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“Morgen” von Richard Strauss

 投稿者:morgen  投稿日:2009年11月 6日(金)17時18分41秒
  こんにちは
「堺市民芸術祭参加フオーラム」で、「伊東静雄と堺」というテーマでの展示や講演が催されるというニュースを知り、(やっとと言うか、思わず)「良かった!良かった!」と叫びたい気持ちです。
 先日、tenatus 様が「杉本秀太郎の伊東静雄論」についてテーマの提起をされていましたので、何か考えてみようと思っていたのですが、まだまとまりません。
 ついでと言ったら悪いですが、下記のURLのブログ(京都造形芸術大中路正恒先生「世界という大きな書物」)に、これに関連して参考になるエッセーが掲載されていますので、興味のあるかたは覗いてみてください。
 ドイツにおいて「太陽」は、(ゲーテの詩に歌われているように、)人々に幸福をもたらすものであり、明日もまた太陽が照り「「われわれ幸福な者たちをふたたびひとつにするだろう」そして「無言のままわたしたちは互いの目を見つめ合い、わたしたちの上には、幸福の、無言の沈黙が降りてくる……」(中路正恒訳)

http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/index.htm

 

第4回 菜の花フオーラム 開催のお知らせ

 投稿者:上村 紀元  投稿日:2009年11月 5日(木)20時27分4秒
  「諫早が生んだ 野口寧斎と伊東静雄の文学」

とき:平成21年12月12日(土)午後1時〜
ところ:諫早図書館 視聴覚ホール
主催:伊東静雄研究会

事前の申込みは不要です。無料。お気軽にお出かけください。
 

堺市民芸術祭参加フオーラム

 投稿者:上村 紀元  投稿日:2009年11月 5日(木)20時19分56秒
  「伊東静雄と堺」

とき:平成21年11月15日(日)午後2時〜4時
ところ:堺市立中央図書館 電話072−244−3811
講師:坂東まき氏 佐藤隆一氏
   先着80名 電話で申込みのこと 入場費500円
 

杉本秀太郎の伊東静雄論

 投稿者:tenatus  投稿日:2009年10月30日(金)03時06分59秒
  こんなものを書いています。
http://blog.nishinari.coop/wp-trackback.php?p=195
とりあえずご参考までに。
 

伊東静雄詩碑のメッセージ

 投稿者:morgen  投稿日:2009年10月25日(日)00時41分33秒
  住高詩碑を背景にした下村博士のスナップ写真(上原さん撮影)を拝見して、次のような沈黙の会話が、2人の間で交わされたのではないかという勝手な幻想をいたしました。
「伊東先生。ただいま帰りました。」
「下村君お帰りなさい。よう頑張ったなあ!」
詩碑は墓石ではないのですが、生前付き合いのある者にとっては「よー!」と挨拶をしたくなるものだと或る人が言っていましたが、詩碑を見て、人はどんなことを感じるのでしょうか?

[・・・・・]
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ・・・
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
(「曠野の歌」から)

 「住高の『曠野の歌』詩碑は、青年達にどのようなメッセージを発しているのか?」
こんな設問をして、昭和14年から昭和9年へ遡行する方法で、私なりの回答メモを作って見ました。少し強引で恥ずかしい感じもしますが、参考までに紹介します。(長文になってスミマセン)


1、「そんなに凝視めるな」(昭和14年)(諫早公園詩碑の省略部分)
[・・・・・]
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育だち
あヽ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

 誰だって、高い理想や夢は持っている。しかし、現実は厳しく、自我を貫き通すことは難しい。自然や目の前の現実社会と調和して生きることを考えたほうがうまくいく。「手に触れる野花はそれを摘みつつ、前進せよ! 生きよ!」

2、「八月の石にすがりて」(昭和11年)
 8月の炎天のもとで、蝶でさえ、短くとも幸多き生涯を送り、自分の運命を悟り泰然自若として息たゆるではないか。「運命? さなり!」「われも亦、」「われら自ら孤寂なる発光体」となって、ポジティヴに生きていこう。

3、「曠野の歌」(昭和10年)(住高詩碑)
 青年達が閉塞感に囚われ、ややもすれば生きる希望を喪いそうな世相の中で、自分の夢と社会の現実との間のギャップはあまりにも大きい。そんな苦しい時代に、詩人となって、炎のように燃える「詩心」を外部に表現していくことは「痛き夢」を見るようなものだ。そんな時は、セガンティーニが描くアルプスの白銀の峰や、メーリケの「屍骸を曳かむ馬」のことが、ついつい脳裏に浮ぶ。もしそうなれば内部世界の「わが痛き夢」も止むのであるが、外部世界からは生きること(眺めること、歩ますこと)を「私は強いられる」(昭和9年)のである。だから、過ぎ去った青春の夢に拘るのはもう止めて、もっと次元の高い夢を求め、孤独に耐えて生きてゆこう。

