはまさに“サプライズ”です。
小野『大海辺』と伊東『反響』の出版記念合同パーティーが行われたと『奇妙な本棚』に書いてありますが詳細は不明です。
小野『大海辺』は、藤永田造船所での徴用時代やカツギ屋稼業をしておられた頃の経験や情景がもとになっているようです。住中新聞の似顔絵は、このカツギ屋時代の小野さんのお顔を写生したものだろうかと想像すると笑えますね。
リンクの見方
投稿者:
KATUYASU
投稿日:2008年10月31日(金)08時10分32秒
以前からの悩みですが、山本様の貴重な資料見るのですがすぐに画面が小さくなり見れないのです。良い方法があれば教えてください。
それと野呂さんの「詩人の故郷」は「小さな町にて」と言う好エッセイのなかに入っております。(文芸春秋)図書館でも探して読まれたらいいかもです。
住中新聞のこと
投稿者:
上村紀元
投稿日:2008年10月29日(水)17時44分12秒
山本様
貴重な資料有難うございます。この座談会のことは、「詩人、その生涯と運命」(小高根二郎著)で、小野十三郎が記した「新大阪新聞ーどんたく随筆ー」で垣間見る事が出来ますし、「伊東静雄研究」の中では座談会の司会をした中西靖忠先生がこのことについて記されていますが住中新聞は初めてです。
中西先生は昭和21年住中に赴任されていて、生徒は静雄のことをコーチャンと呼んだり虎児気ともじっていたと記されている。(静雄が住中に就職したのは昭和4年だから17年も経過している。)こじきとは、就職時の身なりが余りにもみすぼらしいことに由縁している。21年当時でも体裁を飾ることなく、ズボンのバンドは無く、奥さんの腰紐みたいなもので腰をしめ、ドタ靴で闊歩していたことが記され、住中新聞にも静雄の顔のスケッチがでているが、無精ひげーまさにルンペンの様相であることがわかります。諫早人そのものを生徒に見せていたのでしょう。人間は中身だよと・・・。
階段教室の小野と伊東
投稿者:
山本皓造
投稿日:2008年10月29日(水)12時35分0秒
探し物をしていると、珍しいものが出てきました。
昭和22年10月21日、住中の階段教室で小野十三郎と伊東静雄との「文化座談会」が行われたことは、わりとよく知られていると思います。
その様子を伝える「住中新聞」のコピーを発見しました。
画像が大きいのでこの掲示板からはみ出します。
下記のリンクでご覧ください。
伊東・小野対談前半
伊東・小野対談後半
イメージはだいたいこんな感じです。
以上は、新着順121番目から140番目までの記事です。
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