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住高詩碑を背景にした下村博士のスナップ写真(上原さん撮影)を拝見して、次のような沈黙の会話が、2人の間で交わされたのではないかという勝手な幻想をいたしました。
「伊東先生。ただいま帰りました。」
「下村君お帰りなさい。よう頑張ったなあ!」
詩碑は墓石ではないのですが、生前付き合いのある者にとっては「よー!」と挨拶をしたくなるものだと或る人が言っていましたが、詩碑を見て、人はどんなことを感じるのでしょうか?
[・・・・・]
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ・・・
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
(「曠野の歌」から)
「住高の『曠野の歌』詩碑は、青年達にどのようなメッセージを発しているのか?」
こんな設問をして、昭和14年から昭和9年へ遡行する方法で、私なりの回答メモを作って見ました。少し強引で恥ずかしい感じもしますが、参考までに紹介します。(長文になってスミマセン)
1、「そんなに凝視めるな」(昭和14年)(諫早公園詩碑の省略部分)
[・・・・・]
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育だち
あヽ 歓びと意志も亦そこにあると知れ
誰だって、高い理想や夢は持っている。しかし、現実は厳しく、自我を貫き通すことは難しい。自然や目の前の現実社会と調和して生きることを考えたほうがうまくいく。「手に触れる野花はそれを摘みつつ、前進せよ! 生きよ!」
2、「八月の石にすがりて」(昭和11年)
8月の炎天のもとで、蝶でさえ、短くとも幸多き生涯を送り、自分の運命を悟り泰然自若として息たゆるではないか。「運命? さなり!」「われも亦、」「われら自ら孤寂なる発光体」となって、ポジティヴに生きていこう。
3、「曠野の歌」(昭和10年)(住高詩碑)
青年達が閉塞感に囚われ、ややもすれば生きる希望を喪いそうな世相の中で、自分の夢と社会の現実との間のギャップはあまりにも大きい。そんな苦しい時代に、詩人となって、炎のように燃える「詩心」を外部に表現していくことは「痛き夢」を見るようなものだ。そんな時は、セガンティーニが描くアルプスの白銀の峰や、メーリケの「屍骸を曳かむ馬」のことが、ついつい脳裏に浮ぶ。もしそうなれば内部世界の「わが痛き夢」も止むのであるが、外部世界からは生きること(眺めること、歩ますこと)を「私は強いられる」(昭和9年)のである。だから、過ぎ去った青春の夢に拘るのはもう止めて、もっと次元の高い夢を求め、孤独に耐えて生きてゆこう。
下村博士と伊東静雄の会話という出だしからは離れてしまいましたが、3,2,1と逆に読んで頂くと、伊東静雄詩碑から発せられるメッセージが聞こえてくるかもしれません。
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