下村博士と伊東静雄の会話という出だしからは離れてしまいましたが、3,2,1と逆に読んで頂くと、伊東静雄詩碑から発せられるメッセージが聞こえてくるかもしれません。
 

下村博士の熱いメッセージ

 投稿者:morgen  投稿日:2009年10月16日(金)23時10分1秒
  下村博士をお迎えして、住高の校長先生のご配慮により、諫高同窓会関西支部からも3名の先輩がご参加いただいたと伺い、本当に「良かったなあ」と思います。
 各新聞社の記事内容や写真も、代表取材のためか画一的な内容となってしまい、下村博士が日本の青年達に本当に伝えたかった熱いメッセージの報道がいまひとつ弱かった感じを受けます。
 下村博士は、日本の青年達が、将来の科学や文化の展望の上に立った大きな(世界的視野での)夢を育んで、もっともっと努力するようにという熱いメッセージを、各地における講演を通じて、繰り返し訴えていらっしゃるように思います。超一流の研究者達が世界中から集まってくるアメリカで、いち早く研究成果を挙げ、学会で認められるためには、博士自身が本当に努力につぐ努力を重ねられたのだろうと推察いたします。(博士の目前で日々展開されている世界の最先端科学の研究事情を踏まえた日本の青年達へのアッピールでありましょうが)
私も、(残された短い人生ではありますが)けっして諦めたり投げ出したりすることなく、自分に与えられた(ささやかな)ミッションを誠実に履行していこうと思います。

(参考までに読売新聞の記事から抜粋して添付します。)
 名古屋大で約1年間かけてウミホタルの発光物質の抽出、精製に成功し、「どんなに難しいことでも努力すれば必ずできるという信念を得た」と強調した。若い世代には「基礎研究こそ将来の日本の発展を支える。ぜひ努力してほしい」と期待を寄せた。
(2009年10月15日  読売新聞)
 

下村博士記事の訂正

 投稿者:上原 充  投稿日:2009年10月16日(金)20時38分36秒
  2009.10.15 投稿した下村博士夫妻住吉高校訪問の中で、
1)下村博士の奥様のお名前を、晴美様と記しましたが、明美様のミスでした。
2)梅田のシティーホテルとは、ヒルトン大阪のことです。
 

下村博士夫妻住吉高校訪問

 投稿者:上原 充  投稿日:2009年10月15日(木)20時23分57秒
  昨年のノーベル化学賞の下村脩・晴美夫妻が、昨日2009.10.14 正午、母校の府立住吉高校を65年ぶりに訪問され、中野校長始め、学生、教師、職員、旧中の同期生の大歓迎を受けられました。博士のリクエストで昼食は当時の懐かしいメニューそのままのカレーを美味しく召し上がられたようで、私達も学生食堂で同じカレーを頂きました。在学当時の恩師伊東静雄と博士は奇しくも郷里が同じ諫早市でありますが、どこまで二人がそのことを意識されていたかは判りませんが、少なくとも博士の方は今でも伊東先生のことはよく憶えておられ、本日出席されていた同期生共々、綽名を乞食ならぬ「コーチャン」と呼んでいたと聞きました。当時は同期生始め、先生が日本を代表する浪漫派詩人とは知らず、また下村少年がノベル賞科学者になるとは想像だに出来なかったことでしょう。私達諫早高校卒の関西支部からも中野校長のご好意でお招き頂き、三人(あるかんば隊長・岩永、副隊長・芝切、事務局・上原)が出席し、我が母校の先輩でもある博士に初めて直に対面するまたとない機会に恵まれたことに感謝しています。
博士夫婦は旧表校門から、静雄の「曠野の歌」の詩碑が建つ道を通って校内に入られ、帰りも同じ道を、生徒一人一人と握手しながら帰られました。同日夕方に大阪市内の梅田のシティーホテルで開催された摂南大学主催のシンポジュームでの博士の講演「オワンクラゲ発光タンパク質の魅力」とパネルデイスカッションにも同高校の先生、生徒達と一緒に参加し、充実した忘れられない記念の一日となりました。(静雄の詩碑を横に、博士と芝切嬢のツーショトを挿入したいと思いますが、うまく行きますか?)
 

