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台風9号に伴う集中豪雨により兵庫県西部では大変な被害が起きており、被災者の方々に心からお見舞い申し上げます。
兵庫県揖保郡出身の青木敬麿(たかまろ)氏について、上村武男さんが『哲学徒と詩人』(編集工房ノア 1985刊)に約80頁にわたって詳述されており、偶然にも読了したところでしたので、参考になるかどうか分かりませんがそのメモを投稿させて頂きます。
(著者の上村さんは、尼崎市在住の神主・学校法人水堂学園理事長で、哲学や詩に関する複数の著作があり、静雄詩も本書において数篇が引用されています。)
1、伊東静雄全集年譜における青木氏および『呂』についての記録。
・昭和7年(1932)7月、青木敬麿、原野栄二等と同人雑誌『呂』を創刊。(40号まで続いた)。(短詩風初期詩篇発表。ケストナー「新即物主義詩」、リルケ「形象詩」を紹介)
・ 昭和8年11月、『呂』の主宰者青木敬麿は胸を病んで、大阪を引揚げ郷里に帰った。
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*(実際は持病の「心臓病」による激しい発作に見舞われ、10年後にはそれが死因となって40歳で逝去されています。)伊東静雄は、帰郷する先輩に、詩「漂泊」を献じたのだそうです。
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「漂泊」
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め覚めたるわれを巡りて
躊躇はぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
−いま、入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴く−
と告げたる
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2、(以下順番が逆になりますが)昭和8年〜同18年(御津)
帰郷した青木氏は生家、兵庫県揖保郡御津町岩見、浄土真宗「西念寺」の第3代住職となります。その境内に「帰南舎」という集会所をつくり、子供達を教え、土地の人達の相談相手をつとめ、推されて地元の「漁業組合長」に選任されたそうです。その間に「善導和尚」「念仏論序説」「念仏の形而上学」などの仏教書を書いています。
昭和18年2月11日鳥取県吉岡温泉で静養中心臓病により死去(40歳)
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3、昭和7年〜8年(『呂』の頃)
昭和7年に『呂』を創刊した当頃は、大阪の大谷女学校(阿倍野区共立通)の教師をしながら、高槻市富田の「行信教校」(常見寺内)という宗門の学校で4年間にわたり浄土教学の研鑽に努め励んでいたそうです。
4、明治36年(出生)〜昭和6年
〜龍野中〜三高〜京大(哲)〜鹿児島師範教師〜福井師範教師〜大谷女学校教師
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