追記2/光る繭の陶酔を恵めよ

 投稿者:morgen  投稿日:2009年10月 7日(水)11時23分45秒
  10月5日12時36分配信 「産経新聞」に、以下のような記事がありましたので紹介します。

「ノーベル賞の下村さん、65年ぶり学食カレー」

 昨年10月、ノーベル化学賞を受賞した下村脩さん(81)が14日、約2年半在籍した大阪府立住吉高校(旧制住吉中学、大阪市阿倍野区)を65年ぶりに訪問する。同校には開校時からの食堂が現存しており、「思い出のカレーを食べたい」との下村さんのリクエストに応えて、当時を知る食堂関係者が65年前の味を再現して振る舞う。[・・・・・]

 なお、前々稿で、伊東静雄が大川縁の詩「路上]を書いたのが62年前と申しましたが、庄野潤三さんの「『反響』のころ−光る繭の陶酔を恵めよ」によると、「昭和21年5月から夏にかけてであった」(63年前)ようです。

 ―われに不眠の夜をあらしめよ
 ―光る繭の陶酔を恵めよ
 という詩句には、「われに陶酔を与えよ」と、40歳になって円熟し、創作意欲満々の決意や姿勢が表れていると思います。
「詩は陶酔だ。夏の炎天の行軍が楽しいやうに、思索には脳貧血に似た陶酔が必要だ」
(庄野さんの「『反響』のころ」から。皆さんもこの機会に是非ご再読下さい。)
 

追記/光る繭

 投稿者:morgen  投稿日:2009年10月 5日(月)15時49分45秒
  「光る繭」について調べるうちに、奇しくも「下村博士」に行き着きました。次のURLをご参照ください。   www.news.janjan.jp/area/0811/0811060948/1.php
●進化するシルク展 ノーベル賞の蛍光タンパク「光る繭」も  高崎市金古町の県立日本絹の里は十二月一日まで、企画展「進化するシルクの世界」を開いている。今月八日にノーベル化学賞を受賞した下村脩・米ボストン大名誉教授が発見した緑色蛍光タンパク質(GFP)を活用した「光る繭」など、シルクに関する最新の研究成果や実用化された製品を展示している。 光る繭は、GFPを注入した卵からかえった遺伝子組み換え蚕がつくる。青色の光を浴びると、繭は緑やオレンジ色に発色。来館者は余分な光をカットするメガネを掛け、光る繭に見入っている  上毛新聞ニュース
 

「ぶどういろのくもよ」(紫雲と暗雲)

 投稿者:morgen  投稿日:2009年10月 5日(月)13時51分53秒
    「雲に寄す」

街の上を一団の雲が流れている
葡萄色の色彩をしているから
たぶんオランダあたりからきたのであろう
[・・・・・]
雲よ
立ち上がる雲よ
ぶどういろの雲よ
いつもきょうの日のような
うつくしい雲であってくれ
(上村肇 「雲に寄す」から抜粋)

おしゃれな詩句です。長崎の空だから、オランダ渡りのワインカラーの朝焼け雲か夕焼け雲なのだろうと想像します。
(実際は中段[・・・・・]に「原爆雲」がくるシリアスな内容の詩なのですが・・・)
そんな葡萄色の雲の写真を撮ろうと淀川縁を散歩しながら思うのですが、なかなか「ぶどういろの雲」のシャッターチャンスには恵まれません。

昨日は、中之島中央公会堂で催された国際音楽祭(水都祭行事のひとつ)で、ラヴェルやドビュッシーなどの「水の精の音楽」と講演を聴きました。
ラヴェルの「オンディーヌ」は、透明度高く爽快な音楽。一方ドビュッシーの「ウンディーヌ」はドラスティックで、津波が押し寄せるような不気味な曲です。雲に例えれば「紫雲と暗雲」というところでしょうか。

ここは、今から62年前に、伊東静雄が「路上」(『反響』所収)という詩のなかで、次のように歌った場所でもあります。
[・・・・・]
そして向うに大川と堂島川がゆったりと流れている。
私もゆっくり歩いて行こうと思ふ
そして何ものかに祈らずにはをられない
―われに不眠の夜をあらしめよ
―光る繭の陶酔を恵めよ
 

庄野潤三さん新聞記事リンク

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 9月25日(金)11時58分4秒
  日刊新聞各社の庄野潤三さん死亡記事リンクが見つかりましたのでご案内します。

朝日新聞:
http://www.asahi.com/obituaries/update/0922/TKY200909220111.html

毎日新聞:http://mainichi.jp/select/person/news/20090922k0000e040038000c.html

産経新聞:
http://sankei.jp.msn.com/obituary/090922/obt0909221309000-n1.htm

東京新聞:
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009092201000211.html

読売新聞:http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090922-OYT1T00392.htm
 

ご冥福をお祈り申し上げます。

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 9月23日(水)12時00分30秒
   庄野潤三さん死去のニュースを今朝の読売新聞で読みましたので、記事のまま転載させて頂き、衷心より庄野潤三さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 芥川賞作家・庄野潤三さん死去
 小説「夕べの雲」「ザボンの花」など、かけがえのない家庭の姿を平明に描いた作家で日本芸術院会員の庄野潤三さんが、21日午前10時44分、老衰で死去した。88歳だった。 告別式は28日午後1時、川崎市多摩区南生田8の1の1春秋苑白蓮華堂。自宅は同区三田5の9088。喪主は妻、千寿子さん。 大阪市生まれ。父、貞一氏は大阪・帝塚山学院の創設者、兄、英二氏は児童文学者。海軍少尉に任官し、復員後は教師や、放送局のディレクターの傍ら同人誌に「愛撫」などを発表、注目された。55年、家庭の幸福と、そこに潜む危機を描いた「プールサイド小景」で芥川賞を受けた。 安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫さんらとともに「第三の新人」と呼ばれた一人。日常を静かに見つめ、人生を洞察した「静物」、66年に読売文学賞を受けた「夕べの雲」、71年野間文芸賞の「絵合せ」など、家庭小説を発表した。57年にロックフェラー財団に招かれ、米国で過ごした1年を描く「ガンビア滞在記」など紀行でも知られた。 晩年も「メジロの来る庭」など、孫の成長や近所づきあい、自然を慈しむ温かな作品を書いた。3年前に脳こうそくで半年入院し、自宅で療養を続けていた。(2009年9月22日13時33分  読売新聞)
 

金 武 町 立 図 書 館HP「詠唱」

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 9月 1日(火)16時54分25秒
  沖縄県金武町立図書館のHPに素晴らしいイラストをバックに伊東静雄の「詠唱」が掲載されているのを発見しましたのでご紹介します。

http://kin-lib.town.kin.okinawa.jp/

 

誠実一途に生きた先輩たち

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月27日(木)14時08分27秒
  2年程前(2007/9/17投稿)の今頃、斎藤様から車谷長吉氏のことを教えて頂いて、同氏が野呂邦暢「諫早菖蒲日記」を読んで感激したという京都の本屋を探したり、西洞院通丸太町上ル夷川町の「柿傳」に行ってみたり、帰りに烏丸二条「松栄堂」で匂い袋を買ったことを思い出します。
 野呂さんは、古田史学(九州王朝説)や自然保護運動に興味を持たれ、忙しい中で事務局の仕事まで引き受けられていたようで、生前の誠実なお人柄が偲ばれます。
 先日上村さんからご紹介いただいた旧制住吉中学第21期卒業生による「傘寿記念文集」も出版社からお送り頂き、拝読いたしました。 終戦当時15歳で、現在80歳を迎えられた方々の、生々しい「追憶の記録」です。
焼け野原になった大阪市街地やB29の編隊などの写真や絵も沢山載っています。生涯誠実な国語教師であり続けた伊東静雄が生徒たちを前に教壇で俯いている写真もあります。
終戦後の、食糧難の大阪で青春時代を送られた住中第21期卒業生(昭和ひと桁世代)の皆様方の今もなお燃え続けるパワーや結束力が、この分厚い文集に結実しているように感じて、深い感銘を受けました。また、伊東静雄に一章を設けられ、その思い出を綴ることによって大事に顕彰して頂いていることにも感激しました。伊東静雄は、終戦後はじめての授業に先立ち、生徒たちに深々と頭を下げて、「申し訳なかった」と詫びたそうです。
 

野呂邦暢 古い革張椅子

 投稿者:斉藤 勝康  投稿日:2009年 8月25日(火)16時05分54秒
  上村さんの投稿に誘われて上記のエッセイを久しぶりに図書館に借りにいきました。
以前あった書庫には野呂氏の本は無くなっていて別の書庫に移されていた。実は30年前、この本を図書館に注文したのは私でして今回4度目の再読をしたのです。

 紙面は黄色を帯びていたが戦記のことや諫早の自然のことを書かれていたことをほとんど忘れていたが、改めて氏の飾らない文章に感動を覚えたしだいです。(伊東静雄を知ったのは野呂氏の別のエッセイだったわけですが。)最後近くに、「帰郷者」の詩が全文載せられているのも興味深い。
 故郷喪失者の伊東と故郷に帰ってきた小説家には諫早という土地からくる共通する気質があるように思えます。次は「王国そして地図」ほかも借りてきて読むつもりです。この名エッセイ読まれないのは惜しい。文庫化になればと思います。
 

「温泉つき文学散歩」(?)

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月22日(土)23時36分40秒
   伊東静雄には「山科の馬場」という童話があり、書簡などから見ても山科〜琵琶湖を何回か訪れたようです。それに因んだ「文学散歩」という訳でもありませんが、山科から琵琶湖疎水沿いに一燈園〜小関越え〜三井寺を歩いて、琵琶湖沿いの「やまとの湯」というお風呂に入って、湖西線「大津京」から新快速で大阪へ帰りました。
 「小関(峠)越え」というのは、表街道の「大関(逢坂の関)越え」に対する裏街道のことで、歴史の舞台に幾度か登場します。今は人通りも少なく、山の中ではツクツクボーシやミーンミーン蝉、(数は少ないものの)ひぐらし(蜩)がないており、今年の「夏の終わり」を実感しました。
 このルートは、「あるかんば隊」からご紹介頂いた『湯めぐりウォーキングマップ』を歩いて見たもので、約10キロ(万歩計で約2万歩)のコースを歩いて程よくかいた汗を風呂で流して帰宅するという、本当にお手軽なお散歩ガイドです。(著者は小西尉司氏)
思いつきで午後から出かけても2〜3時間歩いて、最後には必ずお風呂(温泉)があるという、安直かつ健康的な『湯めぐりウォーキングマップ』で、関西在住の方は手近なコースから試してみて下さい。(興味のある方は「あるかんば隊」へ)
 

野呂邦暢「鳥たちの河口」

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 8月18日(火)17時08分0秒
  8月18日(火曜日)朝刊 読売新聞 九州の方へ〜名作とゆく山河〜乳井昌史氏著 ご覧下さい。諫早の風土と文学が抒情豊かに描かれています。  

「漂泊」−A・Tに−

 投稿者:morgen  投稿日:2009年 8月12日(水)09時42分30秒
   こんにちは ありがとうございました。よく理解できました。
『コギト』昭和十年八月号において、「漂泊」−A・Tに−と書かれていることを確認しました。このA・Tが「あおき たかまろ」のA・Tであることも間違いないでしょうね。
 また、「家島」のこともご指摘の通りで、この詩は、杉本秀太郎氏のように「私の放浪する半身」が、放浪の(冥界を彷徨った)果てに蘇生する「絶唱」と創造的に解釈することも可能である一方で、「家島」や「伝記的事実」に即して解釈することも可能であるという、「おしゃれな」詩であるともみることができます。
 

伊東静雄の献詞と家島のこと

 投稿者:上村紀元  投稿日:2009年 8月11日(火)23時50分19秒
  静雄は、数篇の作品を敬愛する人に献じていますが、「曠野の歌」(コギトS10年4月号)を萩原朔太郎氏に献じています。(詩集「わがひとに与ふる哀歌」では削除)「漂泊」の草稿は、「H島に寄す」が原題で、S10年6月小高根二郎の室を尋ねた靜雄は、原稿用紙を求めそそくさとしたため朗誦を始めた。(詩人、その生涯と運命)その後、詩文内容が彫琢され、詩題も「漂泊」に変更されーA・Tーにと記した。(コギトS10年8月)(詩集「哀歌」では削除)A・Tとは青木敬麿氏であることは間違いないと思う。H島とは、姫路の島「家島」のことである。家島は揖保町岩見港からも望まれる。家島のことについては、酒井百合子宛ての書簡にも出てくる。(家島のことや姫路のことや本明川のことがどっさり歌ってある筈です。)「家島」の名前の由来は、神武天皇が島内に入ると外の嵐はうってかわって波が穏かになったことから、まるで自分の家に居るように感じられたことから「家島」の名前がつけられたという。静雄の詩にも「あゝ幾歳を経たりけむ 水門の彼方/高まり 沈む波の揺籃」とある。また家島には、昔から赤坂清水と云う湧き水が存在し、島内の貴重な水源であったことも、ー入海の奥の岩間は孤独者の潔く水浴に真清水を噴くー「漂泊」の舞台が「家島」であることを裏付ける。  

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